第99話 火の国の牙と老軍師の算盤
島津左馬頭歳久と蒲生島津崇清の一行が、宇土の湊へ向けて矢部の山を下りてから三日後の夜であった。
愛藤寺城の評定の間には、松明の爆ぜる音と、男たちの荒い息遣いが充満していた。
「――納得できませぬ! 宗運殿、いや、親直殿! これは阿蘇の武門に対する裏切りではござらぬか!」
板敷きを拳で叩きつけ、血走った目で怒鳴り声を上げたのは、阿蘇家の譜代被官であり、南郷谷の騎馬衆を束ねる渡辺軍兵衛であった。
その周囲には、小国や砥用、御船の城預かりを務める屈強な地侍や武頭たちが二十名余り、いずれも肩を怒らせ、今にも太刀を抜き放たんばかりの殺気を漲らせて座り込んでいる。そして彼らの最前列には、唇を固く結んだ大宮司の弟・阿蘇惟種の姿があった。
上座の阿蘇惟将はすでに内牧の本宮へと還御しており、広間の正面にただ一人座すのは、白髪頭を静かに垂れた甲斐宗運親直のみである。
「裏切り、とな」
宗運は閉じていた目を開き、猛禽のような双眸で軍兵衛を睨めつけた。
「言葉が過ぎようぞ、軍兵衛。此度の盟約は、大宮司様ご自身が御神慮に照らして決断なされたことじゃ。お主、大宮司様の御裁可に異を唱えるか」
「大宮司様を言いくるめたのは貴殿であろうが!」
今度は御船の武頭、早川吉兵衛が膝を乗り出した。
「神階が従一位に上がるだの、一宮と内牧を神領として守るだの、それは神官どもの話だ! 俺たち武辺者はどうなる! 先祖代々、阿蘇の御旗のもとで血を流し、矢部を守り、大友や相良と渡り合ってきた誇りを捨てて、昨日今日日向をかすめ取ったばかりの薩摩者の草履取りになれと言うのか!」
「左様だ! 知行はそのまま、代官も送らぬなどと甘い言葉を並べておるが、所詮は島津の与力、風下の陪臣ではないか!」
惟種が堪えきれずに声を張り上げた。
「宗運! お主ほどの軍略があれば、たとえ大友が頼りにならずとも、この矢部と阿蘇の天険に籠もって島津を撃退できるはずだ! なぜ一戦も交えず、あの青二才の紙切れ一枚に膝を屈した! 老いて牙が抜けたか、宗運!」
罵声と怒号が広間を揺らす。
だが、宗運は眉一つ動かさなかった。
嵐のような突き上げがひとしきり収まるのを待ってから、老軍師は脇に置いていた鉄扇を手に取り、パァン、と乾いた音を立てて畳を打った。
「――抜けたのはわしの牙ではない。お主らの目玉の方じゃ、うつけ者どもが」
氷のように冷え切った宗運の低音に、広間の空気が一瞬にして凍りついた。
かつて阿蘇に背いた実の息子たちに毒を盛って殺し、親族をためらいなく斬り捨ててきた「火の国の怪物」の凄みが、老いた全身から黒い陽炎のように立ち昇る。
「天険に籠もって戦う、じゃと? 惟種様、そしてそこな軍兵衛、吉兵衛。……お主ら、いくさを何だと思っておる。庭先の犬の噛み合いとでも思っておるのか」
宗運は立ち上がり、広間の柱に掛けられた肥後一国の絵図面を鉄扇の先で突き立てた。
「よいか、目をひん剥いてよく見よ! 我が阿蘇がこれまで豊後の大友と対等に盟を結び、球磨の相良と睨み合ってこられたのは、わしの軍略が優れていたからばかりではない! 東に大友宗麟という六ヶ国を統べる巨大な重しがあり、南の島津は大隅や日向の伊東と泥沼の戦を続けて外へ出られず、北の龍造寺は大友を恐れて筑後川から南へ下りてこられなんだ! その三方の釣り合いの上に、かろうじて阿蘇の独立は乗っかっていたに過ぎぬわ!」
