第86話 烏丸の座敷と皇祖の神名
板戸を細く開けると、初夏の湿り気を帯びた夕暮れの風が、白檀と樟脳の混ざり合う香りをふわりと巻き上げた。
京都・烏丸通、近衛邸のすぐ南に構えられた町屋の奥座敷。
汗ばむ陽気を鎮めるように、庭の打ち水が微かな湯気を立てて乾きつつある。
「……前久様。冷たいうちに、こちらを」
畳に両手をついた老女房が、塗り盆の上の小さな素焼き椀を差し出した。
脇息に肘を預けていた近衛前久は、細い指先でそれを引き寄せると、鼻腔をくすぐる柑橘の香りに、すっと眉を動かした。
椀の中には、深井戸の底に半日沈めて冷やされた乳白色の葛羹――その上に、薩摩の辺塚だいだいから採ったという黄金色の蜜が、一滴、艶やかに落とされている。
「相変わらず、舌の先を掴むことにかけては、あの五男坊の右に出る者はおらぬな」
前久は匙を口に運び、ひやりとした滑らかな甘みが舌の上で溶け崩れるのを楽しんだ。
五摂家筆頭、かつて自らも関白として朝廷の頂点に座し、都の困窮と欲望を知り尽くした男。
前久は匙を置いた。
笑みは消えなかったが、目だけが文机の上の荷札と書状の束へ落ちた。
「して、御所の奥向きの様子はどうじゃ」
「すでに、止めようもございませぬ」
女房は声を落とし、どこか呆れたように首を振った。
「薩摩の船が難波に着いたその日のうちに、届いたばかりの『橘石鹸』と『白檀の清め石』を二箱、御所の女房衆へ配らせましたところ……『肌のくすみが消え失せた』『汗の臭気が立ちどころに清まった』と、宮中中が蜂の巣をつついたような騒ぎに相成りまして。今や一条家や九条家の奥向きまでが、烏丸の店へ使いを出し、次の荷はいつ届くのかと日参しておる始末にございます」
「石鹸一つで女房衆が騒ぎ、菓子一つで公家が笑う。……随分と安い外堀じゃな」
前久は自嘲するように口端を緩め、文机の上の和紙を指の腹で弾いた。
樟脳の防虫香を焚き染められた極上の竹紙――そこには、端正でありながら、一分の狂いもなく計算し尽くされた墨痕が並んでいる。
大隅・獅子目の島津崇清から届いた、神階奏請の事前願書と、献納の目録であった。
「……銭を積んで『位をくれ』と泣きついてくる田舎武士なら、掃いて捨てるほど見てきた。銭を受け取り、のらりくらりと引き延ばし、末席の神号でお茶を濁して追い返すのが、都のいつもの流儀よ」
前久は吐息を漏らし、苦笑混じりに首を振った。
「だが、この男のやり口はまるで違う。……自ら都へ乗り込んで大口を叩く前に、まず宮中の女房の鼻先を握り、公家どもの座敷を冷菓子で緩め、その上で、この書状を差し出してきた」
崇清が仕掛けたのは、単なる直訴ではない。
室町後期の朝廷と神道秩序の隙間を縫い合わせた、三段構えの行政手続きの図面であった。
第一に、信長が目を光らせる中で朝廷が最も困窮していた「禁裏御築地修理料」の現物銀による巨額献納。
第二に、武家伝奏を務める勧修寺権大納言晴豊の懐を事前に潤し、神階の議を「朝廷側の内々の実務」として陣議に諮る体制。
そして第三に、天下の神職と神位の執奏を束ねる神祇管領長上・吉田家への事前の理論武装であった。
「……吉田兼見を、呼んでおるな」
「は。すでに表の間にお控えにございます」
「通せ」
襖が静かに開いた。
入ってきたのは、狩衣を纏った痩身の神道学者、吉田兼見であった。
その手には、崇清が薩摩から送ってきた『飯隈文書』の写しが、大切そうに握られている。
「兼見。夜分にすまぬな。……例の大隅の小社、神道上の筋目は立ちそうか」
前久が静かに問うと、兼見は額の汗を拭うこともせず、慎重に言葉を選びながら平伏した。
「……前久様。この『飯隈文書』の写し、拝見いたしました。……誠に、奇異なる記録でございます」
「ほう?」
