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第五部終了『蒼溟の覇王 ―島津海洋帝国記―』 〜「死んだら売上ゼロだろ」 戦国薩摩の捨て石から、畳の上で死ぬために組織と兵站を組んで海洋覇権を握るまで〜  作者: 堀川うつら
第6部 「血を流さない南九州制覇」

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第96話 火の国の軍師と南国の船

第96話 火の国の軍師と南国の船

 有明海の潮風は、瀬戸内のそれと比してわずかに重く、温い湿り気を帯びていた。

 天正五年初夏。肥後国・宇土の湊へ滑り込んできた三隻の大型関船の白帆には、丸に十文字の島津の家紋がはっきりと染め抜かれていた。

 だが、湊の波止場に降り立った島津使節団の躰には、物々しい甲冑の擦れ合う音はほとんどない。先頭に立つのは、涼やかな麻の狩衣を纏い、腰に細身の太刀を一振だけ佩いた島津左馬頭歳久。そしてその半歩後ろに、黒漆塗りの厳重な文机箱を抱え、軽装の小袖姿で周囲の地形を検分している蒲生島津崇清がいた。

「……若、本当にここから阿蘇の山奥まで登るんですかい? 宇土の船頭どもに聞いたら、この先の谷は天険の要害で、一歩足を踏み入れれば山賊だか修験者だか分からねえ阿蘇の郎党が、崖の上から矢衾を浴びせかけてくるって脅されましたぜ」

 船から輜重車の手配を終えて戻ってきた弥三郎が、首筋の汗を拭いながら小声でぼやいた。

「山賊じゃない。あれは神様の縄張りだ」

 崇清は宇土の町並みを抜け、緑川の河口から東――濛々と白煙を吹き上げる阿蘇五岳の稜線を遠く見やりながら、淡々と応じた。

 道端の辻には、注連縄(しめなわ)の張られた古い石祠がいくつも並び、行き交う馬子や百姓たちはその前を通るたびに深く頭を垂れている。武家の高札よりも、神罰への畏れが土地の隅々にまで根を張っている証拠だった。

「阿蘇の大宮司家は、神代の昔からこの火の国に座り続けてきた連中だ。城を一つ落として首を挿げ替えれば済む武家大名とは、根っこの造りが違う」

 崇清は歩みを止めず、足元の街道の勾配と、緑川の水量を冷徹な目で測っていた。

 宇土から緑川を遡り、矢部、そして阿蘇谷へと至る道程。標高差は優に千メートル近い。

 足元の土は、大隅のシラスにも似た脆い火山灰の黒土だ。ひとたび雨が降れば街道は深い泥濘と化し、兵糧を積んだ荷車の車軸はたちまち悲鳴を上げるだろう。

 外輪山に囲まれた巨大な盆地は、攻め手にとっては入り口が極端に狭く、見晴らしの利かない渓谷と深い森が幾重にも連なっている。

(……ここに万の兵を押し込めば、前線へ米一石を届けるのに、後ろで三石の米を食いつぶす計算になるな。しかも、脇道を知り尽くした阿蘇馬の騎馬衆に荷駄を突かれれば、一たまりもない)

 力攻めなど、算盤の合わぬ愚策の極みだ。山岳戦の泥沼に足を取られれば、薩摩・大隅・日向を束ねてようやく蓄えた銭と米など、ひと夏で綺麗に吹き飛んでしまう。

 崇清が頭の中で輸送の歩留まりを弾いていると、隣を歩く歳久が白檀の扇子を広げ、からかうように弟を見やった。

「正面から喧嘩を売らぬのなら、なぜわざわざ薩摩への直行航路を曲げてまで、この険しい山中へ乗り込むのだ? 豊後の大友との決着がまだついておらぬ今、肥後の阿蘇を刺激するのは上策とは言えぬが」

「刺激しに行くんじゃありませんよ、左馬頭兄上」

 崇清は小脇に抱えた文机箱の紐を指先で弾き、薄く笑った。

「阿蘇がこれまで通り、大友にも島津にも深入りせず、肥後の重しとして座っていてくれるうちはいい。ですが、豊後水道の封鎖で大友が立ち枯れ、北から肥前の龍造寺が牙を剥いて南下を始めた時……もし阿蘇が焦って反島津の勢力と結び、我らの横腹を突く敵に回れば、九州の平定は十年遅れます」

「相違ないな。阿蘇の神威は肥後一国のみならず、豊後や日向の山間部にまで根を張っておる。敵に回せば厄介極まりない」

 歳久が理知的な双眸を細める。

「だからこそ、先手を打って『首輪』を嵌めるんです」

 崇清の声が、静かな熱を帯びた。

「『島津の軍門に降れ』と力で脅せば、誇り高き大宮司家は山に籠もって徹底抗戦を選ぶでしょう。……だから、武力では絶対に手に入らない、あちらが喉から手が出るほど欲しがっている『朝廷の権威』を餌にして、向こうから喜んで島津の秩序に乗っかってもらうんですよ」

 崇清の抱える桐箱の奥には、正親町天皇の勅許により下賜されたばかりの朝廷の最高公文書――『大隅国肝属郡獅子目、若一王子神社・神階正一位口宣案』が、静かに眠っていた。