宗運の鉄扇が、絵図面の東――日向と豊後を激しく叩いた。
「だが、昨冬の耳川でその釣り合いは木っ端微塵に砕け散った! 大友は主力と名だたる宿老を失い、宗麟公は南蛮の神に狂うて社寺を焼き、いまや豊後の府内には島津の番船に海を塞がれて塩一升すら入っておらぬ! この秋を待たず、北からは肥前の龍造寺隆信が五万の大軍を率いて肥後へ雪崩れ込んでくるぞ!」
武頭たちがゴクリと唾を呑み込んだ。
「その時、もし我らが島津の誘いを蹴り、独立独歩の大名として立つと言うならどうなる! 北からは龍造寺の五万が押し寄せ、南からは薩摩・大隅・日向を呑み込んだ島津の精強が攻め登ってくるのじゃ! ……軍兵衛、お主の南郷谷の騎馬衆で、南北から挟み撃ちにする八万の敵をどうやって防ぐ! 矢部の谷に籠もれば、一年は持つかもしれぬ。じゃが二年目にはどうなる! 塩が尽き、鉛が尽き、百姓は飢えて山を逃げ出し、最後には阿蘇の御社まで火をかけられて灰になるのじゃぞ!」
「ぐっ……そ、それは……」
軍兵衛が言葉を詰まらせ、顔を歪めた。
「……じゃが、宗運殿!」
吉兵衛が食い下がるように声を絞り出した。
「島津の傘下に入れば安全だと申されるが、それとて島津が本当に約束を守るかどうかわからぬではござらぬか! 今は耳川の後で手が回らぬゆえ甘いことを言っておるが、龍造寺や大友が片付けば、いずれ約束を反故にして我らの土地を取り上げ、阿蘇の社領まで召し上げるかもしれぬ! 戦国の世に、他国の口約束など信じられようはずがない!」
「おう、その通りじゃ。わしも島津の善意など、毛筋ほども信じておらぬわ」
宗運がこともなげに言い放つと、惟種も武頭たちも呆気にとられたように目を見開いた。
「な、なに……? 信じておらぬのに、なぜ頭を下げたのだ、宗運!」
「信じたのは島津の人の心ではない。あの蒲生島津崇清という若造が組んだ『算盤と仕組み』じゃ」
宗運はゆっくりと腰を下ろし、鉄扇を膝の上に置いた。
「惟種様。あの崇清という男が、なぜわざわざ大隅の無名の社に『正一位』を取り、その足で阿蘇へ来て『健磐龍命の従一位を取り持つ』と申したか、お分かりか?」
「それは……阿蘇を釣るための餌であろうが」
「ただの餌ではない。あれは、島津自身の首にも縄をかける契約なのじゃ」
宗運の双眸が、暗い炎を宿して細められた。
「島津は都の近衛様や吉田家を動かし、『我らが祀るオシホミミ尊は、肥後一宮・阿蘇神社の健磐龍命の祖神にあたりまする』と朝廷に申し立てて正一位を得た。……つまり、天下の朝廷や公家どもの目から見れば、阿蘇神社が健在であり、島津とともに祖神を敬っておるという事実こそが、島津の正一位の『証人』になっておるのじゃ」
「……あっ」
惟種が小さく声を漏らした。
「もし島津が後になって約定を破り、阿蘇の社領を奪ったり、大宮司家を蔑ろにしてみよ。忽ち『島津は朝廷を欺き、御孫神の阿蘇を踏み躙った偽り者よ』と天下の寺社や公家どもから袋叩きに遭う。大友宗麟が社寺を焼いて滅びかけているのを逆手に取って『神仏の守護者』の看板を掲げた島津にとって、阿蘇を傷つけることは、己の看板に泥を塗って腹を切るに等しい愚行なのじゃ!」
宗運はさらに指を一本立てた。
「それだけではない。あの崇清は、会談の後の茶席で、わしにこう囁きおった。『阿蘇山の硫黄と、阿蘇野で育つ良馬、そして矢部の杉材を、宇土の湊から高須の船団で買い上げたい。代わりに大隅の安い塩と鉄、南蛮の薬を矢部へ直に入れましょう』とな」