「大隅国肝属郡の飯隈、その山手に座す『若一王子神社』……祀られておりまするは、天照大御神の御長男、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊と申し候」
兼見は膝の上で古文書の端を指で押さえ、低く続けた。
「世の記紀の多くは、天孫ニニギノミコトの降臨を記すのみにて、オシホミミ様は『地上が物騒ゆえ降り給わず』と書き流すのが常。されどこの飯隈の旧記には、オシホミミ様は地上を恐れて降りられなんだのではない、北九州の高天原の座に留まり、統治の枠組みを敷かれたがゆえに降りる必要がなかったのだ、と解釈を立てております」
「……その解釈、吉田神道の教理として成立するのか」
前久が目を細めると、兼見は口元に神道学者特有の、学究の熱と薄い実利の混ざった笑みを浮かべた。
「成立するか否か、というよりも……記紀に横たわる『勝ちを重ねた武神が、なぜ降臨を嫌ったのか』という古来の矛盾を、これほど綺麗に解きほぐした論陣は見たことがございませぬ。神統の理屈としても見事な辻褄合わせであり、何より我が吉田神道が預かる諸国の神統譜の中に、『極めて都合よく組み込める由緒』にございます」
「ほう」
「豊後・日向では大友宗麟が神仏を焼き、奈多八幡や宇佐の社家が悲鳴を上げております。その荒廃の最中、皇祖神の御長男を祀る南九州の社が、私財を投じて禁裏の御築地を修繕し、神祇の正統を掲げて立ち上がったとなれば――朝廷としても、吉田家としても、これを単なる地方の田舎神として等閑に付す理由はどこにもございませぬ」
兼見は和紙の束を撫でながら、行政官の目になって前久を見上げた。
「最初から『正一位』などと大言を吐けば、公家衆の間で角が立ちましょう。されど、まず我が吉田家が『皇祖の正統を祀る社ゆえ、尋常の地方神にあらず』として由緒を公認し、神階執奏状の副状を調える。武家伝奏の勧修寺晴豊卿を通じて陣議に諮り、禁裏への莫大な修理料献納を『至誠の証』として段階を踏んで上奏する。……由緒を吉田家が保証し、手続を伝奏が請け負い、朝廷の面目を銀で繕う。この手順を一つずつ踏み固めていけば、最終的に正一位の宣旨まで押し通す道筋は十分に立ち申す」
「……くくっ」
前久の喉から、低く押し殺した笑いが漏れた。
(……見事なものよ、島津崇清)
前久は天井を仰ぎ、扇子の親骨で自らの膝を叩いた。
朝廷が求めているのは、金と権威の維持だ。
吉田家が求めているのは、神道界の頂点として諸国の神階を差配する権能だ。
そして伝奏の公卿が求めているのは、過ちのない先例と自らの実利だ。
崇清は「神話の真実」を押し付けたのではない。
吉田兼見と勧修寺晴豊、そして朝廷が、最も喉から手が出るほど欲しがっている「動かしがたい先例と大義名分」を、手抜かりのない書類の束にして差し出したのだ。
「兼見。ならば、神階奏請の案文を整えよ。武家伝奏の晴豊卿へは麿から内々に話を回しておく」
「ははっ。神階執奏状の下書き、滞りなく調えてご覧に入れまする」
兼見が深々と平伏し、衣擦れの音を残して足早に退出していった。
座敷に、再び初夏の夕暮れの静寂が戻る。
前久は立ち上がり、障子を細く開けて、暮れなずむ南の空を見上げた。
「……金だけで人を動かせば、金が尽きた時にすべてが終わる、か」
薩摩の便りの中で、崇清が書き添えていた一文を思い出す。
「田舎侍と侮っておったが……とんでもない怪物が、南の海から這い上がってきたものよ。……急ぎ上洛せよ、崇清。都の狸どもが、お前の持ってくる菓子と香石を、首を長くして待っておるぞ」
前久の呟きは、湿り気を帯びた都の夕風に溶け、静かに消えていった。
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