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第五部終了『蒼溟の覇王 ―島津海洋帝国記―』 〜「死んだら売上ゼロだろ」 戦国薩摩の捨て石から、畳の上で死ぬために組織と兵站を組んで海洋覇権を握るまで〜  作者: 堀川うつら
第5部「黒潮海道と京洛の謀略」

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第87.5話 立花山の雨と南の白波(幕間)

 筑前立花山城の天守櫓を、玄界灘からの冷たい海風が叩いていた。  板戸の隙間から吹き込む潮風が、文机の上の行燈の火を小さく揺らす。


 岩屋城主・高橋紹運は、合議のために訪れたこの立花山城の奥座敷で、濡れた脛当を静かに解いた。三十路に入ってなお精悍な武者振りの奥に、隠しようのない苦渋が張り付いている。


 その向かいで、立花道雪は膝の上に置いた不自由な脚を、拳で静かに叩いていた。  古傷の疼きは、雨が近づくたびに骨の奥を重く刺す。だが、その痛みよりも遥かに冷たいものが、老将の胸の底に澱んでいた。


「……道雪殿。臼杵の仮御殿へ走らせておった早馬が、戻り申した」


 紹運の沈んだ声に、道雪は拳を止めた。


「先日、我らが臼杵の門前に座り込んで門前払いを食ろうて以来、なおも重ねて送った諫言の書状……あのお方は封すら切らず、志賀親守殿を通じて投げ返してきたそうじゃ。『退隠を迫るならば筑前の所領を召し上げる』という、あの荒唐無稽な脅しを、重ねて口にしておられるとのこと」


「所領召し上げ、か」


 道雪の唇から、短い嘲笑が漏れた。


「博多の商人や別府の浦を行き交う船頭どもの噂でも、府内の蔵には一粒の米すら届いておらぬという。……兵糧すら持たぬ男が、何をもって筑前の城を召し上げるというのだ。あのお方は、現実の数字すら見失っておる」


 道雪は机の引き出しから、厳重に封を解かれた一通の和紙を取り出した。  耳川の合戦の前、大隅の島津崇清から楠行者衆の手を経て極秘裏に届けられた、あの『府内港の裏証文』の写しである。  宗麟が南蛮のイエズス会に対し、日向の土地と港湾特権、治外法権を差し出すと約束していた売国の証拠。そして同時に添えられていた、島津崇清直筆の起請文の控え――。


『大友の家を滅ぼす意図はなし。耳川ののち、宗麟公を隠居させて家督を義統殿へ移されるならば、島津は日向境目を越えて侵犯せず、都の近衛家を通じて大友の家格と領国を朝廷より安堵させる手筈を整える』


 あの時、崇清が提示した道筋は、大友の忠臣たる道雪と紹運にとって、主家を救う唯一無二の蜘蛛の糸であった。  だからこそ二人は「筑前の防備」を口実に日向遠征への従軍を頑として拒み、手勢を無傷で温存した。遠征軍の大敗を機に宗麟へ退隠を迫り、義統への代替わりを成し遂げようと命がけで動いたのだ。


 奈多八幡宮の焼き討ちを受け、義統公や領内の社家衆も怒りに震え、家中は真っ二つに割れていた。条件は揃っていたはずだった。


「……じゃが、宗麟公は退かれなんだ」


 道雪の乾いた手が、和紙の端をぎりぎりと握りしめた。


「信仰そのものを責める気はない。……だが、その狂信を政の場へ持ち込み、日向の山野へ四万の兵を駆り立てて田北や佐伯ら遠征軍を壊滅させた。そこまでは、まだ武運の拙さで済んだかもしれぬ。じゃが、その破滅すらも『デウスの試練』と呼び、諫言する家臣を『異教の悪魔』と罵り、社寺を焼き払って塩と麦に飢える民を見捨てるに至っては……もはや、人の言葉が届く相手ではない」


 道雪の眼光に、苦渋の刃が光った。


「崇清殿との約定を……果たせなんだ。我ら家臣の手で宗麟公を退かせ、義統公のもとで島津と手打ちにするという筋書きが、あのお方ひとりの狂気によって、完全に水泡に帰してしもうたのじゃ」


