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第五部終了『蒼溟の覇王 ―島津海洋帝国記―』 〜「死んだら売上ゼロだろ」 戦国薩摩の捨て石から、畳の上で死ぬために組織と兵站を組んで海洋覇権を握るまで〜  作者: 堀川うつら
第6部 「血を流さない南九州制覇」

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第98話 老軍師の降伏と神道の首輪

従一位の奏上、もしこれが、実績も持たぬ他国の使者の口約束であったなら、甲斐宗運は鼻で笑って一蹴していただろう。だが、目の前の畳の上には、大隅国肝属郡獅子目の無名の社に「正一位」を下したばかりの、墨の香も生々しい本物の口宣案と吉田家の神階執奏状が置かれているのだ。


「……従一位の、奏上……」


 上座の阿蘇大宮司・惟将が、震える指先で自らの白い斎服の膝を握りしめた。  その青白い頬に、病の熱とは違う紅潮が浮かんでいる。延喜の昔より六百年余り、肥後国一宮・名神大社として君臨しながらも、決して手が届かなかった「一位」の神階。武家にとっての至上の価値が「一国一城の領地」であるならば、神代より祭祀を継いできた大宮司家にとって、朝廷から賜る「神階」とは、この世のいかなる所領よりも重い家の魂そのものであった。領地は戦の勝敗ひとつで奪われ、焼かれる。だが、帝の勅許によって刻まれた健磐龍命の神位は、天地が覆らぬ限り永遠に阿蘇の神威を照らし続けるのだ。


「待て、待つがよい!」


 恍惚としかけた広間の空気を振り払うように、弟の惟種が鋭く声を上げた。


「口先ではいかようにも甘いことが言えよう! 祖神オシホミミの正一位を盾に、我が阿蘇の従一位を取り持つなど……要はそれを餌にして、阿蘇に島津の軍門へ降れと申すのであろうが! 神代よりこの火の国を統べてきた大宮司家が、薩摩の武家に膝を屈するなど――」


「膝を屈していただく必要など、微塵もございませぬ、惟種様」


 惟種の激昂を、歳久が涼やかな声で遮った。歳久は白檀の扇子を膝の前に置き、惟将と宗運の二人を等しく見据えて言った。


「我ら島津がお願い申し上げておるのは、阿蘇家に『武家としての無理な背伸び』をおやめいただき、神代よりの本分たる『祭祀の主』へと還っていただくことでございます」


「……本分へ還る、じゃと?」


 宗運が低い声で聞き返した。老軍師の鋭い双眸が、歳久から崇清へと移る。  崇清は静かに頷き、懐から九州の略図と、一通の目録を取り出して広げた。


「宗運殿。単刀直入に申し上げます。……いま、この肥後と阿蘇を取り巻く情勢がどうなっておるか、貴殿ほどの知将が見誤っておられるはずがない」


 崇清の指先が、略図の東――豊後の府内をトントンと叩いた。


「長年、阿蘇が肥後の独立を保つための防波堤として頼んでこられた豊後の大友家は、もはや往時の大友ではございませぬ。耳川で主力を失ったのみならず、当主の宗麟公は南蛮の伴天連に心酔し、領内の神社仏閣を次々と焼き払っております。すでに宇佐八幡の神官たちすら、宗麟公の暴挙から逃れて我ら島津の庇護を求めて日向へ落ちてきている有様です」


 惟将の眉が、強い嫌悪に歪んだ。神職の頂点に立つ者として、社寺を灰にする宗麟の狂乱は到底看過できるものではなかった。


「さらに、豊後水道と日向灘の海路はすでに我が島津の船団が完全に押さえ、府内への塩も鉄も止まっております。……それだけではありませぬ。先日、我らが近江の安土城にて織田右大将(信長)様と会見した折、右大将様よりも『神仏を焼き、南蛮に土地を売る大友の狂乱は捨て置けぬ。西国の静謐は島津の差配に任せる』との内諾をいただきました」


「なっ……織田が、大友を見限ったと申すか!?」


 惟種が顔色を失った。  宗運は一言も発しなかったが、その額の皺がいっそう深く刻まれる。上洛した島津の使節が、都で何をしてきたのか――その答えが、最悪の形で突きつけられたのだ。


