第91話 琵琶湖の巨城と陰気な狸
山科の逢坂関を越え、近江に入ったあたりから、街道の土の締まり方が明らかに変わっていた。
水たまりの跡には砂利が厚く敷き詰められ、荷車の轍が何本も並行して通れるほどに道幅が広い。左右の側溝には淀みなく水が流れ、要所ごとに置かれた高札には、通行を妨げる関銭の徴収を禁じる旨が、簡潔な墨痕で刻まれていた。
琵琶湖の南岸をかすめ、東へと進むにつれ、その「規格」の異様さは密度を増していく。
「……若。なんか、妙じゃありませんかい」
荷馬の手綱を引く弥三郎が、首筋を気味悪そうにさすりながら声を潜めた。
「京の都も人が大勢いましたがね、あっちは古い町屋の隙間に人がごちゃごちゃ詰まってる感じでしたよ。……ですが、この道はなんですか。荷車を引く牛も馬も、みんな同じ速さで歩かされてるみたいだ。侍も商人も、変に脇見もせず前ばっかり見て歩いてやがる」
「線引きがなされているからだ」
馬上の崇清は、街道の路肩に等間隔で打ち込まれた境界杭を見下ろした。
「荷を運ぶ道と、人が歩く端が分けられている。辻ごとに荷駄の留め置き場があり、荷崩れを起こした車を退避させる余白まで計算して道が削られているんだ。……商人の足止めを徹底的に嫌う男の設計だ」
織田信長の領国に入ったのだと、崇清は胃の底が冷えるような感触とともに実感していた。
前世の近代都市計画でいう「幹線道路網の規格化」と「物流のボトルネック排除」である。それをこの天正年間に、権力者の鶴の一声と徹底的な土木工事によって現出させている。机上の空論ではない。道を行き交う無数の駄馬の背には、油、鉄、米、塩が整然と積まれ、琵琶湖の湖上水運と直結した港へ向けて、滞りなく吸い込まれていた。
やがて、平野の向こうに突き出た安土山が視界に入った瞬間、弥三郎が手綱を取り落としそうになって息を呑んだ。
「……ひ、ええ……ッ」
天を衝くようにそびえ立つ、巨大な総石垣の城塞。
山そのものを削り、巨石を幾重にも積み上げて築かれたその頂に、天主の威容が黒々と、そして黄金の輝きを放ちながら聳え立っていた。
山裾から頂へと一直線に伸びる、幅六間(約十一メートル)にも及ぶ直線の大手道。
両脇には整然と重臣たちの屋敷が並び、石段の踏み石には、近隣の寺社から引き剥がして転用されたという石仏の姿すら混ざっている。
「な、なんですかあの城……! 山の上に、寺と宮殿を無理やり合体させて積み上げたみたいじゃありませんか! あんなの、どうやって攻め落とすんですかい!?」
「攻め落とさせるために造った城ではない」
先頭を進む正使・島津歳久が、馬首を止め、冷ややかな目でその威容を見上げた。
「戦うための砦ならば、これほど無防備に真っ直ぐな石段を天に向かって通すはずがなかろう。……田舎侍を気圧し、ひれ伏させるための巨大な罠よ。入る前から、相手の度肝を力ずくでへし折る腹積もりじゃな」
「兄上の仰る通りです」
崇清は胸の内で小さく息を吸い込んだ。
軍事要塞ではなく、権力の絶対性を見せつけるための劇場型建築。信長という男の美意識と、合理の極致がそこにあった。だが、崇清の目を真に奪ったのは、天主の豪奢さではなく、その山の足元――琵琶湖の内湖に直結した港湾設備であった。
湖から直接、城の北側へ船を引き入れられる舟入。物資を陸揚げすることなく、水上からそのまま城内深くへ運び込める補給動脈が、完璧な形で組み込まれている。
(……戦う要塞じゃないと言いながら、兵站の直結だけは絶対に外していない。やはり、とんでもない化け物だ)
