第92話 派手な猿とこすからい軍師
広敷の襖の向こうに現れた男の姿に、広間に控えていた諸大名の使節たちから、微かな息呑む気配が漏れた。
金泥で唐草を織り込んだ真紅の陣羽織。歩くたびに腰の金装飾の瓢箪がぶつかり合い、カチャカチャと陽気な金属音を立てている。額の皺を深く寄せ、眉毛を八の字に下げて破顔するその風貌は、噂に聞く「木下藤吉郎」――織田家の中国方面軍司令官、羽柴筑前守秀吉その人であった。 三木城の包囲戦――のちに「三木の干殺し」と語り継がれる過酷な兵糧攻めの最中、弾薬の補給申請と毛利水軍の動向を直接信長へ報告するため、前線から急ぎ安土へ呼び出されていたのであろう。
そして、そのすぐ半歩後ろ。 鋭利な抜身の刀のような俊敏さで、隙のない足取りで付き従う男がいた。 紺青の素袍を身に纏い、腰の差料は実戦用の一刀のみ。三十を少し越えたばかりの若き軍師ながら、その切れ長の双眸は、広間に座す諸大名の一挙手一投足を、まるで帳簿の数字を検算するかのように冷徹に見据えている。 播磨の有力領主・小寺家の家老にして、秀吉の知恵袋を務める小寺官兵衛孝高。のちの黒田如水である。
(……ひ、秀吉……! それに、黒田官兵衛……ッ!?)
崇清の喉の奥から、ひゅう、と掠れた音が漏れ出た。 前世の歴史知識が、脳内でけたたましい警報を鳴り響かせている。 三木の干殺し、鳥取城の飢え殺し、備中高松城の水攻め。城を力攻めですり潰す無駄を嫌い、圧倒的な財力と兵糧の差、そして水流すら変える土木工事によって、城中の人間を飢餓の底に叩き落として城を開かせた「乾殺しの開祖」とその知恵袋。
(な、なんで今ここに揃ってんだよ……!? 兵糧攻めの元祖と、天下をひっくり返す知恵熱軍師が、セットで歩いてきやがった……!!)
未来の知識という「巨人の肩」に乗っかっているだけの自分に対し、中世の泥水から自力で巨人に成り上がっていく生の怪物たち。 崇清は即座に両手を畳につき、顔を伏せた。息を詰め、存在感を極限まで消し去ろうと肩を縮こまらせる。
だが、秀吉の爛々とした視線は、広敷の空気を敏感に捉えていた。 上座に威厳を湛えて座す島津歳久の「丸に十文字」の家紋を一瞥するや、秀吉は顔いっぱいに皺を寄せて愛想笑いを浮かべ、摺り足で歩み寄ってきた。
「これはこれは! 遠路遥々、薩摩の島津様でおわしますな! 羽柴筑前守秀吉にござる!」
秀吉は歳久の前で深々と腰を折り、手揉みせんばかりの低姿勢で平伏してみせた。 いくら織田家の重臣とはいえ、相手は南九州を統べる独立大名・島津家の使節である。礼を失するような横柄さは微塵も見せず、むしろへりくだるような愛嬌を前面に押し出している。
「修理大夫義久殿、ならびに使節の左馬頭殿(歳久)の御武勇、この秀吉も播磨の陣中にて聞き及んでおりまする! 都の噂も上々で、烏丸の屋敷で吹き出す泡の清涼水を振る舞い、主上へ献上された鳥の揚げ物は『天下一の美味』と評判! 上様も御膳所で試させよと心待ちにされておりますぞ、がははは!」
「……羽柴殿。播磨平定の軍務、御苦労に存ずる」 歳久は扇子を膝に置き、大名としての格式を保ったまま、落ち着いた声で静かに一礼を返した。
その儀礼的な挨拶の直後だった。 秀吉の細い目が、歳久の脇で額を畳に擦り付けて縮こまっている崇清へと、すっと向けられた。
「……おや? こちらの若武者殿は?」