「東の大友は遠からず内側から自壊し、都の名家として棚上げされます。そして大友の重しが消えた北からは、肥前の龍造寺隆信が飢えた熊のように筑後・北肥後へと雪崩れ込んでくるでしょう」


 崇清はそこで言葉を止め、宗運の目をまっすぐに射抜いた。


「宗運殿。阿蘇家は本来、健磐龍命をお祀りし、火の国の安寧を祈る神聖な大宮司家です。そのお家が、なぜこれまで血みどろになって鎧を着込み、城を築き、戦国大名として戦い続けてこられたのか。……すべては、荒れ狂う乱世の狼どもから阿蘇の神域と社領、そして祭祀の火を守り抜くためであったはずです」


 広間がシンと静まり返った。実の息子や親族を斬ってまで阿蘇の武を支えてきた宗運の人生、その孤独な業の核心を、南国の若造が正確に言い当てたのだ。


「ですが、東の大友が消え、北から龍造寺の大軍が押し寄せるこれからの戦において、阿蘇谷の限られた石高と兵力だけで四方の敵と戦い続ければどうなるか。……どれほど宗運殿の軍略が神懸かっていようとも、兵糧は尽き、社領は荒れ果て、最後には守るべき阿蘇の社殿そのものが戦火に焼かれることになりましょう」


「……ならば、島津はどうすると申される」


 宗運が、絞り出すような声で問うた。


「守るべきものと、手放すべきものを分けるのです」


 崇清は目録を宗運の前へと滑らせた。


「第一に、阿蘇の外輪山の内――この一宮と内牧を中心とする阿蘇谷の一部の本領は、阿蘇神社の不可侵の『社領』として我が島津が永久に安堵いたします。社殿の修造や毎年の祭祀にかかる費用も、島津が寄進をもって全面的に支えましょう」


「……内牧、一宮を不可侵の神領に」


 惟将が息を呑んだ。阿蘇谷のカルデラ内部の神社の膝元が丸ごと守られるならば、大宮司家と神官一族が神事を執り行い、豊かに暮らしていくには十分すぎるほどの土地である。


「第二に、阿蘇家の安全保障はすべて我が島津が引き受けます。北から迫る龍造寺の侵略に対しても、大友の残党の狼藉に対しても、島津の軍勢と鉄砲、そして大砲が盾となって阿蘇の神域を決して侵させませぬ。……つまり、大宮司様はもはや、社を守るために自ら甲冑を着て戦国大名であり続ける必要がなくなるのです」


 崇清の声は、どこまでも穏やかで理路整然としていた。


「その代わり、第三として。阿蘇谷の外側に広がる矢部や御船などの武家領地――すなわち『戦国大名としての阿蘇の枠組み』は、ここで解いていただきます」


「なに……ッ!?」


 惟種が腰を浮かせかけたが、宗運が片手を挙げてそれを制した。


「……先を続けられよ、蒲生殿。矢部や御船を手放せと申されるなら、そこに住まう我ら阿蘇の武士団や郎党はどうなる。薩摩から島津の代官が乗り込んできて、我らの土地を取り上げるとでも申されるか」


「いいえ。薩摩から新しい領主や代官を送り込むつもりは、一切ございませぬ」


 崇清ははっきりと首を横に振った。


「見知らぬ代官を入れれば、土地のしきたりとぶつかり、無用な揉め事や無法が起きるだけです。ゆえに、宗運殿をはじめとする阿蘇の武家衆には、そのまま島津の『与力』――とりわけ宗運殿には、我が島津家の『重臣格』として迎え入れさせていただき、これまで通り矢部や御船の土地と兵をそのまま治めていただきます」


 宗運の目が、大きく見開かれた。


「……某らに、そのまま旧領を治めさせる、と?」


「はい。看板が『大名・阿蘇家』から『島津の重臣・甲斐宗運殿の預かり地』に変わるだけです。家臣の方々の知行も暮らしも何一つ変わりませぬ。それどころか、龍造寺が北から攻め寄せてきた折には、島津から宗運殿のもとへ、惜しみなく兵糧と鉛、火薬、そして最新の火器を補給いたします」