大手道の登城口で馬を預け、手荷物の改めを受けた。
案内されたのは、二の丸御殿の広敷――信長への拝謁を待つ諸大名や使節が留め置かれる、広大な控えの間であった。
磨き上げられた長押、障壁画の金泥が鈍く光る板敷き。
すでに幾人かの武将や使者が、息を殺して控えていた。皆、身なりこそ立派な小袖を着込んでいるが、信長の御座所から漂ってくる無言の圧力に呑まれ、一言も発することなく肩をすぼめている。
弥三郎は足が竦んで歩けなくなり、崇清の背中に張り付くようにして擦り足で進んでいた。
「若……空気が重くて息が詰まりそうですよ。早く用件済ませて、都へ戻りましょうや……」
「黙って座っていろ」
崇清が角の畳へ腰を下ろそうとした、その時だった。
広間の片隅、薄暗い柱の陰に、一人の武将がぽつんと座していた。
地味な、灰色の麻の小袖。
三十代半ばほどの背格好で、贅肉の少ない頑強な体躯をしてはいるが、背中を丸め、膝の上に両手を置いてじっと板敷きを見つめている。
その男は、周囲の豪奢な安土城の調度にも、行き交う織田家の近習たちにも一切目を向けず、ただ無言で――自らの親指の爪を、ガリ、ガリと神経質そうに噛んでいた。
崇清の視線が、その男の横顔を捉えた。
「――ッ!?」
瞬間、崇清の全身の毛穴という毛穴が、一斉に逆立った。
胃袋の底が凍りつき、心臓が肋骨の内側を激しく乱打する。
額から、冷たい汗がタラリと頬を伝って流れ落ちた。
(う、嘘だろ……!? な、なんで……なんで今、ここにいるんだ!?)
前世の歴史知識が、脳髄の奥で警報をけたたましく鳴り響かせていた。
爪を噛む癖。
地味極まりない三河木綿の身なり。
そして、あの陰気で、どこまでも頑なに自らを殺して気配を消している独特の佇まい。
徳川家康。
(本物だ……! 間違いなく徳川家康だ……!!)
崇清の頭の中で、後世の歴史の奔流が濁流となって渦巻いた。
武田信玄の猛攻を耐え忍び、三方ヶ原の惨敗を生き延び、やがて信長が死に、秀吉が死んだ後、関ヶ原で天下を総取りする男。そして何より、関ヶ原の戦場において、兄・義弘の島津軍を死中に追い詰め、「島津の退き口」という壮絶な地獄を現出させた徳川勢の頂点。
(怪物だ……! 忍耐と兵站の究極の化け物が、すぐそこに座ってる……!!)
雑賀攻めの戦勝祝いと、遠江・高天神城をめぐる対武田戦線の支援要請のために安土を訪れていたのであろう。状況の符合は一瞬でついた。ついたがゆえに、恐怖は倍増した。
崇清自身、これまで大隅や耳川で数々の奇策や兵站網を敷いてきた。
だが、それは崇清自身の才能ではない。崇清の胸の奥底には、常に冷え切った自己認識があった。
(……俺なんて、所詮は何百年も後の『巨人の肩』に乗っかって、カンニングペーパーを広げているだけの凡人にすぎないんだ)
衛生管理も、複式簿記も、竹の骨帆も、すべて後世の人類が血を流して積み上げた知恵を横流ししているだけだ。
だが――目の前に座っているこの男たちは違う。
暗闇の中、なんの答えもない中世の混沌から、自らの爪を噛み、胃を焼き、己の肉体と才覚ひとつだけで時代をねじ伏せて天下を奪い取る、正真正銘の「生の怪物」なのだ。
巨人の肩を借りている凡人にとって、自力で巨人に成り上がる者ほど恐ろしい存在はなかった。
崇清は即座に視線を床へ落とし、首を竦めた。
呼吸を止め、気配を殺し、自らを部屋の隅の埃か何かに見せかけようと、全身の筋肉を強張らせる。
(見るな。絶対に目を合わせるな。今ここで少しでも目をつけられたら、後世の歴史の因果がどう狂うか分かったもんじゃない……!)
