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第五部終了『蒼溟の覇王 ―島津海洋帝国記―』 〜「死んだら売上ゼロだろ」 戦国薩摩の捨て石から、畳の上で死ぬために組織と兵站を組んで海洋覇権を握るまで〜  作者: 堀川うつら
第5部「黒潮海道と京洛の謀略」

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第95話 天下静謐の釘と南への帆

 茶室を退出した島津兄弟に、信長からの最後の公式な沙汰が下されたのは、二の丸御殿の白州においてであった。


 上段の間から見下ろす織田信長は、先ほどの茶席の無駄のない佇まいから一転、当代の覇王としての冷徹な目を島津主従へと向けていた。


「――島津左馬頭、崇清。大友宗麟が泣き言を並べ立ててきた件、織田としてはひとまず不問に処す」

信長は手元の扇子を膝の上で弄びながら、吐き捨てるように言った。

「大友が南蛮に国を切り売りしようと、それは奴の領国の自滅よ。……だがな、島津。大友を力ずくで叩き潰し、西国の海を無闇に荒らすような真似はするな。毛利が背後から動揺し、本願寺の兵糧線が乱れるのは結構だが、南蛮船が暴れて畿内への硝石の商いが滞るような馬鹿な真似をしでかせば、上様としても捨ててはおけんぞ」


 天下静謐――諸国の調停者を気取る信長が発した、実利最優先の釘刺しであった。

 大軍を九州へ送る余力など、本願寺や毛利を相手に手一杯の信長には欠片もない。信長が真に警戒しているのは、九州の戦乱が飛び火して畿内の貿易や軍需物資(硝石)の供給が止まることだけだ。


 平伏する崇清の胸の内には、恐怖など微塵もなかった。


(……見え透いてるんだよ。あんたに九州まで口を挟む余裕がないことくらい)


 崇清は畳に額をつけたまま、心の中で冷ややかに計算していた。

 合戦など最初からする気はない。府内港の海を塞ぎ、外から兵糧と物資を締め出すだけの経済的封鎖だ。信長が望む「硝石の流通」や「毛利への牽制」を邪魔しない限り、信長が島津に介入する理由も手段も存在しない。


「上様の御胸中、しかと心得ましてございます。島津は無用の戦を仕掛けず、ただ西国の海路の保全と毛利への牽制にのみ努めましょう」


「……ふん。口の減らぬ奴め」

 信長は短く鼻を鳴らすと、手元を払って島津一行を退出させた。


 *


 安土城の大手門をくぐり抜け、城下の直線道路を駆け抜け、琵琶湖の湊に係留されていた迎えの小舟に乗り込んだ――その瞬間。


 ドサッ……!


「……っ、ぐ……ぅぅぅぅ……ッ!!」  崇清は膝から崩れ落ち、舟底の板敷きに突っ伏した。  胃袋の奥から熱いものが逆流しかけ、両手で腹を抱えて激しく悶絶する。額からは水たまりができるほどの脂汗が噴き出し、唇は紫色に変色していた。


「わ、若ァァァーーーッ!? 大丈夫ですか若!?」

 荷駄を積み込んでいた弥三郎が仰天し、飛び込んできて崇清の背中をさする。

「毒ですか!? あの安土の城で何か毒でも盛られたんですかい!? だから言ったんですよ、あんな魔窟みたいな城に行くもんじゃないって!」


「ど、毒じゃねえ……ッ! 胃だ……胃が、ねじ切れたんだよ……ッ!」

 崇清は舟底の板を爪が割れるほど強く掻きむしり、掠れた声で喘いだ。

「死ぬかと思った……! なんだよあの城は! 信長がいるだけでも寿命が縮むのに、狡猾狸(家康)がいて、コミュ強ハゲネズミ(秀吉)がいて、その後ろに陰険軍師(官兵衛)まで控えてやがった……! 化け物動物園かよ! 未来の日本史のラスボスが全員同じ部屋に集まってて、生きて帰れるわけねえだろバカ野郎……ッ!!」


 過呼吸気味に喚き散らす崇清を、船首に腰掛けていた島津歳久が、扇子で顎を撫でながら心底呆れ果てた目で見下ろしていた。


「……弥三郎、放っておけ。いつもの奇病じゃ」


「き、奇病ですか左馬頭様?」


「左様よ。上様(信長公)の前では、あの恐るべき威圧を前にして屁一つひらぬ涼しい顔で正論を叩きつけ、遠眼鏡を売り込み、大友の裏帳簿を差し出して手玉に取ってみせた男じゃぞ」

 歳久はパチンと扇子を鳴らし、深く溜息を吐いた。

「……信長公相手には平然としておるくせに、城を出た途端、名も知れぬ三河侍や猿相手に怯えて腹を下す。そなたの肝の据わり方は、相変わらずどういう仕組みになっておるのか、兄としてさっぱり分からんわ」


「わ、分からなくていいんです……! もう二度と……二度と安土なんか来るもんか……ッ!」

 崇清は舟底で丸まり、ただ胃薬代わりに水筒の茶を貪り飲むのであった。


 *


 それから三日後。  安土の悪夢のような緊張を脱した島津一行は、再び京都・近衛邸の奥座敷へと足を運んでいた。


 床の間には、紫の組紐で厳重に結ばれた桐箱が置かれている。  中に入っているのは、正親町天皇の勅許により下賜された、朝廷の最高公文書――『薩摩国獅子目、若一王子神社・神階正一位口宣案』。


