第88話 烏丸の昼下がりと泡立つ茶房
都の初夏の陽光は、大隅の山裾を照らすそれとはまるで色が違っていた。
白壁と板塀がどこまでも連なる京都・烏丸通。 近衛邸のすぐ南に構えられた大きな京町屋の軒下には、道行く公家や商人たちの目を引く、深い藍染めの暖簾が静かに揺れていた。 染め抜かれているのは、見慣れた武家の家紋ではない。 波頭を象った円の中に、一本の竹の節がすっきりと通った、商家の印である。
耳川の戦勝から、半年。 冬の間に資材と銀の算段をつけ、山川港から瀬戸内海を抜けて上洛を果たしてから、すでに十日余りが過ぎていた。 町屋の改装を突貫で終え、ようやく船旅の足の揺れが身体から抜けたばかりの弥三郎は、都風に新調した麻の着物の襟首を落ち着かなそうに引っ張りながら、白木の帳場机の陰で囁いた。
「……若、本当にこの暖簾、公家衆に見咎められたりしねえんでしょうね?」
「見咎められる筋合いはない」
崇清は膝の上の算盤から顔も上げず、冷徹に言い放った。
「表向き、ここは近衛家の所領から上がった茶と薬草を商う町屋だ。島津の正使たる歳久兄上と使節団が寝泊まりする宿所を兼ねているが、看板はあくまで『烏丸茶房』。武士の押し売りではなく、都の貴族が自らの銭を払って茶を飲みに来る場所に仕立ててある」
「……へいへい。ですがね、店の前に並んでる牛車と駕籠の数をごらんなさいよ」
弥三郎が格子戸の隙間を指差した。 通りの向こう、烏丸小路の辻まで、色とりどりの小袖を着た女房の使いや、供回りを連れた烏帽子姿の若公卿たちが、打ち水の撒かれた石畳を埋め尽くしていた。 皆、手元に扇子を握り、いまかいまかと店の板戸が開くのを待っている。
「入京の直後、前久様の手を通じて配らせた白檀石鹸と冷菓子の噂が、御所中を駆け巡った結果がこれですぜ。都の女房衆の物欲ってのは、耳川の敵陣より恐ろしいや」
「欠品を出すな、弥三郎」
崇清は手元の台帳をパチンと指先で叩いた。
「初日の石鹸は、白檀が五十、橘が五十の計百個。一人につき一個まで、永楽銭五百文。冷菓子の葛羹とかるかんカスタードは、合わせて二百椀。……どんな身分の高い公家が駄々をこねようと、例外は作るな。『本日の分は売り切れ』と頭を下げろ。手に入らない飢餓感こそが、この都では最高の値付けになる」
「相変わらず、えげつねえ算盤を弾きなさる……」
弥三郎が苦笑して頭を掻いた、その時だった。
「――ふふっ、田舎侍の商いと侮っておったが、なかなかどうして、都の座敷の使い方が板についておるではないか」
奥の襖が音もなく開き、涼やかな声が響いた。 現れたのは、白橡の直衣を優雅に翻した男――近衛前久であった。 その後ろには、島津家正使として公的な折衝を担う三兄・島津歳久が、静かに控えている。
「前久様」
崇清は算盤を置き、畳に手をついて深々と平伏した。
「表の騒ぎ、見苦しきところをお見せいたしました」
「よい、よい。見苦しいどころか、麿は痛快でたまらんわ」
前久は畳の上に腰を下ろし、扇子を広げて優雅に風を招いた。その細い双眸には、都の権謀術数を手玉に取る数奇者特有の、愉悦の光が満ちている。
「二条の関白殿の奥向きまでが、使いの小姓を走らせてきておるぞ。『薩摩の白檀石鹸が手に入らねば、今宵の御所での茶会に出られぬ』と、半泣きになっておったわ。……金銀を積まれても眉毛一つ動かさぬ都の女どもが、お前の持ち込んだ白い香石一つで、こうもあっさり掌の上で転がるとはな」
「公家衆が飢えているのは、金ではなく『他者が持たぬ雅』でございますから」
崇清が淡々と答えると、歳久が隣で低く喉を鳴らした。
「……相変わらず、人の心の隙間を突くことにかけては恐ろしい男よ。だが前久公、朝廷の陣議の根回しは、これで進みますか」
「抜かりはない」
前久は扇子を畳み、文机の上の竹筒を指先でトンと叩いた。
「武家伝奏の勧修寺晴豊卿へは、すでに昨日のうちに話を通した。薩摩から献納される禁裏の御築地修理料――その現物銀の目録を見せた瞬間、晴豊卿の目の色が変わりおったわ。信長公が安土で大普請を進める陰で、御所の塀が崩れ落ちたままであったことを、公卿どもは誰よりも恥じておったのだからな」
前久の口端が、冷徹な政治家の弧を描いた。
