第97話 阿蘇神話と祖神の鎖
矢部・愛藤寺城の大広間には、山あいの冷気とは質の異なる、刃物めいた張り詰めた空気が澱んでいた。
上座の中央に座すのは、白い斎服の上に直垂を重ねた若き当主――阿蘇大宮司・惟将である。病弱ゆえかその頬は青白く痩せているが、神代より続く祭祀の血統を継ぐ双眸には、犯しがたい静謐な気品が宿っていた。 その左手には血気盛んな弟の惟種が控え、そして右手――事実上の阿蘇の頭脳であり牙である筆頭家老・甲斐宗運親直が、巌のように膝を折って座していた。
対する下座には、涼やかな麻の狩衣姿の島津左馬頭歳久と、黒漆塗りの文机箱を脇に置いた蒲生島津崇清の二人が、微塵の気負いも見せずに端座している。
「――遠路はるばる、都よりのご帰還、まずは祝着に存じまする、左馬頭殿」
静寂を破ったのは、宗運の低くしゃがれた声であった。 老軍師の猛禽めいた瞳が、歳久と崇清を値踏みするように射抜く。
「なれど、些か解せぬこともござる。昨冬、耳川にて大友の四万を打ち破られた島津のお歴々が、薩摩の館へ凱旋されるより先に、わずか百の手勢でこの矢部の山中へ登ってこられた。……我が阿蘇は長年、豊後の大友と盟を結んできた身。これは、耳川の勢いに乗じて阿蘇にも膝を屈せよという、無言の恫喝と受け取ってよろしいのかな」
隣に座る惟種の肩がピクリと跳ね、太刀の鯉口へ親指がかかる。 一触即発の先制攻撃。だが、歳久は白檀の扇子を膝の上でゆっくりと閉じ、穏やかな笑みを浮かべて頭を下げた。
「滅相もござらぬ、宗運殿。神代より火の国の鎮守として君臨される大宮司家の御威光を、我ら島津が武威で脅かすなど、神罰を恐れぬ所業にござる。……我らが兵を連れず、甲冑も纏わずに参ったのは、阿蘇と刃を交える気など毛頭ないという証左にございます」
「ほう。戦をしに来たのではないと申されるか。ならば、その物々しい桐箱には、どのような手土産が詰まっておるのじゃな」
宗運の視線が、崇清の脇に置かれた箱へと吸い寄せられた。 歳久が一瞥を送ると、崇清は静かに一礼し、文机箱の紫の組紐を解いた。中から取り出されたのは、さらに白木の桐箱に納められた二通の公文書であった。
「大宮司様、ならびに宗運殿。本日お目にかけるのは、薩摩の土産ではございません。……先日、京の禁裏にて主上よりじきじきに下賜されました、朝廷の御沙汰書にございます」
崇清が恭しく畳の上に広げたのは、最高位の宿紙に墨痕鮮やかに記された文書であった。 武家伝奏・勧修寺晴豊の加判と弁官の署名が並び、その隣には神祇官代・吉田兼見による裏書きの執奏状が添えられている。
「……これは」
宗運が目を細め、身を乗り出した。 そこに記された文字を読み下した瞬間、歴戦の老軍師の眉間がピクリと引き攣った。
『――大隅国肝属郡獅子目、若一王子神社。宜しく正一位に叙すべし』
「……正一位、だと?」
惟種が信じがたいものを見る目で絶句し、上座の惟将もまた、小さく息を呑んで身を乗り出した。 無理もない。神階における「正一位」とは、天下の神社の中でも最高峰の極位である。九州屈指の名神大社であり、肥後国一宮として数百年君臨してきたこの阿蘇神社でさえ、延喜の昔より「正二位」に据え置かれたままなのだ。
「ま、待て! 大隅の獅子目などという辺境の小社が、なにゆえ我が阿蘇をも凌ぐ正一位などを賜るのだ!?」
惟種が思わず声を荒らげた。
「贋作ではないのか!? いかに島津が耳川で勝ったとはいえ、田舎の無名の社に、朝廷が極位を下すなどあり得ぬ話だ!」
「惟種様、お控えなされ」
宗運が鋭く制した。その老いた目は、宿紙の紙質と吉田家の朱印から一寸も離れていない。
「……紙も墨も、弁官の筆致も、そして吉田家の執奏状も、紛れもない本物にござる。このような公文書を偽造すれば、いかに島津とて即座に朝敵となり申す」
宗運はゴクリと喉を鳴らし、冷たい汗が滲む額を上げて崇清を睨みつけた。
「蒲生殿とやら。……いったい都でどのような手品を弄した。どれほど黄金を積もうとも、由緒なき田舎の社に正一位が下る道理などないはずじゃ」
「手品など使っておりませぬ。また、無名の小社に位が下ったのでもございませぬ」
崇清は涼しげな顔で背筋を伸ばし、もう一巻の古びた巻物――『飯隈文書』の写しを広げた。
