第93話 特装遠眼鏡と覇王の視線
朱塗りの大扉をくぐり抜けた瞬間、肌を撫でる空気の温度が、一気に数度下がったような錯覚に襲われた。
控えの間の喧騒が嘘のように遮断された、静寂の空間。
極彩色の障壁画が壁一面を埋め尽くす大広間の中、高く一段上げられた上段の間に、その男は座していた。
織田信長公。
四十代半ばの引き締まった偉躯。
黒羅紗の陣羽織の下には、南蛮渡来の鉄の胸甲――南蛮胴が鈍く黒光りしている。
膝の上に置かれた細身の長刀。薄く髭を蓄えた頬は鋭角に削ぎ落とされ、切れ長の双眸は、入ってきた島津の使節一行を、氷のような怜悧さで見据えていた。
その視線が向けられた瞬間、後ろに控えていた弥三郎が「ひっ」と喉を鳴らし、床板に額を擦り付けてガタガタと震え出した。
先刻、控えの間で大口を叩いていた男とは思えぬ、分かりやすいまでの腰の抜けようである。
だが――。
先ほどまで控えの間の隅で青ざめ、胃を押さえて呻いていたはずの崇清は、別人のように静かな佇まいで立っていた。
背筋はすっと伸び、呼吸は深く整っている。
その瞳の奥には、恐怖や動揺など微塵も浮かんでいなかった。
(……ああ。なるほどな)
崇清は内心で、不思議なほど冷徹に思考を巡らせていた。
家康や秀吉、官兵衛に対して覚えたのは、未来の日本史をひっくり返していく因果への恐怖だった。歴史のネタバレを知っているからこそ、あの「最後まで生き残る怪物たち」が生理的に恐ろしかったのだ。
だが、いま目の前にいるこの織田信長という男は違う。
街道の幅を三間半に揃え、舟入を城の真下まで掘り割り、規格と土木工事によって天下をねじ伏せようとしている、正真正銘の「当代の合理主義者」そのものだ。
ならば、やるべきことは一つしかない。
前世のコンサルタント時代、気難しく数字に厳しい大企業の最高経営責任者を前にして幾度も繰り返してきた――極めてシンプルで、一切の虚飾を排した「論理と現物のプレゼンテーション」である。
「――薩摩国、島津修理大夫が使節、島津左馬頭歳久にござる」
歳久が前に進み出、堂々たる威厳を保ったまま深々と一礼した。
信長は微動だにせず、ただ細い目をかすかに細めた。
「遠路、ご苦労であるな、左馬頭」
低く、だが驚くほどよく通る金属質な声。
「耳川の軍功、風聞にて聞き及んでおる。……大友宗麟め、南蛮の教えに狂うて日向へ乱入した挙句、手痛い打撃を受けて府内へ逃げ帰ったそうだな」
「恐れ入り奉る」
歳久は扇子を畳の上に置き、落ち着いた声で返した。
「我が兄・義久、ならびに島津一門の戦いは、ひとえに国境の民と社寺を守るための正当防衛にござる。此度の上洛も、朝家の安寧を祈念し、禁裏の御築地修復へ微力を尽くさんとしたまで」
「ふん」
信長は冷たく鼻を鳴らした。
「正当防衛か。……宗麟からは、すでに泣き言の書状が三度届いておるぞ。『島津が境界を侵して大友の領国を脅かしておる、天下静謐のために成敗されたし』とな」
信長の双眸が、射抜くように歳久の眉間を捉える。
「南蛮伴天連に傅いて国を焼く豊後の猿も愚かなら、朝廷に銀を積んで神仏を盾にする薩摩隼人も、ずいぶんと忙しいことよな。……形を変えて己の戦を正当化しておる点では、大友も島津も同じ穴の狢ではないか?」
広間の空気が、ピシリと凍りついた。
一歩間違えれば、即座に手討ちになりかねない冷酷な挑発と詰問。
歳久の額に、微かな汗が滲む。
その張り詰めた沈黙を破ったのは、副使として控えていた崇清であった。
「――上様」
崇清は淀みのない声で呼びかけ、静かに頭を下げた。
歳久が驚いたように視線を横へ走らせ、弥三郎が青ざめて息を呑む。
「何奴じゃ」
信長の視線が、崇清へと落とされた。
「若造。そなたが、都で菓子を焼き、鳥を油で揚げて主上の舌を狂わせたという、噂の末弟か」
「蒲生島津が崇清にございます」
崇清は動じることなく、自らの脇に置かれていた黒漆塗りの木箱へと手を添えた。
「上様の仰せ、まことにごもっとも。……ですが、島津と大友には、決して相容れぬ一線がございます」
「ほう?」
信長がわずかに顎を上げた。
「島津が朝廷へ銀を献じるは、日の本古来の公儀と王法を敬うがゆえ。……されど大友宗麟公が裏で企てておられるは、府内の港湾特権と治外法権を伴天連へ切り売りし、異国の神と王を日の本の主権の上に据えんとする試みにございます」
信長は目を細め、値踏みするように崇清を見据えた。
「証拠でもあるのか。負け犬の泣き言を並べ立て、こちらを動かそうとする舌先三寸なら聞き飽きておるぞ」