秀吉は腰をかがめ、まるで路傍の子供に声をかけるような屈託のなさで、崇清の目の前へ顔を覗き込んできた。 無邪気極まりない人懐っこい笑顔。 だが、崇清の背筋を伝ったのは、骨の髄まで凍りつくような冷気だった。 秀吉の笑い皺の奥にある双眸は、崇清の着物の質感、持ち込んだ荷の厳重さ、そして手のタコを、瞬時にして値踏みし、丸裸にしようとする底知れぬ光を湛えていたのだ。
「……は、ははっ……! 副使を務めます、蒲生島津が崇清と申します……! 羽柴様の武名、遥か南国まで鳴り響いており……!」 崇清は必死で裏返りそうな声を絞り出した。
「ほう、崇清殿! お若いのに、都の公卿どもを相手にあの見事な商いと料理を差配されたとか! いやはや、美味い飯と泡立つ水は、兵の気を引き立てる最高の薬よ! どうじゃ、播磨の前線にもあの鳥揚げの仕法を分けては下さらんかのう? 三木の城を囲んで退屈しておる我が兵どもに喰わせてやりたいのじゃが!」
相手を立てて懐に飛び込みながら、警戒を解かせ、あわよくば最新の技術をさらりと手に入れようとする、恐るべき「人たらし」の外交術。 崇清が喉を詰まらせ、言葉を失ったその時――。
「――筑前殿、使節殿が困惑しておられます」
背後から、低く澄んだ声が割り込んできた。 小寺官兵衛であった。 官兵衛は歩み寄り、秀吉の後ろから軽く一礼した。その鋭利な眼光は、崇清の脇に置かれた荷駄の木箱を冷徹に射抜いていた。
「島津殿。失礼ながら……その樟脳の木箱の縛り紐、麻縄を幾重にも交差させ、端を木栓で噛ませて雨水の浸入を防ぐ結び目。これは瀬戸内の通常の廻船衆が使う結び方ではございませぬな。外海の大波を越える、遠洋の船乗りの手際とお見受けする。……大隅から安土まで、荷崩れ一つ起こさず、湿気も通さず物資を送り届ける兵站の手並み……ただの使節とは思えませぬ」
(見抜いてる……! 荷物の縛り方ひとつで、外海輸送のノウハウを看破してきやがった……!!) 崇清の心臓が、破裂しそうなほど激しく脈打つ。
「これ官兵衛! お主は相変わらず細かいことばかり気にしおる!」 秀吉はからからと笑い、官兵衛を制するように手を振った。 「よいではないか、遠方よりの尊客に無粋な詮索をするな! 左馬頭殿、崇清殿、上様は気性が激しいが、筋を通すお人はお嫌いではない! せいぜいお気張りなされよ!」
秀吉はそう言って恭しく一礼すると、金瓢箪を鳴らしながら、足早に奥の広間へと去っていった。 官兵衛は去り際、もう一度だけ崇清を一瞥した。その氷のように研ぎ澄まされた双眸には、「この男、何者か」という消えない疑念が刻まれていた。
バタン、と奥の襖が閉まる。
崇清は畳に突っ伏したまま、しばらく指一本動かせなかった。 呼吸が過呼吸のように乱れ、喉の奥からヒューヒューと音が鳴る。額からは、水たまりができるほどの脂汗が滴り落ちていた。
「……し、死ぬ……死ぬかと思った……ッ! 胃に穴が開くどころの騒ぎじゃねえぞ……!!」
その隣で。 弥三郎が、心底信じられないものを見るような、死んだ魚の目で崇清を見下ろしていた。
「……若。あのう、本気で聞いていいですか?」 「な、なんだよ……」 「若は、頭の線が何本か焼き切れたんですかい?」 「はあ!?」 「さっきの陰気な爪噛みのおっさん(家康)もそうですけどね! 今度の二人組は輪をかけて意味が分かりませんよ! 片方は愛想笑いばっかり浮かべてペコペコ頭を下げてる猿みたいなおっさんで、もう片方はそのケツにくっついてる生意気そうな若造じゃないですか! 信長様の家来にしちゃ軽薄そのものですよ! なんであんな連中に愛想を振りまかれただけで、討ち死にしたみたいな顔になってるんですかい!?」
弥三郎の純粋な疑問に、上座から、パチン!と鋭い音が響いた。 島津歳久が、閉じた扇子で自らの膝を叩いた音であった。