「……御意にございます」


 紹運は目を伏せ、奥歯を噛み締めた。


「約定の条件が崩れた以上、崇清殿が起請文を破棄し、怒りに任せて豊後へ攻め込んできたとて、我らには抗弁のしようもない。……大友の家名は、ここで潰える運命だったはずだ」


 だが――と、紹運は顔を上げ、南の空を見据えた。


「解せぬのは、その後の島津の動きじゃ。……田北・佐伯らの軍勢が消え去り、我が家中の自壊を知りながら、島津の陸の兵は日向の国境から一歩も北へ踏み出してこぬ」


「うむ……」


 道雪も深く息を吐き、静かに顎を引いた。


「細島から豊予海峡にかけて船を並べ、府内へ向かう商船を片っ端から高鍋や細島へ引き戻しておる。府内へ流れる塩と鉄の喉首を完璧に締め上げながら、武力による侵攻は一切仕掛けてこぬ。……あれは、単なる約定破りの報復ではないぞ、紹運」


「では、崇清殿の狙いは……? 約定をすでに捨て去ったのか、それとも……」


「捨ててはおらぬのだろう。……あやつは、我らが宗麟公を力ずくで引きずり降ろせなんだことを見抜き、約定の形を生かしたまま、外から圧力を足しておるのじゃ」


 歴戦の老将の瞳に、ぞっとするような戦慄が走った。


「いま攻め込めば、宗麟公に反発しておる我ら筑前の手勢までが、領国防衛のために意地で結束することを知っておるのだ。だから兵を動かさず、海を塞ぎ、外から塩と米を絶って府内を干し殺そうとしておる。我らに宗麟公を抑え込ませるための、最後の猶予を与えつつ……」


 道雪は立ち上がり、雨に濡れる玄界灘を見つめた。


「宗麟公の意地と狂気が、大友六ヶ国の蓄えを完全に食い尽くし、領民からも見放されて立ち枯れるのを……南の山奥で、じっと腕を組んで待っておるのじゃ。あの男は、刀を抜くことすら惜しんでおる」


「……乾殺しか」


 紹運の喉が、低く鳴った。


 約束を反故にされた怒りで力攻めするのではなく、狂気の主君を抱えて身動きの取れぬ大友の急所を、冷徹極まりない「兵站の断絶」によって外側から締め上げている。  武士の情念や面目を一切交えぬその冷酷な合理性に、歴戦の猛将二人は底知れぬ怖気を覚えていた。


「……我らには、もはや宗麟公を止める手立てがない」


 道雪は絞り出すように呟いた。


「府内の息の根が止まるのが先か、あのお方の狂気が尽きるのが先か。……我らにできるのは、筑前を固めて肥前の龍造寺の動きを警戒しつつ、臼杵の最期を見届けることだけじゃ」


「……崇清殿は、大友をどうするお積もりなのでございましょうな」


「分からぬ」


 道雪は首を振った。


「じゃが……あの男の打つ手には、常に無駄がない。大友の器が粉々に砕け散った後、その破片をどう拾い集めるかまで、あの十九歳の頭の中にはすでに図面が引かれておるはずじゃ」


 二人の知将は、重い沈黙の中で見つめ合った。  大友を救うための最後の糸が切れ、名門の命脈が外側から静かに干し上がっていくのを、ただ見守るしかない無力感。


 立花山の雨は激しさを増し、遠く南の海原では、日向灘を北へ抜け、瀬戸内を通って都を目指す島津の船が、静かに、確実に、次の舞台へと舳先を進めていた。



崇清は豊後へ攻め込みません。


ここは少し意外に感じられるかもしれませんが、崇清にとって戦争とは、敵軍を倒すことだけが目的ではありません。


敵が戦い続けるために必要な兵糧、塩、鉄、船、商人、そして家中の結束。


そこを一つずつ削っていけば、わざわざ城を攻め落とさなくてもいい。


「一兵も動かさん」という判断は、臆病なのではなく、むしろその逆です。


勝てる戦でも、戦わずに済むなら、そのほうが安い。


京都での行動もそういう動機です。


次の投稿は19時の予定です。


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