 崇清は言葉を結び、上座の惟将に向かって深く頭を下げた。


「大宮司様は、泥臭い領地争いや兵糧の算段から手を離され、清らかな神職の本分へと還られる。そして我ら島津とともに上洛し、祖神オシホミミ尊の正一位に連なる御孫神として、健磐龍命の『従一位』昇叙を朝廷へと奏上する。……これが、我ら島津が阿蘇の大宮司家に捧げる盟約にございます」


 広間に、深い沈黙が落ちた。  だがそれは、先刻までの殺気立った沈黙ではなかった。


 宗運は膝の上の拳をゆっくりと解き、目の前の若武者――蒲生島津崇清の顔を、穴が開くほどに見つめた。


(……なんという、恐ろしい小僧じゃ)


 老軍師の背筋を、冷たい感嘆の震えが駆け抜けていく。  もし島津が「耳川で勝った武威」を振りかざし、領地をよこせ、降伏せよと迫ってきたならば、宗運は迷わず矢部の谷に籠もり、阿蘇の郎党とともに最後の一兵になるまで島津の血を啜って死んだだろう。  だが、この崇清という男はどうだ。  阿蘇家がなぜ武装しているのか――その根本の目的が「祭祀と社領の維持」にあることを完全に見抜き、「その目的を島津が百パーセント保証し、さらに数百年来の悲願である従一位への道まで開くから、もう無理をして武装する必要はないでしょう」と、戦う理由そのものを根っこから抜き去ってしまったのだ。


 しかも、武家である甲斐一族や家臣団の知行と面目は「代官を送らず、宗運を島津の重臣格として現地をそのまま治めさせる」という形で完璧に守られている。  阿蘇の大宮司家は「武家に屈して領地を削られた」のではない。「朝廷の権威と祖神の導きによって神職の本分に還り、従一位への階段を登る」という、これ以上ない大義名分と誇りを手に入れるのだ。


(刀を一寸も抜かず、一滴の血も流さず……神の系譜と朝廷の紙切れ、そして完璧な算盤だけで、肥後最大の要害たる阿蘇の牙を綺麗に抜き取りおった。……わしが六十年の生涯をかけて築いてきた軍略など、この若造の描く『仕組み』の前では児戯に等しいわ)


 完敗であった。しかも、悔しいことに、これ以上に阿蘇の社と家臣たちを確実に生き残らせる道は、この乱世のどこを探しても存在しないのだ。


「……宗運」


 上座から、大宮司・惟将の静かな声が落ちてきた。惟将の瞳には、すでに迷いの色はなかった。神職としての魂が、目の前に示された「従一位への道」と「神域の永久安堵」に強く共鳴しているのが見て取れた。


「大宮司様。……この宗運、もはや申し上げる言葉もございませぬ」


 宗運はゆっくりと畳に両手をつき、深く、深く白髪頭を垂れた。


「左馬頭様、ならびに蒲生様。……この甲斐宗運が老骨と、阿蘇の武門の槍働き、本日より島津のお家に預け申す。どうか約定通り、我が阿蘇の神域と大宮司様の御誇りを、末代までお守りくだされ」


「そ、宗運!? 本気か、おい!」


 惟種が慌てて叫んだが、宗運が鋭い一瞥をくれると、「大宮司様のご決断じゃ。控えられよ」という無言の圧力に呑まれ、ぐっと唇を噛んで平伏した。


「――しかと承りました、宗運殿」


 歳久が鷹揚に頷き、崇清とともに丁寧な礼を返した。  天正五年初夏。火の国の中心に聳える難攻不落の宗教領主・阿蘇家は、この日、一本の矢も放つことなく「戦国大名」としての歴史に自ら幕を下ろし、島津が敷いた新たな神道と経済の秩序へと組み込まれた。そして、阿蘇という最大の後ろ盾が島津の傘下に入ったという報せは、すぐさま南肥後の球磨・八代を領する相良義陽のもとへと走り、彼を完全なる孤立へと追い込んでいくことになるのである。


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