↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
第五部終了『蒼溟の覇王 ―島津海洋帝国記―』 〜「死んだら売上ゼロだろ」 戦国薩摩の捨て石から、畳の上で死ぬために組織と兵站を組んで海洋覇権を握るまで〜  作者: 堀川うつら
第5部「黒潮海道と京洛の謀略」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
115/157

第94話 安土の茶会と鳥揚げの密談

申し訳ないです。予約投稿してたつもりが…

 天主からさらに奥、渡り廊下の突き当たりに設けられた茶室「清涼の間」は、先ほどの大広間とは打って変わって、極限まで無駄が削ぎ落とされた空間であった。

 わずか四畳半。

 土壁は琵琶湖の葦を練り込んだ渋い灰褐色で、床の間には無銘の古銅の花入に、名もなき野の草が一輪だけ活けられている。

 炉の前に端座し、柄杓を構えていたのは、羽織を脱ぎ捨てて黒漆の小袖一枚となった織田信長であった。

 その対面に、三河の徳川家康。

 そして下座に、島津歳久と崇清が並んで座していた。

 シュン、シュン……と、鉄釜のたぎる松風の音だけが、息が詰まるほどの静寂の中に響く。

 信長が無言で茶筅を振る。流れるような所作には、一切の淀みも迷いもない。

 だが、崇清の胃袋の底は、先刻の大広間とは全く別の種類の冷気でぎりぎりと締め上げられていた。

(……地獄か、ここは)

 崇清は額に滲みそうになる脂汗を、必死に内側の筋力で押し留めていた。

 目の前にいるのは、織田信長と徳川家康。

 当代の覇王と、のちにすべてを総取りして江戸幕府を開く怪物が、狭い四畳半の密室で膝を突き合わせている。

 斜め向かいに座る家康は、地味な小袖の膝の上に拳を置き、やはり無言のまま伏し目がちに座している。だが、その背中からは、三河の泥水と武田の猛攻を耐え抜いてきた男特有の、岩のような重圧が漂っていた。

(家康の目の前で……大友の内情や、西国の青写真を広げることになるのか……!?)

 崇清の脳内で、危険信号が明滅する。

 家康は最後まで生き残る男だ。いまここで島津の手の内――兵站の思想や裏工作の手口を晒せば、後世の関ヶ原や天下分け目の盤面において、決定的な致命傷になりかねない。

 崇清の指先が、わずかに強張る。

 その微かな動揺を、隣に座る歳久の鋭利な気配が察知した。

 歳久は扇子を畳に置いたまま、膝が触れ合うほどの距離から、崇清へ向けてわずかに肘を当ててきた。

 ――案ずるな、と。無言の圧が崇清の脇腹を叩く。

 歳久から見れば、家康が未来で何を成す男であろうと知ったことではない。いま現在の力学において、徳川は遠江の高天神城を巡って武田勝頼に喉首を締め上げられており、遠い九州の島津を邪魔する動機も余力も毛頭ないのだ。

 大名同士の腹の探り合いならば、百戦錬磨の軍師たる歳久が盾になる。その無言の覚悟が、崇清の冷え切った背中に体温を戻した。

「……召し上がれ」

 信長が低く告げ、点てられた濃茶の茶碗が、まず家康の前へ、次いで歳久の前へと滑り出された。

 黒褐色の湯気を吸い込み、家康が静かに口をつける。

 一服の茶が喉を通る音だけが、茶室を満たした。

 信長は茶碗を拭い、棚へ戻すと、おもむろに手元を打った。

 襖が静かに開き、黒塗りの折敷を捧げ持った近習頭が、恭しく入室してくる。

 運ばれてきたのは――白木の小皿に盛られた、熱々の佳肴であった。

 ジュワリ、と微かに爆ぜる油の余韻。

 狐色にカラリと揚がった『鳥揚げ』の切り身と、黄金色に透き通るように反り返った『揚げ鶏皮』。

 立ち上る大隅醤油と生姜、そして揚げ油の濃厚な香気が、侘び寂びの極致であった四畳半の空気を、暴力的なまでの食欲で一気に塗り替えた。

「……ほお」

 家康の細い目が、わずかに見開かれた。

「これが……主上を唸らせたという、島津の鳥揚げか」

「安土の庖丁人に、島津から献上された仕法通りに揚げさせた」

 信長が箸を取り、迷うことなく大振りの鳥揚げを口へと運んだ。

 サクッ――ジュワァッ!

