第87話 砕け散る南蛮鐘と狂える無鹿
白く濁った雨水が、砕けた素焼き瓦の隙間を川のように流れていた。
豊後国臼杵、丹生島城の沖合に突き出た小半島。 日向侵攻の破滅的失敗を受け、宮崎の地に建てるはずだった理想郷の社殿を、逃げ戻った豊後の浜辺に強引に模倣させた仮初めの「無鹿」である。館の周囲には異様な硝煙と、濡れた漆喰の饐えた臭気が立ち込めていた。
ガガァンッ、と耳障りな金属音が、湿った大気を切り裂いた。
庭先に組まれた木組みの上で、南蛮渡来の青銅鐘が、大槌を振るう小姓の手で叩き割られている。 耳川の敗戦以来、この館の主が日に三度、家臣や侍女たちを集めて打ち鳴らさせている「礼拝の鐘」であった。
「……宗麟様。筑前より、立花道雪殿が罷り越してございます」
敷居の外で、老臣の志賀親守が声を震わせて平伏した。 豪雨に打たれ、泥濘に濡れた草鞋のままだ。
「道雪殿だけではございませぬ。岩屋城の高橋紹運殿も、重臣十余名を従え、表門に座り込んでおられます。『いま一度、殿にお目通りを願い奉る。義統公への代替わりを進め、領内の民の救済と足元の結束を図るべし』と……すでに二刻、雨の中で立ち尽くしておられますぞ」
薄暗い書院の奥、漆塗りの祭壇の前に膝をついていた男が、ゆっくりと首を巡らせた。
大友宗麟――洗礼名、ドン・フランシスコ。 五十の手前を迎え、削げ落ちた頬には焦燥と老いの影が濃い。だが、その窪んだ眼窩の奥に揺らめく光は、老人のそれではなく、飢えた野犬のそれよりも遥かに暗く、濁っていた。
「……退け」
掠れた、だが刃物のように冷たい声だった。
「道雪も、紹運も、悪魔の囁きに耳を貸した裏切り者よ。あの者らは、デウスの御心が見えておらぬ」
「宗麟様ッ! 道雪殿らは日向へ従軍できなんだ己の落ち度を悔い、大友の家を救わんと身を削って――」
「黙れッ!」
宗麟は手元の白木十字架を板敷きに叩きつけた。 パキリと甲高い音が響き、親守が息を呑んで平伏を深める。
「耳川の破滅は、神の試練じゃ! 田北や佐伯ら先鋒の者どもが討死したのは、異教の神仏を鎧の内に隠し持っておったからじゃ! 穢れを抱えて戦うたゆえに、デウスの怒りに触れて命を落としたのだ!」
宗麟は立ち上がり、狂乱の足取りで濡れ縁へ進み出ると、雨に煙る豊後水道の海を指差した。
「宮崎の無鹿は失われたが、神の国を建てる我が誓いは、この豊後においてなお潰えておらぬ! 道雪らは『府内の民を救え』と申すか? 神仏に縋り、寺社へ米を運ぶような不信心者に、なぜ我が倉の麦を分け与えねばならんのだ! 神の前に頭を垂れぬ民など、飢え死にすればよいわ!」
「そ、宗麟様……!」
「隠居など、断じてせぬ! 義統のような若輩に家督を譲れば、大友はたちまち異教の泥に呑まれる! ……志賀、表の者どもに伝えよ。『デウスの教えに背き退隠を迫るならば、筑前の所領をことごとく召し上げる』とな!」
宗麟は吐き捨て、祭壇の奥の暗がりへと姿を消した。 雨が激しさを増し、庭先の青銅鐘の破片を黒く濡らしていく。
表門の板塀の陰で、泥水を跳ね上げながら立ち上がった立花道雪は、不自由な脚を引きずりながら、雨天を仰いで歯噛みした。
「……狂うておる。あのお方は、すでに人の言葉を解さぬ」
横に立つ高橋紹運が、無言のまま濡れた太刀の柄を固く握りしめていた。 主家を支え続けてきた二大宿老の眼前に横たわっていたのは、もはや忠義で繕えるような綻びではなかった。 正室・奈多夫人の実家筋である奈多八幡宮が宗麟の手勢に焼き討ちされたことで、家中はいよいよ宗麟派と義統・道雪派の真っ二つに割れ、修復不能の亀裂へと突き進んでいた。
*
同じ頃、豊後府内湊の波止場。
雨煙る倉庫街の軒下で、笠を目深く被った男が、濡れた板壁に背を預けていた。 楠行者衆の頭領、道純である。
かつて南蛮船が横付けされ、金銀や生糸が山のように積み上げられていた府内の湊には、いまや活気など欠片もなかった。
停泊しているのは、襤褸布の帆を垂らした沿岸小舟ばかりだ。 日向灘から豊予海峡にかけての南口を島津水軍に押さえられた上、瀬戸内側の廻船も領内の内紛や宗麟による兵糧強制徴発を恐れて入港を敬遠し、府内の流通網は事実上麻痺していた。