崇清の異常な強張りに、隣に座った弥三郎が怪訝そうに眉をひそめた。
「……若? どうしたんですかい、急に真っ青になって。腹でも下しましたか?」
「黙れ、声を出すな……!」
崇清は歯の隙間から、消え入るような声で囁いた。
「あっちを見るな。絶対に視線を向けるんじゃない」
「あっちって……あの柱の影のおっさんですか?」
弥三郎は事も無げに首を傾げ、爪を噛んでいる男をまじまじと見つめた。
「……なんですか、あのおっさん。信長様の家来にしちゃえらく着物がみすぼらしいし、さっきから爪ばっかり噛んでて陰気くさいじゃありませんか。田舎の庄屋の使いか何かでしょ」
「庄屋なわけがあるかバカ野郎ッ!!」
崇清は声にならない悲鳴を上げ、弥三郎の着物の裾を千切れるほど強く引っ張った。
「いいか弥三郎、あの男はな、狸なんだよ! 世界で一番恐ろしい、百年生きてすべてを食い散らかす人喰い狸なんだ!!」
「はぁ? 狸? 若、いよいよ安土の空気に当てられて頭がおかしくなりましたかい? 都で公家衆を相手に鳥を揚げてた時のあの図太さはどこへ行ったんですか」
弥三郎が呆れ返った顔をする一方で、少し離れた上座に座っていた歳久が、不審そうに崇清の様子を横目で伺っていた。
都の烏丸サロンでは、五摂家の近衛前久を顎で使い、武家伝奏の勧修寺晴豊の胃袋を掴んで銀を叩きつけ、主上から若一王子神社の「正一位」の口宣案を力ずくで引きずり出してみせた弟である。あの冷徹極まりない崇清が、なぜか部屋の隅の、名も知らぬ一人の武将相手に、生まれたての子鹿のように震えているのだ。
歳久は扇子を畳み、静かに眉をひそめた。
(……何なのだ、あれは。あの男が何者かは知らぬが、ただの地味な田舎侍ではないか。なぜあそこまで青ざめておる?)
その時だった。
崇清の放つ、異常なまでの警戒と殺気立った視線――いや、「見まい」とするがゆえの強烈な意識の気流を察知したのか。
柱の陰で爪を噛んでいた家康が、ふと顔を上げた。
小さく、澱んだように見えるが、底知れぬ深さを持った二つの眼光が、まっすぐに崇清を捉えた。
「――っ!!」
崇清の心臓が跳ね上がった。
家康はゆっくりと口元から手を離し、畳の上を摺り足で進むと、崇清たちの座る場所へと近づいてきた。
その足音は驚くほど静かで、床板の軋み一つ立てない。
粗末な小袖の裾を払い、崇清の斜め前、二尺ばかり離れた場所にどっかりと腰を下ろす。
「……三河の、徳川三河守家康と申す」
低く、地を這うような掠れた声であった。飾り気のない、しかし三河武士特有の頑固な骨太さを感じさせる響き。
「貴殿らは……見慣れぬ身なりをしておられるな。薩摩の、島津の使節殿とお見受けするが」
崇清は畳に両手を突き、額を床に擦り付けんばかりにして平伏した。
「は、ははっ……! 大隅より参りました、蒲生島津が崇清と申します……! 徳川様におかれましては、遠江・三河の御武勇、遥か南国まで鳴り響いており……!」
上擦った、絵に描いたような模範的な追従。
だが、家康はその言葉には一切乗ってこなかった。
家康の細い双眸は、崇清の平伏した姿勢、そして畳についた「手」をじっと凝視していた。
「……刀の柄を握る胼胝ではないな」
家康が、ぼそりと呟いた。
「筆と算盤、それに……荷を縛る縄で擦れた痕か。南国の武士と聞き及べば、隼人の如き荒くれ者ばかりかと思うておったが……貴殿は、帳簿を繰る文官の手に似ておる」
(見抜かれてる……! 手のタコだけで、俺の実務を見抜いてきやがった……!!)