 茶室に、快い破砕音が響いた。

 信長は咀嚼し、目を細め、喉仏を大きく上下させて飲み込んだ。

「……なるほどな」

 信長が低く笑った。

「外は香ばしく、中は驚くほど柔らかい。油を惜しげもなく沸かし、鳥を沈めて旨味を閉じ込めるか。……油を灯火としてしか使えぬ貧相な田舎者には、思いも寄らぬ贅沢よ」

「畏れ入ります」

 崇清が頭を下げると、家康もまた、箸を伸ばして薄い『揚げ鶏皮』を口に運んだ。

 パリパリッ、と小気味よい音が爆ぜる。

「…………ッ」

 家康の手が、ぴたりと止まった。

 噛み締めるほどに溢れ出す、鶏皮自身の濃厚な脂の甘み。そして、それを完璧に引き締める高須の純白塩。

 家康は無言のまま二口、三口と咀嚼し、目を閉じてその味を胃の腑へと落とし込んだ。

「……油と塩の、圧倒的な力よな」

 家康が、ぼそりと呟いた。

「戦場で乾飯ばかりを啜る兵にこれを一椀食わせれば、それだけで士気は百倍に跳ね上がりましょう。……そして、これほど惜しげもなく油と塩を使い捨てられる力。南国の島津が抱える物資の厚み、ただごとではござらぬな」

 家康の鋭利な観察眼に、崇清は背筋を粟立たせた。

 やはりこの男は、味の良し悪しなどではなく、「兵站の裏付け」として料理を見ている。

 信長は懐紙で口元を拭うと、箸を置き、射抜くような双眸を崇清へと据えた。

 茶席の温和な空気は、一瞬で吹き飛んだ。

「――さて、崇清。先刻、大広間にて申しておったな」

 信長の声が、氷のように研ぎ澄まされる。

「大友宗麟が、府内の港湾特権と治外法権を伴天連へ売り渡す裏証文を取り交わした、と。……その写しとやら、見せてもらおうか」

「はっ」

 崇清は襟元から、楠行者衆が命懸けで豊後府内の修道士から奪取した、一枚の渋紙の巻物を取り出した。

 歳久がそれを押し戴き、信長の前へと差し出す。

 信長は細い指先で巻物を解き、墨痕とラテン文字の署名が並ぶ紙面へと視線を落とした。

 読めば読むほど、信長の眉間が深く、険しく刻まれていく。

 日向侵攻の軍資金と引き換えに、豊後府内におけるキリスト教徒の裁判権の完全委譲、関税の免除、果ては社寺領の破却と伴天連への割譲――。

 パシィィィンッ……!

 信長が巻物を畳に叩きつけた。

 静かな茶室の壁が、びりびりと震える。

「……天下を乱す愚か者めが」

 信長の喉の奥から、煮えたぎるマグマのような殺気が漏れ出た。

「己の領国の保身のために、日の本の土と民を異国の神へ売り渡すか。宗麟め、ここまで耄碌しておったとはな。……成敗いたす。大友など、もはや生かしておく価値もない」

 信長の激怒は本物であった。

 だが、ここで信長が「大友成敗」の軍勢を九州へ差し向ける、あるいは毛利に大友討伐を命じたりすれば、崇清の敷いてきた「大友の自壊と吸収」という絵図は根底から狂ってしまう。

 崇清は深く頭を下げ、静かに言葉を差し挟んだ。

「上様。……大友を武力で踏み潰すは、上策とは存じませぬ」

「何だと?」

 信長の視線が、刃となって崇清を射抜く。

「我が天下静謐の理に背く者を、打ち破って何が悪い」

「大友宗麟公を力攻めで滅ぼせば、府内は焦土となり、南蛮の船は西国の海を逃げ回って海賊化いたしましょう。何より……背後に控える毛利が、その混乱に乗じて豊後・筑前へ雪崩れ込み、関門海峡を完全に制圧することになります」

 その言葉に、信長がふんと鼻を鳴らし、腕を組んだ。

「毛利、か」

 信長の瞳に、冷徹な計算の光が宿る。

「世の愚か者どもは、儂が天下布武と号して、日の本六十六カ国すべてを織田の直轄領として切り取ろうとしておると信じておるようじゃが……笑止なことよ。儂が望む天下静謐とは、五畿内の王法と公儀の回復。都と堺の富、そして朝家の安寧を乱す不逞の輩を鎮めることこそが『天下』の理じゃ」

 信長は茶釜の湯気を見つめ、吐き捨てるように続けた。

「毛利の山陽・山陰の泥濘など、喉から手が出るほど欲しいわけではない。儂にとって許せぬのはただ一つ――毛利が足利義昭を担ぎ、石山本願寺へ海から米と鉄砲玉を送り込み続けて、畿内の静謐を妨害しておることよ。……毛利が本願寺への補給の蛇口を閉め、背後から牙を剥かぬと誓うなら、中国の奥地など毛利にくれてやっても構わぬわ」

