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第五部終了『蒼溟の覇王 ―島津海洋帝国記―』 〜「死んだら売上ゼロだろ」 戦国薩摩の捨て石から、畳の上で死ぬために組織と兵站を組んで海洋覇権を握るまで〜  作者: 堀川うつら
第5部「黒潮海道と京洛の謀略」

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第89話 夜の烏丸と深夜の鳥刺し・薬湯麺

烏丸通に夜の帳が下りる二刻前、茶房の奥座敷には、異様な緊張感が張り詰めていた。


昼の喧騒が嘘のように静まり返った板敷きの間。 卓を挟んで向かい合っていた近衛前久が、目の前に置かふれた白磁の皿を凝視し、引き攣ったように眉をひそめていた。


「……崇清。いくら数奇者を自認する麿とて、これは冗談が過ぎるのではないか」


皿の上に盛られていたのは、薄く引かれた淡い桜色の肉片である。 皮目だけが炭火で黒々と香ばしく炙り焼きにされ、切り口からは澄んだ脂が艶やかに滲み出ている。 添えられているのは、おろしニンニクと、大隅の飯隈で仕込ませて持ち込んだ甘口の熟成醤油。


「鶏の生肉じゃと? 鶏は時告げの神鳥にして血を忌むもの……ましてや生で口にするなど、ものの怪の所行ではないか」


「ものの怪ではございませぬ。『鳥刺し』にございます」


崇清は無表情に、手元の竹箸を前久の前へ押し出した。


「神前に供する直会の儀において、鳥は血忌みを離れて清らかな供物となります。腹を壊す原因は神罰ではなく、羽を毟り内臓を抜く際に付着する目に見えぬ腐りの毒気――腸の汚れにございます」


「……腐りの毒気、じゃと?」


「左様。ゆえに、この鳥は洛外の農村から生きたまま十余羽を買い入れ、裏庭にしつらえた小屋から出して、先刻息の根を止めて捌かせたばかり。内臓を傷つけずに中抜きし、腹の空洞を井戸水で洗い流して完全に水気を切る。その上で、皮の表面のみを強火の炭火で一気に炙り焼きにして、表面の毒気を焼き殺しております。まな板も包丁も、熱湯で清めた専用のものしか使わせておりませぬ」


前久は目を丸くし、皿の上の肉片と崇清の顔を交互に見比べた。 生肉特有の生臭さなど微塵も漂ってこない。あるのは、皮目の炭の香ばしさと、熟成醤油の甘やかな香りだけだ。


「……毒味をせよ、と申すのだな。今宵の公卿どもを前に、麿に先陣を切らせるために」


「毒など入っておりませぬ。……前久様が口に運ばれねば、都の公家どもは箸すらつけますまい」


「くくっ、人を使い倒すことにかけては、まことに容赦のない男よ」


前久は自嘲するように笑い、意を決したように竹箸を取った。 ニンニク醤油をほんの少しだけつけ、薄切りの鶏肉を口の中へと放り込む。


咀嚼した瞬間――前久の喉が、ぴくりと跳ね上がった。


「…………っ!?」


歯を押し返すような、力強い弾力。 噛み締めるごとに、炭火で炙られた皮目の脂の香ばしさが弾け、赤身の清涼な甘みが舌の上いっぱいに広がっていく。ニンニクの刺激と熟成醤油の深いコクが、淡白なはずの鶏の旨味を何倍にも引き立てていた。


「な……なんじゃ、この身の締まりと甘みは……! 魚の刺身よりも歯ごたえがあり、それでいて後味には一切の雑味がない……!」


「さらに、こちらを」


崇清がすっと差し出したのは、小鉢に盛られた黒褐色の煮物であった。


「……これは何じゃ。色がおどろおどろしいが」


「先刻抜いた鶏の内臓――肝(レバー)と砂肝にございます」


「なっ!? 内臓を喰わせる気か!?」


「生では出しませぬ」


崇清は冷徹に言い切った。


「内臓は腐りの源、生で食せば確実に腹を下します。ゆえに、氷水に浸けて血の塊を完全に洗い落とし、塩揉みでぬめりを抜いた上で、熱湯で茹でこぼしてアクを洗い流しました。その澄んだモツを、酒と生姜、濃口醤油で汁気が飛ぶまで煎り煮にしたものにございます」


前久はもはや抗うことなく、小鉢から一切れの肝を箸でつまみ、口へ運んだ。


舌の上で、ねっとりと濃厚な旨味がほどける。 内臓特有の嫌な臭みは生姜の香気によって完全に消え去り、甘辛い醤油の味付けが、肝の重厚なコクを極限まで引き出していた。砂肝のコリコリとした快い歯ざわりが、口の中に小気味よいリズムを生む。