「我が手の行者衆が、府内の商人や修道士を抱き込んで抜き取った裏帳簿、ならびに密約の写しをしかと手元に控えております。日の本の大地はすべて皇のもの、武家領主はその統治を預かりし者にすぎませぬ。宗麟公の行いは、公儀への叛逆のみならず、国の主権そのものを外海へ売り渡す道。……上様が目指される天下静謐の理において、どちらが断じて許されぬ筋違いか、明鏡止水の如くお見通しのはずと存じます」
「……ならば、その写しとやらを今すぐ見せてみよ」
信長の声が、鋭く研ぎ澄まされる。
「はっ。なれど、あれは諸国の商人や伴天連の帳面が複雑に入り組んだもの。この大広間にて広げるには無粋な紙片ゆえ、後刻、静かなる座敷にて上様の御目に直接お留めいただきたく存じます」
崇清は淀みなく頭を下げ、手元の木箱に指先を滑らせた。
「それに代わり、まずは此度、大友の企てを砕き、天下を真に静謐へと導くための『目』を進上しに参りました」
「ほう……? 言いたいことだけ並べて、話を逸らすか」
信長は低く笑い、座り直した。崇清の不遜な切り返しに不快感を示すどころか、その瞳には面白がるような光が宿る。
「して、その箱は何じゃ。大友の悪口を並べるために持ってきたわけではあるまい」
「南蛮にも存在せぬ、実戦専用の道具にございます」
崇清の目配せを受け、弥三郎が震える手で木箱の紐を解いた。
蓋が開けられ、中から取り出されたのは――一本の遠眼鏡であった。
近習がそれを受け取り、信長の前へと差し出す。
信長は南蛮渡来の珍品など見飽きている。ガラスの杯も、機械仕掛けの時計も所持していた。だが――手にとった瞬間、信長の眉がピクリと跳ね上がった。
「……何じゃ、この筒は」
南蛮から持ち込まれる硝子眼鏡のような装飾は一切ない。
鏡胴は、黒漆で分厚く塗り固められたクスノキ材。
汗をかいた掌で握っても滑らぬよう、外周には細やかな鮫肌の鑢目が刻まれている。
さらに、接合部には蝋と漆による二重の目止めが施され、雨風に晒されても内部に水滴が侵入せぬよう、徹底した防水・防湿構造が組み込まれていた。
「異国の硝子素材を取り寄せ、飯隈の自領の工房にて削り出した『遠眼鏡』にございます」
崇清は淡々と解説した。
「金物を使えば重く、光を反射して敵の物見に位置を悟られます。ゆえに、大隅のクスノキをくり抜き、雨露と手汗に耐えうる実戦専用の道具として組み上げました」
信長は無言のまま立ち上がった。
広間の奥、琵琶湖を一望できる高欄へと大股で歩み寄る。
特装遠眼鏡を右目に当て、湖岸の彼方――北西の入江の先へと向けた。
――息を呑む微かな気配が、信長の喉から漏れた。
半里ほど先、長命寺の山裾の入江。
肉眼では湖面の黒い点にしか見えなかった荷船の姿が、鮮明な輪郭を結んで視界に飛び込んできたのだ。
湖風を孕む白帆の揺れ、船の細かな船型、甲板に立つ人影の数までが、はっきりと判別できる。
鏡胴の狂いは微塵もなく、焦点の調整輪は掌の感触だけで滑らかに回った。
「…………」
信長は筒を下ろし、じっとその無骨な黒塗りの木肌を見つめた。
そして、ゆっくりと崇清へと振り返る。
「南蛮の珍品をありがたがり、買い集めて喜ぶ田舎侍は山ほどおる。……だが、異国にすら無い道具を、己の泥臭い戦のためにゼロから仕立ててみせた者は、初めて見たぞ」
信長の瞳に宿っていたのは、単なる物珍しさへの賞賛ではなかった。
目の前にいる少年を、「異国の文物を自らの工業力で再設計・実用化してしまう、底知れぬ実務の怪物」として値踏みする、鋭利で危険な光であった。
「崇清と申したな」
「はっ」
「……良き道具じゃ。気に入った」
信長がそう言って腰を下ろした瞬間、部屋を満たしていた殺伐とした圧迫感が、ふっと霧散した。
弥三郎が安堵のあまり畳に崩れ落ちそうになり、歳久が静かに扇子を握り直す。
だが、歳久の内心は、奇妙な疑問で激しく波打っていた。
(家康や秀吉があやつなりに何かをしでかすとして……いま目の前におるこの男こそが、神仏すら恐れぬ当代最強の覇王ではないか。なぜ、その信長公を相手にしてだけは平然と手玉に取っておるのだ?)
歳久は扇子の陰で、呆れを噛み殺すしかなかった。
その時、信長が薄く唇を歪め、低く告げた。
「左馬頭、崇清。……これより奥の茶室へ入れ。徳川三河守も呼んでおる。主上を唸らせたという鳥揚げとやらを儂の目の前で試させよ。……大友の裏帳簿とやらも、そこでじっくりと見せてもらおうではないか」
覇王の眼鏡に適った島津使節団を待っていたのは、安土城の奥深くで繰り広げられる、さらなる濃密な「密談の茶席」であった。
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