崇清の背中に、冷や汗が滝のように吹き出す。
家康の視線は、崇清の脇に置かれた、漆塗りの厳重な木箱――信長へ献上するために持参した特装遠眼鏡の箱へと移った。
「……その箱から、樟脳と、わずかに潮の匂いがする。大隅から瀬戸内を船で抜け、一度も荷を濡らさずにここまで運んできたか。……見事な手落ちのなさよ」
家康はそう言うと、ふっと微かに口元を緩めた。だが、その瞳の奥は一ミリも笑っていなかった。
武田との死闘で常に補給の欠乏と兵站の破綻に苦しんできた家康だからこそ、遠路はるばる九州から無傷で物資を届けてみせたこの使節の「物流の確かさ」を、本能的に嗅ぎ取っていたのだ。
「上様(信長)へのお目通り、気張られよ。……上様は、気の短い御方ゆえな」
家康はそれだけを言い残すと、再び自らの座所へと静かに戻り、何事もなかったかのように親指の爪をガリと噛み始めた。
崇清は畳に手をついたまま、しばらく呼吸すら忘れていた。
肩で激しく息を吐き、膝の上の汗を拭う。
「……ひ、拾った……命拾いした……」
崇清が呟いた。
その隣で、弥三郎が死んだ魚のような目で心底呆れ果てていた。
「若、何が命拾いですか。あのおっさん、ちょっと話しかけて戻っただけじゃないですか。何をそんな、化け物に首根っこ掴まれたみたいに怯えてるんですかい」
歳久もまた、扇子で顎を撫でながら、信じられないものを見るような目を崇清に向けていた。
「……崇清。そなた、都の関白や伝奏を相手にはあれほど不敵に立ち回り、帝の御膳に鳥の揚げ物をねじ込んでみせた剛の者ではなかったか。……なぜ、あの三河の地味な小大名ひとりに、そこまで縮み上がっておるのだ?」
「あ、兄上……分からないんですか」
崇清は青ざめた顔を上げ、周囲の近習に聞こえぬよう、息を極限まで押し殺して囁いた。
「あの男は……あの徳川家康という男は、ただの地味なおっさんじゃないんです……! あいつは、生き残るんです! ……信長公が倒れようと、誰が斃れようと、最後に全部掻っ攫っていく、究極の怪物なんですよ……!」
「……上様が倒れる、だと?」
歳久の目が鋭く光り、次いで深いため息とともに扇子をパチンと鳴らした。
「滅多なことを口走るな、ここは安土城の真っ只中ぞ。……そなたの神算鬼謀は恐ろしいほどだが、たまにこうして、どこの馬の骨とも知れぬ者に得体の知れぬ怯えを見せるな。まこと、分からぬ男よ」
歳久は呆れたように首を振った。
崇清は胃を押さえ、うめき声を漏らすしかなかった。
(分からないのは当然だ……! だが俺は知ってるんだよ、この男が後世でどれだけ恐ろしいことをしでかすかを……!)
だが、崇清の胃痛劇は、これで終わりではなかった。
「――おやおや! これはまた、遠方から珍客がお見えのようでござるなァ!」
廊下の奥から、甲高い、まるで道化のような笑い声が響き渡った。
広敷の襖が勢いよく左右に開かれ、派手な金襴の陣羽織を翻した小柄な男が、落ち着きなく手を振りながら大股で入ってきた。
その顔は猿のように皺くちゃで、口元には愛嬌と油断のならぬ光が同時に張り付いている。
そして――そのすぐ後ろには。
鋭利な抜身の刀のような俊敏さで、隙のない足取りで付き従う痩身の若武者がいた。その涼やかな双眸の奥には、冷徹極まりない光が宿っている。
崇清の喉から、ひゅっと空気が抜けるような音が漏れた。
(……ま、待て……)
(嘘だろ……?)
(羽柴秀吉と……黒田官兵衛……ッ!?)
安土城の控えの間は、崇清にとって、前世のトラウマと未来の怪物がひしめく、文字通りの地獄の檻と化していた。
家康はこわいのです。
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