「……美味い」


前久の口から、深い吐息が漏れた。


「美味いぞ、崇清。……これは、酒が進んでたまらぬではないか」


「大麦のよもぎエール、ならびに唐芋の焼酎を冷やしてございます」


「よし」


前久は膝を打ち、細い目を獰猛に光らせた。


「今宵の座敷、麿が一芝居打ってやろう。『都の愚物どもには、この至高の直会が分からぬか』とな。……狸どもの度肝を抜いてやるぞ」


*


夜四ツ(午後十時)。 烏丸茶房の奥座敷は、都の権力者たちの熱気とざわめきに包まれていた。


几帳を背にした最上座には、五摂家の一にして当代随一の数奇者・近衛前久。 その脇に二条関白家や九条家の名代たちが並び、斜め向かいの武家伝奏の席には勧修寺晴豊。 下座には、堺や博多から駆けつけた豪商たちが、息を潜めて控えている。


裏庭の小屋から出されて直前に捌かれた、十余羽の新鮮な鳥刺しの皿を前に、晴豊は扇子を握りしめたまま困惑の表情を浮かべていた。


「……前久公。これは、まことに鳥の生肉なのでございますか? いかに薩摩の珍客をもてなす場とはいえ、公卿が生肉を食すなど、神仏への穢れにあたりはせぬかと……」


座中の公卿たちからも、不安げなささやきが漏れる。 その空気を切り裂いたのは、上座の前久のからからとした哄笑であった。


「何を怯えておるのじゃ、晴豊卿。都の公卿ともあろう者が、南国の至宝を前に腰を引くとは情けない」


前久は悠然と箸を取り、鳥刺しをたっぷりとニンニク醤油に浸すと、見せつけるように口へ運んだ。 そして目を細め、至福の表情で酒杯を煽る。


「……ふう。皮目は炭の炎で清められ、身は深山の湧水の如く澄み渡っておる。この歯ごたえ、この甘み……これこそが、古の神祇の祭祀において神前に捧げられたという『直会』の真の味よ。これを穢れと呼ぶなら、都の精進料理などただの草の根にすぎんわ」


前久が絶賛してみせたことで、座敷の空気が一変した。 前久がそこまで言うのだ。


「……で、では、某も一口……」


恐る恐る箸を伸ばした晴豊が、鳥刺しを口に入れた。


ゴクリ――。


「…………ッ!?」


晴豊の目が、丸く見開かれた。 周囲の公卿たちも、我先にと箸を伸ばす。


「美味い……! なんという歯ざわりじゃ!」 「魚の刺身とはまるで違う、この濃密な脂の甘みはなんじゃ!?」 「こちらの黒き小鉢の内臓煮も凄まじいぞ! 生姜の香気爽やかに、泥臭さなど微塵もない!」


間髪を入れず、炭火で香ばしく塩焼きにされた鶏もも肉の小皿が運ばれ、座敷は一瞬にして狂乱の酒宴と化した。 運ばれてくる「よもぎエール」の泡立つ苦味と、唐芋焼酎の冷や酒が、濃厚な鳥料理と絶妙に噛み合い、杯が空になる速度が跳ね上がっていく。


「この醤油の甘みと深み……堺の溜まりとも紀伊の醤油ともまるで違うぞ」 下座に控える堺の豪商が、小皿を光に透かしながら唸り声を漏らしていた。都のそこらにいる鶏を、解体と衛生の工夫、そして調味料の力だけで未知の珍味へ化けさせる――その恐るべき現場技術に、商人ゆえに骨の髄まで圧倒されていたのだ。


宴が深夜に差し掛かり、酒の酔いが座敷全体を重く包み込んだ頃合い。


崇清は、厨房の暖簾の陰で静かに立ち上がった。 二日二晩にわたり奥土蔵でとろ火にかけ、昼過ぎから弥三郎が強火で追い炊きを続けて白濁させた大鍋の前に立つ。 骨の髄まで溶け出し、完全に乳化した白いスープが、激しく泡立っていた。


「……若。公家衆も商人どもも、完全に出来上がってますぜ。ですが、本当に四足の骨の汁なんぞ出して大丈夫なんですかい? 鳥とは訳が違いますぜ」


「抜け道はある。……薬食い(くすりぐい)だ」


崇清の合図とともに、くぐり衆の給仕たちが、湯気の立ち上る大振りの椀を一斉に座敷へ運び込んだ。


立ち上る、強烈な骨髄の香気。 椀の中に張られていたのは、魚節の澄んだ京出汁とは似ても似つかぬ、白濁して泡立つ濃厚なスープであった。 その濁り湯の中に、木灰の灰汁で練り上げられた黄色い縮れ麺が沈み、上には青ねぎと木耳が乗っている。


「……な、なんじゃ、この白い汁は? 獣の匂いがするが……」


すでに泥酔しかけていた晴豊が、身を引いた。 そこへ、上座の前久が重々しく扇子を広げ、公卿たちを見回した。


「怯えるな、皆々。これは単なる肉汁ではない。明国の薬膳方を手本とし、傷病の武士を立ち上がらせるために調えられた『滋養の養生湯』じゃ。寒さと湿気に弱る都人の腑を底から温める、極上の薬食いよ」


「薬食い……左様にございます」


崇清が静かに進み出て、頭を下げた。


「琉球より薩摩へ渡りし黒豚(からぶた)の骨……その骨の髄を、明の薬膳方に倣って二日二晩煎じ出し、木灰の灰汁で練った『灰汁麦麺』を沈めました。酒宴の締めに、命を養う薬湯としてお召し上がりください」


