第90話 神階正一位の宣旨と禁裏の鳥揚げ
白々と夜が明けたばかりの烏丸茶房の裏庭には、昨日とはまた異なる、香ばしい油の熱気が立ち込めていた。
竈門の大釜に張られていたのは、澄み切った黄金色の菜種油。 崇清は袖を括り、真新しい竹箸を構えていた。 まな板の上には、昨夜の鳥刺しで残った皮に加え、早朝に洛外の農村から追加で仕入れさせた丸鶏の新鮮な肉が、整然と切り分けられている。
「……若、いくらなんでも油を使いすぎじゃありませんかい?」 隣で火の番をしていた弥三郎が、脂汗を拭いながら引き攣った声を上げる。 「菜種油なんざ、都じゃ夜の行燈に一匙ずつ垂らして使うような高価な油ですよ! それを大釜に並々と注ぎ込んで、鳥を丸ごと沈めて揚げるなんざ……金銀を火にくべて燃やしてるようなもんですぜ!」
「油は熱を均一に通すための媒体だ。ケチれば肉の水分が逃げて台無しになる」 崇清は平然と言い放ち、下味をつけた鶏肉の切り身を油鍋へと滑り込ませた。
シュワァァァァッ……!
凄まじい油煙とともに、食欲を直接殴りつけるような激しい音が早朝の裏庭に響き渡った。 大隅の熟成醤油、生姜、酒、そして少量の高須塩。小麦粉を薄く纏った鶏肉が、激しい気泡に包まれて狐色へと揚がっていく。 さらに崇清は、昨夜から水気を完全に切っておいた鶏の皮に粉を軽く叩き、脇の小鍋へと投入した。
チリチリチリ……と、繊細な音を立てて水分が抜け、飴色の薄い煎餅のようにカラリと反り返る。
「――ほう。昨夜の薬湯に続いて、朝から何やらえげつない匂いを立てておるな」 板戸が開き、寝起きの上気した顔の近衛前久が、扇子を手に現れた。
「前久様。朝の露払いに、これを」 崇清が差し出したのは、竹皿に盛られた二品。 狐色にカラリと揚がった大振りの塊――『鳥揚げ』。 そして、黄金色に透き通るように揚がり、高須の白塩を軽く振られた――『揚げ鶏皮』。
前久は箸で揚げ鶏皮を一切れ摘み上げ、口へ運んだ。
サクッ……パリパリッ!
「…………ッ!?」 噛み砕いた瞬間、軽やかな衣が弾け、凝縮された皮の脂の甘みがジュワッと口内へ溢れ出した。高須塩が脂のくどさを引き締め、噛むほどに香ばしい旨味が湧き出してくる。 「な……なんじゃ、この歯ごたえは……! サクサクと崩れたかと思えば、噛むほどに脂の甘みが溢れて止まらぬ! 鳥の肉本体よりも、むしろこの皮の方が恐ろしく美味いではないか!」
前久は続けざまに、熱々の鳥揚げへとかぶりついた。
ザクッ――ジュワァッ!