歳久は冷ややかな目を細め、呆れ果てたように息を吐き出しながら、弟を見つめていた。
「……崇清」 「は、はい、兄上……」 「そなたという男は、まこと、底の知れぬ男と思うておったがな」
歳久は扇子を弄びながら、静かに首を横に振った。
「都では、あの誇り高き五摂家の近衛前久を掌の上で転がし、武家伝奏の晴豊卿の鼻先を銀と麺で引き回し、主上から『正一位』の口宣案を力ずくでもぎ取ってみせた。耳川の後に、大友を豊後水道で乾殺しにする恐るべき絵図を事も無げに描いてみせた男じゃ。……その神算鬼謀、儂すら背筋が寒くなるほどの手際であったぞ」
歳久の声が、わずかに低く沈む。
「……それほどの胆力を持った男が。なぜ、先ほどから部屋の隅におる地味な三河侍に怯え、いま去っていった猿のような男や、その脇におるこすからそうな痩せ侍に、そこまで縮み上がっておるのだ?」
「あ、兄上……それは……」
「そなたの知謀は恐ろしいほどだが、たまにこうして、どこの馬の骨とも知れぬ小者に、得体の知れぬ臆病風を吹かせるな。……わけが分からん男よ」
歳久は呆れ笑いを漏らし、フンと鼻を鳴らした。 崇清は畳を握りしめ、心の中で血を吐くような叫びを上げていた。
(小者なわけがあるかァァァッ!! あいつが! あのペコペコ頭を下げてた猿が、いずれ天下を獲って大坂城を建てて関白になる豊臣秀吉なんだよ!! そして横にいたのが、九州を一手でひっくり返す黒田官兵衛なんだよ!! 未来の日本史の頂点に立つ化け物が二匹揃って現れて、ビビらない人間がこの世にいるかバカ野郎ッ!!)
言えるはずがなかった。 言ったところで、安土の空気で崇清が狂ったと思われるのが関の山である。
崇清は胃を押さえ、うずくまるようにして呻いた。 この時代の人間には、彼らがまだ「一介の武将」にしか見えない。だが、未来を知る崇清からすれば、ここは天下のラスボスと裏ボスたちが犇めき合う、狂気の展示場に他ならなかった。
――その時。
広敷の奥、重厚な朱塗りの大扉が、地鳴りのような重低音を立てて左右へと押し開かれた。 黒塗りの長烏帽子を被った織田家の近習頭が、朗々たる声で告げる。
「――薩摩国、島津が使節。上様の御座所へ通るべし!」
空気が、一瞬で凍りついた。 広間に控えていたすべての武将たちが、一斉に平伏し、息を殺す。
崇清は震える膝に力を込め、ゆっくりと顔を上げた。 胃の痛みは消えていない。 だが、不思議なことに――本尊たる「織田信長」の名を耳にした瞬間、崇清の脳内で、前世の重役プレゼンを幾度もくぐり抜けてきた冷徹な実務家としての神経が、カチリと音を立てて噛み合っていた。
秀吉にも、家康にも、未来の歴史の因果があるからこそ怯えた。 だが、織田信長という男は、いま、この天正七年の現代において、すでに完成された「合理と規格の怪物」である。 ならば――ぶつけるべきは、未来の予言ではない。 大隅の泥水の中で鍛え上げてきた、規格と兵站の「実務」そのものであった。
「……弥三郎、木箱を持て」 「へ、へいっ!」
崇清は立ち上がり、着物の埃を払った。 隣を歩く歳久が、扇子を握り直し、鋭い軍師の双眸で前を見据える。
天主の最深部、安土城の覇王が座す御座所へ向けて、島津兄弟の足音が静かに響き始めた。
未来から来た崇清は戦国を生き延びた化け物たちは怖いのです。特に家康とか秀吉とか黒田官兵衛とかは……
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