 信長の口から飛び出した、剥き出しの統治思想。

 崇清は内心で深く頷いていた。

(……やはりそうだ。この男の『天下』は、日本全土の武力征服じゃない。五畿内を中心とした中央秩序の回復だ。だからこそ、遠国の秩序が安定し、自分に逆らわないのなら、現地の大名に統治を任せる用意があるんだ)

 ここで、正使たる歳久が重々しく口を開いた。

「上様の仰せ、痛快無比にござる。なればこそ、島津より天下静謐のための『落としどころ』をご提案申し上げます」

「申してみよ、左馬頭」

「大友の家名は、朝廷の権威をもって救います。……狂乱せる宗麟公を都へお迎えし、相伴衆・名門の格式を保った『高家』として祭り上げるのです。豊後の実権を剥奪し、京の雅な屋敷に押し込めて無力化する。これにより、上様は『名門大友を救い、西国の乱れを朝廷の調停で鎮めた天下人』として、世に徳を示されることとなります」

「……ふん」

 信長は畳の上の裏証文を見下ろした。

「体良く宗麟を黄金の檻へ押し込めるわけか。……して、残された豊後や筑前の領地はどう差配する腹じゃ。まさか、島津が丸呑みする気ではあるまいな?」

 信長の鋭利な詰問。

 これに対し、崇清が放ったのは――信長の「畿内天下論」の急所を完璧に補完する、極上の実利であった。

「大友が手放した豊後、ならびに海路の差配は、島津が引き受けます。……そして、島津が関門海峡と豊後水道の制海権を完全に押さえた暁には」

 崇清は顔を上げ、信長の双眸を真っ直ぐに見据えた。

「上様が対峙されておられる毛利の背後――瀬戸内と日本海の西の出口を、島津水軍の船団をもって完全に海から封鎖いたします。……毛利が本願寺へ運び込む兵糧の蛇口を、西から締め上げるのです」

「――なに?」

 信長がわずかに身を乗り出した。

「大友を力攻めせずとも、海を塞げば伴天連の船も毛利も干上がります。島津が西の海を塞ぎ、毛利が本願寺支援を諦めざるを得ぬよう外圧をかければ、播磨の羽柴殿は正面の敵にのみ集中でき、上様は兵を損なうことなく本願寺を孤立させることが叶いましょう。……九州の安定と、上様の畿内静謐。この二つを両立させる刃として、島津をお使いいただきたいのです」

 沈黙が、茶室を支配した。

 信長は腕を組み、天井を仰いだ。

 信長にとって、九州など遠い異国である。島津が南蛮の侵略を防ぎ、朝廷と上様の秩序に従って西の海を安定させてくれるなら、遠国の統治など島津に委ねておく方が遥かに合理的だ。しかも、喉首に刺さった本願寺の補給を背後から止める手助けまで買って出るというのだ。

 信長は視線を横へ走らせた。

「……三河守。そなたはどう見る」

 水を向けられた家康は、静かに伏せていた顔を上げた。

 その瞳の奥には、島津という南国の勢力が提示した「徹底した兵站封鎖の青写真」に対する、底知れぬ戦慄が宿っていた。

「……まことに、恐るべき筋道にござる」

 家康は低く、慎重に言葉を選びながら言った。

「大友を武力で討てば遺恨が残り、毛利を利するだけ。されど、朝廷の権威で宗麟を京へ棚上げし、海を島津が塞ぐとなれば……毛利は背後を脅かされ、本願寺への補給どころではなくなりましょう。上様の天下静謐にとって、これ以上の妙手はござらぬかと」

「くっ……くはははは!」

 信長が、低く喉を鳴らして笑い出した。

 その獰猛な笑声が、狭い茶室の土壁に反響する。

「左馬頭、崇清。……そなたら、よくもまあ抜け抜けと、己の都合のよい絵図を上様に呑ませようとするものよ」

 信長は笑みを収めると、鋭利な光を宿した瞳で二人を見据えた。

「よい。宗麟の裏証文、しかと預かり置く。大友を京へ棚上げする朝廷工作、織田としても異論はない。九州の泥沼など、そなたらが勝手に差配して平定せよ。……だが、島津。毛利の背後を海から締め上げるという約定、違えることは許さぬぞ」

「ははっ!」

 歳久と崇清は、揃って畳に深く平伏した。

 安土城の最深部、わずか四畳半の茶室において。

 大友の処遇、そして来るべき対毛利包囲網を巡る、天下を揺るがす秘密協定が、音もなく成立した瞬間であった。


この作品では信長の「天下」概念は畿内中心だった説を採用しています。


次は7時投稿予定です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。