幕間 神話の縫い目
初夏の風が、洛北の山々から涼やかな青葉の香りを運んでくる。
近衛邸の奥座敷にて、前関白・近衛前久は、文机の上に広げられた一巻の古びた巻物――島津崇清が持ち込んできた『飯隈文書』の写しを、指先で静かに撫でていた。
その対面には、武家伝奏を務める勧修寺晴豊が座している。
手元の茶房特製の冷茶に口をつけ、一息ついた晴豊が、長押に飾られた格式ある調度を見やり、ふと忍び笑いを漏らすように前久へと問いかけた。
「……前久様。宮中の陣議も無事に済み、主上より若一王子神社への正一位口宣案が下されましたが……いやはや、市井や公卿の間では、少なからぬ困惑と囁きが広がっておりますぞ」
「囁き、とな」
前久は巻物から目を離さず、短く返した。
「ええ。『島津が禁裏の築地修理に銀三百枚を積み、鳥の揚げ物や菓子で宮中の胃袋を掴んだゆえ、田舎神社に正一位を買い取らせた』とな。……表向き、反対する公卿は誰一人おりませなんだが、裏では『前代未聞の買い官、南国の田舎社になぜそこまでの破格を』と訝る者もおります。実のところ、前久様はあの島津の小僧の仕掛け……まことに受け入れてよろしかったのでございますか?」
晴豊の問いは、当代の公家として極めて自然で、真っ当な疑問であった。
正一位といえば、八坂や伏見稲荷、賀茂といった名だたる大社にのみ許された、神道の頂点たる神階である。薩摩の片隅、名も知れぬ一小社にそれが下りるなど、金銀の力なくしてあり得ぬと考えるのが世の常であった。
だが、前久は巻物を静かに巻き直すと、冷ややかに口端を吊り上げた。
「……愚か者どもめが。鳥の揚げ物や銀の重みだけで、主上が神階の頂を安売りされると思うておるのか」
前久は文机の上に肘をつき、手元の扇子で巻物をトンと叩いた。
「晴豊。そなたも『古事記』や『日本書紀』の神代巻は嫌というほど読み込んできたはずじゃ。……あれを読んで、一度たりとも不自然を覚えなんだか?」
「不自然、でございますか?」
「そうよ。天照大神の長男であり、誓約によって生まれし正統なる皇祖神・天忍穂耳尊――その尊が、なぜ天孫降臨の段において、突如として『我が子は生まれつ。この子を降すべし』と告げ、自らは天に留まり、子の瓊瓊杵尊に主役の座を譲って舞台から退場されたのか」
前久の鋭利な双眸が、晴豊を射抜く。
「神話の語りとして、あまりに接続が唐突であろうが。……なぜ皇祖たる長男が自ら大地へ降りず、子が降りねばならなんだのか。まるで、無理やりに別の伝承を切り貼りし、辻褄を合わせるために繕った『縫い目』のように見えはせぬか」
「縫い目……」
晴豊は息を呑んだ。
「神話とて、文字にして書き留めたのは後世の人間よ。記紀が編纂された奈良の昔、朝廷の権威はいまだ揺籃の内にあった。各地の豪族や貴族どもが、銘々に都合のよい神代の記録を掲げて我こそが正統と競い合っておった時代じゃ。編纂者どもは、何としてでも天皇家一統の正統性を唯一無二のものとして固めねばならなんだ。……ゆえに、天孫降臨の光をニニギに一身に集中させ、神武へと至る直系の一本道を造り上げる必要があったのだ」
前久は冷徹に、数百年前の政治力学を解剖するように語る。
「もしその時、オシホミミの絶大なる権威をそのまま書き残せばどうなる? オシホミミに連なる出雲や他氏族の系譜にまで強大な正統性が分有され、『天皇家以外にも王たる資格があるのではないか』と権威が分散しかねん。……ゆえに編纂者は、オシホミミを意図的に舞台の奥へと隠し、その神格を薄めて繕ったのだ。あの時代には、皇統の権威を守るために『オシホミミを抑え込む政治的合理』があったのよ」
「……な、なるほど……」
晴豊は背筋が寒くなるのを覚えた。有職故実と神代の記録を、これほどまでに生々しい政治の力学として読み解く男が、かつていただろうか。
「だが、晴豊よ。それは七百年以上も昔、皇統の確立期における都合じゃ」
前久は薄く笑い、掌を開いて見せた。
「今の天正の朝廷に、オシホミミの権威を隠し立てせねばならぬ理由が、一体どこにある? すでに天皇家の血統と正統性は千年の歴史を経て揺るぎなきものとなっておる。……むしろ今の朝廷にとりて、皇祖神の真の系譜を掘り起こし、その神格を本来あるべき頂へと引き上げることは、皇統の根元をより太く、より高く荘厳することに他ならぬではないか」
前久の声が、低く熱を帯びる。
「しかも南蛮伴天連めらが西国を蚕食し、大友の愚か者が神仏を焼き払うて国の土を切り売りしておるこの乱世においてじゃ。……皇祖神オシホミミの神威を掲げ、邪教を打ち払う大義名分が立つ。朝廷にとって、何一つ損などない。益しか転がっておらぬわ」
晴豊はことの重大さに打たれ、ごくりと喉を鳴らした。
島津崇清という男は、単に金や料理を貢いだのではない。朝廷の教養人ですら口を噤んできた神話の「縫い目」を、この『飯隈文書』という確たる依代をもって朝廷へ突きつけ、「これを公認することが、いまの朝廷の権威を最大化する」という極上の正当性を差し出したのだ。
「……では、前久様。『田舎神社に正一位を買い取らせた』と嘲る公卿どもには、なんと?」
晴豊の問いに、前久は扇子をパチンと鋭く鳴らし、嘲笑混じりに言い放った。
「鼻で笑ってやればよいわ。……『正一位は田舎神社などに与えたのではない。皇祖たるニニギノミコトの父君であらせられる、オシホミミノミコトに与えられたのだ』とな」
幕間が終わり次はまた九州に舞台はもどります