「あふっ、熱っ……! ……っ、美味いッ!! 薄い衣の中から、熱い肉汁が吹き出してきおる! ……崇清、これを何という?」
「名はまだございませぬ。鳥を油にて揚げただけのものにございます」
「……これを『だけ』と申すか」 前久は呆れ果てたように天を仰いだ。 「これほど大量の油を沸かし、惜しげもなく鳥を沈めて揚げるなど、油を灯火として後生大事に使う都の人間から見れば狂気の沙汰の贅沢じゃ。……帝の御膳に、これを運ぶ気か?」
「いえ」 崇清は首を振った。 「私どものような地方武士が勝手に揚げた料理を、帝の御膳へそのまま上げるなど宮廷の作法に反します。……献上いたしますのは『料理』ではございませぬ。洛外で育てさせた極上の生きた鶏、大隅で搾った清浄なる菜種油、飯隈の熟成醤油と白塩。そして、下処理と火入れの『仕法』を記した巻物にございます」
前久の目が、鋭く細められた。 「宮中の御庖丁人に仕法を委ね、内裏の作法に従って帝の御前で揚げさせるわけか。……これならば穢れの懸念も消え、島津は『帝の健やかな養生を願い、至高の食材と仕法を献じた家』となるな」
「左様にございます。そして――」 崇清は、冷徹な計算を口にした。 「この鳥揚げと鶏皮揚げは、市井の売り物にはいたしませぬ。烏丸茶房で金銀を積まれようと、一般の客には一皿たりとも出さぬ『非売品』といたします」
「……売らぬのか? これほどの珍味を」
「これは、贈られた陛下と、それを献上した島津のみが供することを許される、至高の佳肴でございます。島津が都の座敷において、真に心を許し、盟約を結ぶに値すると『選んだ客』をもてなす折にのみ、特別に一皿だけ振る舞う刃とするのです」
前久は息を呑み、次いで獰猛な笑みを浮かべて扇子を打った。 「……恐ろしい男よ! 『帝と同じものを口にした』という特権を、島津の胸先三寸で下賜するわけか! 公卿も豪商も、貴様からその一皿を出されることを望み、競って島津の足元に平伏するわ!」
*
それから、七日の月日が流れた。
近衛前久の手を通じて宮中へ納められた食材と仕法は、禁裏御庖丁人の手によって直ちに吟味され、作法に則って揚げられた熱々の鳥揚げが、正親町天皇の御膳へと運ばれた。 御簾の奥から漏れ聞こえた「これほどの佳肴、いまだかつて知らず」という主上の感嘆の声は、瞬く間に宮中を駆け巡った。
さらに、納められた純銀三百枚の禁裏御築地修理料。 そして、吉田兼見が調えた「皇祖オシホミミを祀る正統の砦」という神階執奏状。
外堀は完璧に埋め尽くされていた。 臨時に召集された陣議において、武家伝奏・勧修寺晴豊がその「至誠」と「神統譜」を堂々と奏上した際、異論を挟む公卿は一人として現れなかったのである。
そして七日目の昼下がり。 烏丸茶房の奥座敷へ駆け戻ってきた勧修寺晴豊は、直衣の裾を正し、晴れやかな面持ちで歳久と崇清の前に膝をついた。
「……島津殿。すべて、滞りなく相整ったぞ」
晴豊は懐から、紫の組紐で厳重に結ばれた一巻の桐箱を取り出した。 桐箱の蓋を開き、中から純白の奉書紙を恭しく押し戴く。
「主上より、勅許が下りた。……左馬頭殿、崇清殿、畏れ多くも拝受されよ!」
歳久が進み出て深々と頭を垂れ、崇清もまた畳に両手をついた。
「『薩摩国肝属郡飯隈、若一王子社……祭神・天忍穂耳尊。朝家の安寧を祈念し、南国の邪教を退くる至誠の功により、神階・正一位を宣下し奉る』――!」
晴豊の朗々たる声が座敷に響き渡った。 差し出されたのは、武家伝奏たる晴豊の加判と弁官の下知が墨書された、紛れもない朝廷の公文書――『正一位口宣案』。 その隣には、吉田兼見が由緒を裏書きした『神階執奏状』が寸分の狂いもなく添えられていた。
歳久が恭しく押し戴き、その双眸の奥に静かな光を宿らせた。 南九州の辺境の一小社に、朝廷の最高位たる「正一位」の冠が被せられた瞬間であった。
晴豊は安堵の息を吐きつつ、懐の扇子をもてあそび、声を潜めて崇清を見つめた。
「……それにしても崇清殿。豊後の大友宗麟の狂乱は、いよいよ都の耳にも届いておるぞ。社寺を焼き払い、南蛮伴天連に土地の特権を売り渡しておるとか。……このままでは大友の家名は、朝敵の汚名すら免れぬぞ」
「ご案じ召されるな、晴豊卿」
崇清は平然と頭を下げた。