明国の薬膳、そして前久の「薬食い」という免罪符に背中を押され、晴豊はレンゲを取り、白濁したスープを一口啜った。


ズッ……ズズッ――。


「…………ッッッ!!」


伝奏卿の全身が、雷に打たれたように硬直した。


舌を包み込む、圧倒的な脂のまろやかさと、暴力的なまでの骨髄の旨味。 薄味の精進料理と淡泊な京の出汁しか知らぬ貴族の脳髄へ、凝縮された黒豚のカロリーとうま味が、直接殴りかかってくるような衝撃であった。 麺を啜れば、灰汁の独特のコシがスープを絡め取り、噛むたびに小麦の香りが口内を満たす。


「う……美味い……ッ! 美味すぎるッ!」


晴豊は烏帽子がずれるのも構わず、無我夢中で麺を啜り、椀に顔を埋めて白濁したスープを一滴残らず飲み干した。 周囲の公卿たちも、堺の商人たちも同じであった。 誰一人として言葉を発する者はおらず、ただ座敷中から「ズズッ、ズズズッ」という凄まじい麺を啜る音だけが響き渡る。


椀の底が見えた時、晴豊は荒い息を吐きながら、額に大粒の汗を浮かべて天井を仰いだ。


「……なんという、湯じゃ……。胃の腑の底から、力が滾り湧いてくるかのようだ……」


心も、胃袋も、完全に叩き潰されていた。 尊大な公家の誇りも、商人の打算も、圧倒的な滋養と満腹感の前に、跡形もなく溶け去っていた。


その静寂の座敷の空気を破るように、上座の傍らから、凛とした衣擦れの音が響いた。


「――晴豊卿」


進み出たのは、これまで静かに座敷の推移を見届けていた正使・島津歳久であった。 直垂の袖を正し、堂々たる威厳を漂わせて平伏するその姿に、晴豊は居住まいを正した。


「左馬頭殿……」


「此度の島津の上洛、我が兄・修理大夫義久が命じた唯一の筋目は、朝廷への変わらぬ至誠をお示しすることにございます」


歳久の通る声が、座敷の貴族たちを静まり返らせる。


「過日の耳川の戦い、大友宗麟が神仏を焼き捨て、異国の邪教に狂いて攻め寄せしを打ち破りしは、偏に朝家の安寧と王法を守らんがため。……なれど都を見れば、禁裏の御築地は崩れ落ち、雨風に晒されておると伺いました。これを放置しては武門の恥辱。島津の正使として、直々に朝廷へ献納仕りたく存じます」


歳久の目配せを受け、崇清が音もなく歩み寄った。 抱えていた白木の箱を、晴豊の目の前へ下ろし、静かに蓋を開く。


行燈の光を反射して、鈍く輝く純銀の延べ板が座敷中に満ちた。


「……ひっ!?」


晴豊が息を呑んだ。


「目録にございます通り、銀三百枚(約三千匁)にございます」 崇清が、歳久の脇から滑らかに言葉を継いだ。 「禁裏御築地の修理料として、そのまま宮中へ納め奉る所存。……あわせて、此度の島津の至誠のしるしとして、大隅の若一王子社への神階の儀も御奏上賜れれば、島津にとって無上の名誉に存じます」


銀の重みが、晴豊の胸を突いた。 口の中には、いま食したばかりの極上のスープの余韻が残っている。 五感を極限まで歓喜させられ、胃袋を完全に掴まれたその直後に差し出された、正使・歳久の重厚な大義名分と、朝廷の面目を救う莫大な現物銀。


「……し、島津殿」


晴豊は震える手で銀箱の縁を掴み、歳久と崇清の二人を交互に見つめた。


「大隅の若一王子社……皇祖オシホミミ様を祀る社への神階奏請の儀、しかと承った。……地方の一小社に一挙に『正一位』など、前代未聞、陣議でも異例中の異例の議となろう。公卿どもから異論も出かねぬ。……だが、これほどの至誠と皇祖の正統、そして吉田家の副状があれば、誰にも文句は言わせぬ。正一位の宣旨、必ずや、この晴豊が陣議をねじ伏せて引き出してご覧に入れようぞ!」


前久が扇子の陰で、満足げに口元を歪めた。 歳久は深く一礼し、崇清もまた静かに頭を垂れた。


「ありがたき仕合わせに存じます」


座敷の外、烏丸の夜空には、初夏の冴えわたる月が静かに光を落としていた。 都の狸たちの胃袋と懐を完全に掌握し、朝廷の頂点へと至る最後の歯車が、音もなく噛み合った瞬間であった。



ラーメンは美味いですよね。僕は鹿児島出身ですが熊本ラーメンが好きですね。(中古は親の仕事で熊本在住)今は亡き大大ラーメンと大津の文化ラーメンが好きでした。ヒライの山ちゃんラーメンはコスパ良すぎでうまいです。


次の投稿は19時予定です。

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