 上座に座る近衛前久は、扇子を手遊びに弄びながら、冷徹な怜悧さをたたえた双眸で崇清を見据えていた。 「……無事に戻ったな、崇清。信長の鼻先で大友の裏帳簿を叩きつけ、西国の差配を認めさせてきたと聞いたぞ」


「ひとえに、前久様の差配と朝家の御威光のおかげにございます」  崇清は深く畳に両手をつき、寸分の隙もない礼法で頭を下げた。  前久は味方であり、強力な庇護者だ。だが同時に、五摂家の頂点に君臨し、かつて越後や関東の戦乱を自ら駆け回った希代の政治動物でもある。一歩でも弱みを見せれば、あるいは底知れぬ野心を悟られすぎれば、即座にこちらの喉首を絞める側に回りかねない男であった。


「安土の茶席において、右大将様(信長)も大友宗麟公の暴挙に激怒されておりました。されど、事を荒立てて西国の海を乱すは天下の利にあらずとの仰せ。……島津はただ、公儀の定めに従い、大友の狂乱を鎮めるための受け皿を務める所存にございます」


「くくっ……どこまでも殊勝な物言いよ」

 前久は薄く唇を歪め、扇子をトンと畳に打った。 「良い。烏丸の茶房と物産、それに主上へ献じた鳥揚げの仕法……島津の至誠は禁裏の隅々にまで行き届いておる。大友が都へ逃れてくるならば、朝廷としても相応の名門として遇してやろう。……都の足場は、この儂がしかと預かっておく。気兼ねなく南国へ戻るがよい」


「恐れ入ります」

 歳久が静かに礼を執り、桐箱を恭しく風呂敷へと包み込んだ。


 *


 近衛邸を出て、淀川を下る高瀬舟に乗り込み、洛中の喧騒が遠ざかった頃。  船室の中で、歳久がふっと息を緩め、風呂敷包みを指先で撫でた。


「……前久公の前では、相変わらず抜け目のない猫を被りおるな」


「滅相もございません」

 崇清は苦笑し、手元の帳面を膝に置いた。 「あの御方は都の猛虎です。餌を与える手を見誤れば、こちらの腕ごと食いちぎられますよ。……烏丸の利権と朝廷の面目という肉を投げ続けている間だけ、島津の盾となってくださる」


「相違ない」

歳久は目を細め、船窓の向こう、南へと続く水路を見据えた。 「さて、崇清。これで都と安土の仕事はすべて終わった。……薩摩へ直行するか?」


「いえ」

崇清の表情から愛想笑いが消え、冷徹な実務家の光がその瞳に宿った。 「瀬戸内を抜けたら、肥後へ寄ります。……阿蘇谷へ参りましょう」


「……阿蘇か」

歳久が低く笑った。


「はい。この『正一位口宣案』を懐に忍ばせて、阿蘇神社の大宮司・惟将殿、そして老獪なる家老・甲斐宗運に会いに行きます。……島津の圧倒的な朝廷権威を見せつけ、阿蘇を『従一位』へ押し上げる約束を餌にして、あの誇り高き神道を、島津の秩序に絶対に逆らえぬ首輪で縛り上げるために」


 南蛮の侵略を阻み、大友の狂乱を干殺し、九州の土着神道を束ね上げるための、壮大な布石。  安土の怪物たちとの鍔迫り合いを生き延びた島津兄弟は、九州統一の次なる決定打を放つべく、瀬戸内の海へと帆を上げるのであった。


 作中の時間軸である天正五年(一五七七年)初夏、織田信長を取り巻く情勢について補足させていただきます。

 信長といえば「天下布武」を掲げて怒涛の進撃を続けている無敵の覇王というイメージを持たれがちですが、当時の実態はまったく異なり、依然として四方を敵に囲まれて手一杯の綱渡り状態にありました。

 浅井・朝倉・武田信玄といった元亀年間の最悪の危機こそ脱したものの、信長の手元にある軍事力と兵站リソースは、畿内周辺の火消しと本願寺・毛利対策で完全にキャパシティオーバーを起こしていました。

 だからこそ、歴史の全貌と数字を知る元コンサルタント・崇清は冷徹に見抜いていたのです。

 信長がどれほど威圧的に「私戦はならぬ」と釘を刺そうとも、それは畿内の中央秩序を守るための外交的ポーズに過ぎず、遠い九州の果てまで介入してくる実兵力も兵糧の余力も一ミリも存在しない、という事実を。

 信長自身もまた、土地の征服ではなく「畿内の静謐(本願寺の補給遮断)」こそが最優先事項でした。そのため、島津側から「大友を力攻めせず海から干殺しにして無力化し、背後から毛利水軍の補給路の根元を締め上げる」という提案が出された瞬間、信長にとっても願ってもない実利の一致となったわけです。


次の更新は19時、幕間の「なぜ獅子目とかいうクソ田舎の神社に正一位が与えられたのか」のお話を投稿する予定です。そしてそれで京都安土編は終わり舞台はまた九州に戻ります。

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