広間の武頭たちが、ざわめきとともに顔を見合わせた。
山国の阿蘇にとって、最も高くつくのが「塩」と「鉄」であり、逆に持て余しているのが火口の硫黄と広大な草千里の馬、そして山林の木材であった。
「よいか。島津が自前の代官を送り込んでお主らから土地を取り上げれば、お主らは一揆を起こし、山に籠もって硫黄も馬も出さなくなるであろう。崇清はそれが一番『銭の損になる』と計算しておる男じゃ。……お主らにそのまま土地を治めさせ、塩と鉄を回して機嫌よく馬と硫黄を掘らせた方が、島津の蔵が何倍も潤う。己が得をする仕組みを、誰がわざわざ壊すものか!」
誰も、二の句が継げなかった。
「武士の情け」や「起請文の神罰」ではない。
「阿蘇を守り、現地の武士団をそのまま生かしておいた方が、朝廷への威信の上でも、商いの算盤の上でも、島津にとって圧倒的に得になる」という冷徹な損得勘定の檻。それこそが、崇清が提示した「永久安堵」の正体だったのである。
「……じゃが、勘違いするなよ、お主ら」
感嘆しかけた武頭たちへ、宗運は最後に冷水を浴びせるように言い放った。
「島津がただで塩と鉄砲をくれると思うな。我らが島津の重臣・与力となるからには、当然、その分の『働き』が求められる。……北から龍造寺の熊が肥後へ踏み込んできた時、その最前線で血を流して牙を食い止めるのは、他の誰でもない、この甲斐宗運と、お主ら阿蘇の武士団じゃ!」
宗運は白髪の混じる顎髭を撫で、獰猛に口の端を吊り上げた。
「大宮司様は神の御座へと還られ、六百年来の悲願たる従一位の冠を戴かれる。阿蘇の社は未来永劫、戦火に焼かれることはない。……なれば、我ら武辺者はもう後ろを振り返るな! 島津から送られてくる大量の鉛と火薬を腹いっぱい喰らい、肥後の北へ攻め寄せる龍造寺の首を狩りまくって、薩摩の連中に『火の国の武士ここにあり』と吠え面かかせてやればよいのじゃ!」
その言葉は、屈辱に塗れていた阿蘇の武士たちの胸に、全く別の熱い火を灯した。
主家は滅びたのではない。神の座へ昇ったのだ。
そして自分たちは、その神域を守る最強の盾として、島津の豊富な兵站を背負い、宿敵・龍造寺と存分に槍を交えることができる。
「……へっ。龍造寺の熊狩り、か」
渡辺軍兵衛が、先刻までの怒気を引っ込め、不敵に鼻を鳴らして太刀の柄を叩いた。
「島津の塩と鉄砲を使い倒して、肥前の連中を叩き潰してやるとすりゃあ……悪くねえ話かもしれんな!」
「違いない! 薩摩の若造に『さすがは甲斐宗運の郎党よ』と言わせてやろうぜ!」
早川吉兵衛もニヤリと笑い、広間の武頭たちから次々と力強い賛同の声が上がった。
最前列の阿蘇惟種も、大きく息を吐き出すと、憑き物が落ちたような顔で宗運に向き直り、深く頭を下げた。
「……宗運。わしが浅慮であった。兄上(惟将)は神職として阿蘇の神威を高め、わしはお主とともに武門の牙として肥後を守る。それでこそ、阿蘇の家は万代まで続くのじゃな」
「はっ。若殿がそう腹を括ってくだされば、この宗運、冥土への土産ができましたわい」
宗運は恭しく平伏しながら、誰にも見えぬよう、胸の奥でひっそりと安堵の息を吐いた。
こうして、火の国・肥後の中央に蟠踞する最強の武士団は、一人の脱落者も反乱者も出すことなく、島津の北方を守る最も獰猛で忠実な「防波堤」へと生まれ変わったのである。
ついに本伝99話……本当に読者の方のおかげです……ありがとうございます……