 *

 宇土から東へ十里。険しい山嶺に抱かれた阿蘇南方の要衝、矢部・愛藤寺城。

 深緑の渓谷と九州中央部の山々を一望できる城の奥座敷にて、一人の老武将が眉間に深い縦皺を刻み、届けられたばかりの急報の文を食い入るように睨みつけていた。

 甲斐宗運親直。

 御年六十を超えながら、鋼のように引き締まった身体と、猛禽を思わせる鋭利な双眸には、いささかの衰えもない。

 阿蘇大宮司家三代に仕え、数多の合戦を奇謀と冷徹な軍略で勝ち抜いてきた、火の国屈指の宿老である。かつて阿蘇家を裏切ろうとした実の我が子や親族であっても、主家存続のために躊躇なく成敗したという、血塗られた業を背負う男であった。

「……宇土に入った島津の船、間違いなく上洛帰りの使節団であるのだな」

 宗運の低く濁った声が、板敷きの間を重く震わせた。

「はっ」

 平伏する草の者が、額に汗を滲ませて答える。

「耳川の軍功を報ずるため、春先に東へ向かった船団に間違いございませぬ。使節の長は、島津の知恵袋と名高い次弟・島津左馬頭歳久。そして……大隅の蒲生島津を束ねる末弟、崇清と名乗る若武者にございます」

「……耳川の立役者が、二人揃ってか」

 宗運の節くれ立った指の中で、報告の和紙がギリリと軋んだ。

「供回りの兵力は?」

「わずか百余名。輜重車には甲冑や長槍の類はなく、都の錦織や茶の葉、それと何やら厳重に封印された桐箱を積んでいるのみにございます。……後続の軍勢が海路や陸路から迫っている気配も、微塵もございませぬ」

「百余名だと……?」

 上座の脇に控えていた若い武将が、訝しげに身を乗り出した。

 凛とした眉根に、まだ二十歳前後の若々しい覇気を宿した武者――阿蘇大宮司・惟将の弟であり、病弱な兄を支えて次代の阿蘇を背負う阿蘇惟種であった。

「宗運。島津は何を企んでおるのだ? 耳川で大友を粉砕した勢いに乗り、肥後へ大軍を差し向けて力攻めを仕掛けてくるならばまだ分かる。……だが、都から戻ったばかりの使節が、薩摩へ帰りもせず、わずか百の手勢でこの矢部の懐へ登ってくるとは。我ら阿蘇の武威を侮っておるのではないか?」

「侮るどころか、その正反対でござろうな、惟種様」

 宗運はゆっくりと首を横に振り、白髪の混じる顎髭を撫でた。

「島津修理大夫(義久)とその弟どもは、血気に逸るだけの南国の野武士では毛頭ありませぬ。……昨年の耳川の合戦、大友の四万もの大軍がなぜあれほど脆く崩れ去ったか。島津はただ槍働きで勝ったのではありませぬぞ。日向の社寺を焼いた大友から国人の心を離反させ、補給路が伸び切ったところを川岸の泥濘へ誘い込み、大砲まで奪い取って一気に呑み込んだと聞き及んでおります」

 宗運の瞳の奥に、研ぎ澄まされた警戒の色が宿る。

 これまで阿蘇が肥後で独立を保ってこられたのは、豊後の大友という巨大な防波堤が東に聳えていたからだ。その大友が耳川で腰骨を砕かれ、北からは肥前の龍造寺隆信が虎視眈々と肥後を窺っている。薄氷の上で保たれていた火の国の均衡は、今まさに音を立てて崩れようとしていた。

「力任せの戦ではなく、相手の急所を冷徹に見据えて外堀から埋めてくる男たちじゃ。その島津が、戦勝の熱も冷めぬうちに大船団で上洛し、都から戻った足で真っ先にこの阿蘇へ立ち寄った。……都で公家どもや織田と何を約してきたのかは知れぬが、ただの挨拶回りで済むはずがござらぬ」

「ならば……なぜ、兵も連れずにわざわざ阿蘇へ?」

 惟種が息を呑む。

「大軍を率いて来ぬということは、刃を交える気がない証拠。……槍や鉄砲よりも遥かにタチの悪い『毒』か、さもなくば我らの首根っこを縛り上げる『鎖』を、その桐箱の中に忍ばせてきたに違いありませぬ」

 宗運は立ち上がり、座敷の障子をガラリと開け放った。

 湿った山風が吹き込み、遥か北、外輪山の向こうに広がる阿蘇の神域へと吹き抜けていく。

「大宮司様(惟将)へお伝えせよ。島津の使節は、この宗運が矢部の館にて直々に迎え撃つ、とな。……都の風を吸ってきた南国の兄弟が、阿蘇の社に何を仕掛けに来たのか。この老いぼれの目で、とくと見極めてくれようぞ」

 阿蘇の存続のためにすべてを捧げてきた老軍師の双眸に、冷徹な決戦の炎が静かに灯っていた。

九州統一戦、まずは阿蘇です。



次の投稿は19時を予定してます

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