「正一位は、我が獅子目の社に与えられたのではないのです。そこに祀られております主祭神――皇祖・天照大御神の第一の御子にして、天孫ニニギノミコトの父君であらせられる『正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊』の御神威に対して、朝廷が本来あるべき極位を奉られたのでございます」
「……天忍穂耳尊、だと?」
大宮司・惟将が、初めてその白い唇を開いた。神職の頂点に立つ彼にとって、神統譜の系図は己の血肉そのものである。
「左様にございます、大宮司様」
崇清は惟将の目をまっすぐに見据え、静かに、しかし抗いがたい理路を紡ぎ出した。
「我が大隅の社家に伝わる古記録『飯隈文書』には、記紀が編まれる以前の古き神統の由緒が記されております。天照大御神の御子たるオシホミミ尊こそが、高天原の初代統合王として君臨し、大国主との信義による国譲りを成し遂げ、御子ニニギノミコトを南方へ遣わされた根源の皇祖神であると。……関白・近衛前久公、ならびに吉田兼見卿は、この由緒を正統なる古伝として認められ、主上への奏聞を経て、皇祖オシホミミ尊へ正一位を宣下されたのです」
広間が、水を打ったように静まり返った。 宗運の脳裏で、恐るべき速度で算盤が弾かれる。 阿蘇神社の主祭神・健磐龍命は、初代・神武天皇の孫神にあたる。 神統譜を遡れば、オシホミミ → ニニギ → ホオリ → ウガヤフキアエズ → 神武天皇 → 神八井耳命 → 健磐龍命。 すなわち、島津が正一位を勝ち取った「オシホミミ」とは、阿蘇の健磐龍命にとって六代遡る直系の遠祖(祖神)に他ならない。
(……なんという仕掛けじゃ)
宗運の背筋に、氷を流し込まれたような戦慄が走った。 もし島津が、八幡神や諏訪神、あるいは島津一族の氏神などを担ぎ出して「阿蘇より上の位を取ったぞ、従え」と迫ってきたなら、阿蘇の神官団は誇りを傷つけられ、血を流してでも徹底抗戦を選んだだろう。 だが、相手は「天照の長男・オシホミミ」なのだ。 自らの直系の祖神が最高位の正一位に祀り上げられたことに対し、子孫の神を祀る阿蘇神社が「不服である」などと異を唱えることは、神道の理屈として万に一つも許されない。それどころか、祖神の格が上がったことは、子孫たる健磐龍命の血統の価値をも引き上げる慶事となってしまうのだ。
宗運が言葉を失っている間に、崇清は穏やかな微笑を浮かべたまま、決定的な「餌」を畳の上に滑らせた。
「大宮司様、宗運殿。我ら島津は、阿蘇神社を格下として従属させよなどと申すつもりは毛頭ございませぬ。むしろ逆でございます」
「……逆、とは?」
惟将が掠れた声で問い返す。
「祖神たるオシホミミ尊が正一位となられた今、その正統なる御孫神・健磐龍命を祀る肥後一宮・阿蘇神社が、いつまでも『正二位』に留まっておられるのは、朝家の神祇の秩序において片手落ちと申せましょう」
崇清の声が、広間の隅々にまで凛と響き渡った。
「我が島津は、近衛前久公と吉田兼見卿を通じ、この朝廷への太い道筋をすでに開いております。……阿蘇の大宮司家が、祖神オシホミミを奉じる我らと手を携え、九州の神道を守る盟約を結んでくださるならば。島津が責任を持って朝廷へ執奏し、阿蘇神社を『従一位』へと昇叙への奏上を行うことをお約束いたします
。もちろんそれの可否はお上の決めること、ここで成就を確約などと不遜なことはできかねますが島津としては阿蘇家の方とともに上京しできる限りの手を打つことは約束いたします。」
「じゅ、従一位……ッ!?」
惟将の細い肩が大きく震え、惟種が目を見開いた。 延喜の時代から六百年以上、どれほど願っても届かなかった「一位」の冠。それが今、目の前の若武者が差し出した本物の『正一位口宣案』という実績の裏付けとともに、手の届く場所へぶら下げられたのである。
宗運は膝の上で、己の拳を血が滲むほど固く握りしめていた。 誇りを傷つけるどころか、阿蘇の数百年来の悲願を叶えてみせると言う。だが、もしその甘美な果実を呑み込めば――「正一位の祖神(島津)」と「従一位の孫神(阿蘇)」という、神々の絶対的な序列が朝廷公認のもとで確定し、阿蘇は永久に島津の敷いた祭祀の枠組みから逃れられなくなる。
刃を一寸も抜かず、神話の血脈と朝廷の紙切れ一枚で、火の国の巨人の喉元へ黄金の首輪が突きつけられた瞬間であった。
阿蘇氏は戦国大名ですが一応その本質は祭祀家ですからね…
次は7次投稿予定です。