「塩はどこへ行った! なぜ大隅の高須から塩船が届かぬのだ!」
「め、滅相もございません! 細島から北の海路は島津の番船が目を光らせておりまして……! 豊後へ入ろうとする船は、ことごとく高鍋や細島へ引き戻されてしまうのです!」
「瀬戸内からの米はどうした!」
「大友の港に入れば荷を差し押さえられると、商人どもが寄り付きませぬ!」
怒号と罵声が、雨音に混ざって途切れることなく響く。 波止場の片隅には、配給を求めて雨宿りをする女子供の列が続いていた。
道純は視線を落とし、懐から取り出した薄削りの木板に竹筆を走らせた。
――府内湊、塩の相場は耳川前の五倍に高騰。 ――瀬戸内の廻船、徴発を恐れ入港拒絶。外洋物資の流入、完全に途絶。 ――奈多八幡宮の社領焼き討ちにより、奈多夫人・義統派と宗麟派の家臣団対立が激化。 ――道雪・紹運殿による義統公への代替わり工作、宗麟公の拒絶により頓挫。前線への兵糧輸送、一里も進まず。
道純は竹筒に木板を納めると、蝋で厳重に蓋を塞いだ。 背後の闇の中から、配下の行者が滑り込む。
「……頭領。大隅への早船、佐賀関の磯にて待機しております」
「手抜かりなく届けよ。崇清様へ直々にだ」
「はっ」
行者の影が雨の幕の向こうへと消えていくのを、道純は見送った。
*
それから三日後。 大隅・獅子目、飯隈総会所。
佐賀関から早船と早馬で届いた道純の報告書を読み終えた崇清は、小さく息を吐き、机の上にそれを伏せた。 隣で算盤を弾いていた弥三郎が、顔を上げて覗き込む。
「若。……豊後は、どうなってますかい」
「自壊だな」
崇清は窓の外――雨露に洗われる孟宗竹の防壁を見つめながら、静かに告げた。
「宗麟は退隠を蹴飛ばした。道雪殿たちの代替わりの動きは我らも裏から手を回して後押ししたが、あそこまで狂気に逃げ込まれては、家中からの排除は無理だ。奈多八幡を焼いたことで家中は完全に二派に割れ、瀬戸内の商人すら府内を避けている。湊には塩一粒すら届いていない」
「……うへえ。聞くだけで胸焼けがしてきますぜ」 弥三郎は首筋の古傷をぽりぽりと掻き、嫌そうに顔をしかめた。 「耳川で負けたってのに、反省どころか意地に拍車がかかってやがる。……で、若。どうするんです? 日向から豊後へ、軍勢を押し上げますかい?」
「いや。一兵も動かさん」
崇清の返答は、即座だった。
「いま攻め込めば、宗麟に反発している道雪や紹運のような骨のある武将たちまで、領国防衛のために意地で結束してしまう。そんな無駄な戦に、うちの兵の命を使う気はない」
崇清は立ち上がり、壁の大隅・日向・豊後の海図を指先でなぞった。
「高須の船手には、細島から豊予海峡にかけての哨戒をこのまま維持させろ。南から入ってくる廻船は、すべて高鍋と細島へ引き込む。……瀬戸内の商人が寄り付かぬところへ、南の塩と鉄を止めれば、外から完全に干し上がる。宗麟の意地が豊後を食い尽くすまで、我らは待つだけでいい」
「乾殺し、ですか」
「そうだ。そして――」
崇清は懐から、もう一通の書状を取り出した。 都の近衛前久から届いた、烏丸サロンの状況を伝える文である。
「豊後が内から腐っていく間に、我らは都の座敷を固める。……朝廷の権威を握り、吉田家を抱き込み、信長の視界に『島津』の形を正しく刻み込む。大友という器が砕け散った時、その受け皿になるのは、我らでなければならんのだからな」
崇清の瞳に、冷徹な統治者の光が宿る。
「弥三郎。出立の支度を急げ。……京都へ向かうぞ」
今回は、耳川の敗戦後に急速に崩れていく大友家の内部と、それを外から眺める崇清の話でした。
宗麟については、単純に「愚かな君主になった」と描いているわけではありません。
かつての宗麟が優れた人物であったことを、道雪や紹運をはじめとする重臣たちは知っています。
だからこそ、彼らにとっても「殿を見捨てる」という判断は簡単なものではない。
それでも、このままでは大友家そのものが滅びる。
今回の道雪・紹運の動きは、そうした「忠義と現実の板挟み」の結果として描いています。
次回もう一回、幕間で大友を書いて次は崇清たちの京都での話となります
次の投稿は7時の予定です。