「そこへ、吉田兼見が調えた神階執奏状が届く。『大隅の若一王子社は皇祖オシホミミを祀る古社にして、豊後の大友宗麟個人のキリシタン狂乱による寺社破却に対抗する、南の正統の砦』という大義名分がつけば、晴豊卿が陣議で勅許を奏上するに何らの障りもない。……女房衆の鼻を掴み、公卿の懐を潤し、朝廷の面目を銀で繕う。崇清、貴様の引いた図面通りに、都の車輪は回り始めておるぞ」
「ありがたき仕合わせに存じます」
崇清は静かに頭を下げた。 だが、その表情に油断の色は一切ない。 頭の片隅では、いまこの瞬間も豊後水道の南口を扼している細島の船手と、府内湊で干殺しに喘いでいるはずの大友の情勢に、冷徹な視線を走らせていた。 (……府内が完全に干上がるまでの時間を、この都の座敷で稼ぎ切る)
「……刻限でございます」
土間の奥で、給仕の着物を着た歳久配下の忍び(くぐり衆)が、低く告げた。 店の表から、人々のざわめきと、待ちわびた戸を叩く音が一段と高くなる。
「弥三郎、開けろ」
「へいッ!」
弥三郎が太い閂を引き抜き、重い格子戸を左右に押し開いた。
カラン、と涼やかな竹の鈴の音が鳴り響き、初夏の京都の熱気が、一気に烏丸茶房の土間へと流れ込んできた。
「いらっしゃいませ――!」
飛び込んできたのは、雅な錦の小袖をまとった公家の若侍や、御所の女房たちから買い付けを言いつかった小姓たちである。 先を争うように土間へ雪崩れ込む客たちを、くぐり衆の給仕たちが手際よく座敷へと案内していく。
座敷に運ばれたのは、深井戸の底で冷やされた素焼きの器。 乳白色の葛羹に、黄金色の辺塚だいだいの蜜。 そして――。
「……こ、これは何じゃ?」
上座の几帳の陰に座った若い公家が、目の前に置かれた厚手の黒釉瓶を見つめ、目を丸くした。 ガス圧に耐えるよう肥前の唐津で特注させた堅牢な陶器瓶である。給仕が錫の針金を解き、渋紙の栓を抜いた瞬間――。
プシュゥゥッ……!
鋭く弾けるような気圧の音とともに、青々とした清涼な香気が、ふわりと座敷中に吹き上がった。 澄み切った水が杯に注がれると、底から無数の微細な気泡が、チリチリと涼やかな音を立てて立ち昇る。
「薩摩の深山に湧く霊水を用いた、清涼水にございます」
給仕は余計な来歴を一切明かさず、ただ恭しく頭を下げた。
「喉の渇きを癒し、夏の穢れを払う水として、神慮を込めて調えたものにございます」
公家は恐る恐る杯を取り、口をつけた。
ゴクリ――。
その瞬間、公家の端正な顔が強張った。 舌先を心地よく弾く、細やかな泡の刺激。 冷涼な気泡の奥から広がる、青々とした爽快感と、微かな甘み。そして深井戸の水による冷たさが、初夏の湿気で重く澱んでいた喉と胃の腑を、一瞬で突き抜けていった。
「……っ、美味い……!」
公家は息を呑み、杯を一気に干した。
「何という喉越しの清々しさじゃ……! 泡が舌の上で踊っておるかのようだ! これほどの涼味、都のいかなる茶の湯でも味わったことがないぞ!」
ざわめきが、座敷全体へと波紋のように広がった。 白檀の香りを放つ石鹸の木箱を抱え、冷えた葛羹を口に運び、泡立つ水を煽る公卿たち。 「南国の田舎侍」と見下していた者たちの表情から、尊大さは完全に消え失せていた。 そこにあるのは、圧倒的な技術と洗練によって提供された未知の味覚に、完全に心と胃袋を掴まれた者たちの陶酔であった。
帳場の奥で、崇清は冷徹に筆を走らせていた。 手元の台帳には、飛ぶように消えていく在庫の数と、積み上がっていく銭の数字が、寸分の狂いもなく記録されていく。
「……若」
空になった石鹸の木箱を運び出してきた弥三郎が、汗を拭いながら感嘆の息を漏らした。
「恐れ入りやした。公家衆の旦那がた、文句を言うどころか、明日の分の取り置きを頼むって銀の粒を握らせようとしてきましたぜ」
「受け取るな。先払いは規律を乱す」
崇清は帳面を閉じ、涼やかな目で座敷の狂騒を見つめた。
「昼の部はこれでいい。……女房と若公家の口を通して、島津の雅と富は今宵のうちに内裏の奥深くまで届く」
崇清は立ち上がり、奥の厨房の火加減を確かめるように視線を向けた。
「勝負は、夜だ」
「夜……? まだ何か出すんで?」
「夜は、公卿の当主どもと堺の豪商が来る。甘い菓子と清涼水で誤魔化せる相手ではない」
崇清の瞳に、夜の宴を見据えた冷徹な光が宿った。
「豚骨の追い炊きを続けろ、弥三郎。火を落とすな。……都の狸どもの胃袋を、根底から叩き潰すぞ」
胃袋をつかむのはつよいと思います。
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