「大友の暴挙は宗麟公個人の狂信によるもの。我らはすでに筑前の忠臣たちと密かに意を通じ、嫡男・義統公への代替わりを以て大友の家名を救う手筈を整えております。いずれ島津がその後見の受け皿となり、朝家の秩序の内へと引き戻しましょう」
「……相分かった。大友が神仏を敬う道へ戻るならば、朝廷としても異論はない。貴殿らの差配に任せる」 晴豊は満足げに頷き、座敷を辞していった。
再び静寂が戻った座敷で、歳久は床の上の口宣案を見つめ、静かに吐息を漏らした。
「崇清。……菓子を焼き、麺を打ち、鳥を揚げて、朝廷の最高権威を力ずくで動かしおったな。まこと、空恐ろしい手際よ」
「いえ」
崇清は薄く笑った。
「これは、ただの紙切れではございません。……大友の『キリシタンによる売国』を朝廷の権威をもって完全にへし折り、そして肥後の阿蘇を縛るための、絶対に外せぬ首輪でございます」
「阿蘇の首輪、か」 歳久が顎を撫で、口元を緩めた。 「阿蘇神社の大宮司・惟将殿はまだ若輩。実権を握る家老の甲斐宗運は、長年大友を後ろ盾として北の龍造寺を警戒してきた男じゃ。……なるほどな。阿蘇神社の健磐龍命に対し、祖神たるオシホミミを祀る我が社が先に『正一位』を取った。その上で阿蘇を『従一位』へ押し上げる道筋を提示するわけか」
「左様にございます」 崇清が頷くと、歳久は目を細めて低く笑った。
「どこまでも抜け目のない男よ。『従一位』ならば阿蘇にとっても破格の栄誉ゆえ誇りは立つ。だが、我が社の『正一位』を決して超えられぬ以上、神階の序列において阿蘇は永久に島津の風下に立つことになる。……神領の祭祀を永久安堵し、泥臭い武力防衛は島津が盾となって引き受けると言えば、宗運ほどの現実主義者がこの首輪を蹴るはずもないな」
「はい。武門としての武装を解かせ、神職の誇りを立てて島津の秩序に組み込みます」
「……それと崇清」 歳久は視線を鋭くし、扇子の先で机をトンと叩いた。 「先刻、晴豊卿に『大友を救う受け皿となる』と申しておったな。……耳川の前に道雪殿らと交わした起請文では、『宗麟が退いて義統へ代替わりするなら、家格と領国を安堵する』と約束しておったはずじゃが」
「ええ」 崇清は眉一つ動かさず、冷徹に言い切った。
「あの約定は、とっくに失効しております」
「ほう?」
「約定の条件は、宗麟公の隠居と義統公への代替わりでした。ですがあのお方は退かず、社寺を焼き、伴天連に国を売る挙に出た。条件を満たせなんだのは大友側……約定を破ったのは宗麟公です。島津に領国安堵の履行義務など、もはや一片も残っておりませぬ」
崇清の瞳に、乾いた現実主義者の光が宿る。
「いまや大友は、朝敵の汚名すら着せられかねぬ天下の大悪人です。もはや領国などと贅沢を言える立場ではない。……ですが、主家の狂乱に苦しむ道雪殿や紹運殿への筋目だけは通します。大友の家名は義統公に継がせて残す。ただし、それは約定の履行ではなく、島津の絶大なる恩情によるものです」
「……ならば、大友には何を残す気だ?」
「京の屋敷と、宗麟公と義統公が都で十分に贅沢に暮らせるだけの、相応の知行のみでございます」
崇清は机の上の九州図を見下ろした。
「豊後六ヶ国の領主権は綺麗に剥ぎ取り、領地と民はすべて島津の秩序に拾い集める。宗麟公の狂乱を府内の乾殺しで極限まで立ち枯れさせ、最後は都の名家として祭り上げて無力化するのです。……武力で殲滅せず、家名と命を救い、都の黄金の檻へ棚上げしてやる。これ以上の温情はございません」
「くくっ……人を喰うた男よ」 歳久は心底愉しそうに笑い、扇子を打った。 「大友の骨を外から干し上げ、家名を救う恩を着せて丸ごと呑み込むか。よい。朝廷の座敷はこれで完璧に押さえた。……次は、近江の覇王じゃな」
「はい」 崇清は立ち上がり、懐からクスノキ造りの特装遠眼鏡を取り出した。
「安土城へ向かいます。……織田信長の視界に、島津の輪郭を正しく刻み込むために」
唐揚げは本体もうまいですが皮が美味いんですよね。安いし。
ビールにめちゃくちゃ合います。
セントセバスチャンのダークに合わせたらたまりませんw
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