第85話 泥の爪痕と過労死の記憶
夜の冷気が、板敷きの隙間から容赦なく足袋の底を冷やしていた。初夏とはいえ山間の獅子目は朝晩は冷える。
飯隈総会所の奥、行燈の芯が小さく爆ぜる音だけが、耳の奥に低く残る。昼の喧騒が嘘のように引いた土間には、仕上がりを待つ荷が壁際に整然と積み上げられていた。
杉の木箱が、三十。 塩気を含んだ潮風と、サイダーの酸気で箱を腐らせぬよう、鉄釘ではなく細身の真鍮釘で四隅を留め、蓋の継ぎ目には防湿のための松脂が薄く引いてある。
「……若、これで一区切りですぜ。指先が寒さで縮んで、釘の頭を叩き損ねそうになりましたよ」
弥三郎が金槌の柄を土間に置き、息を白く吐き出しながら立ち上がった。 擦り切れた手甲の端から覗く指先は、泥と松脂で黒ずみ、あちこちが赤黒くひび割れている。木炭の粉を掃き集め、冷水で晒した和紙を張り替え、一日中腰を屈めて箱詰めを仕切っていた男の身体は、二十代半ばに入って骨組みが一回り太くなった今でも、どこか現場の土の匂いが染み付いていた。
「ご苦労だった、弥三郎。蓋の反りはどうだ」
崇清は膝の上の帳面から目を離さずに問うた。元服を経て背丈は伸びたものの、こうして夜陰に机へ向かっている姿は、八年前、獅子目のすり鉢底で泥をこねていた頃と大して変わりがない。
「反りなんざ出させやしませんよ。船大工の茂平次んとこの若造に、目の詰まった赤身だけを選ばせましたからね。……だが若、本当にこの『松葉サイダー』とやら、瓶が途中で割れたりしねえんでしょうね? 竹筒に詰めた奴は、夏場に庭先でスパーンと音を立てて弾け飛びましたぜ。都の公家衆の座敷であんな大砲みたいな音が鳴ってみなさいよ、島津の謀反だって騒ぎになりまさぁ」
「あれは発酵圧を抜き損ねただけだ。今回の瓶は、肥前の唐津で焼かせた厚手の黒釉薬だ。口には錫の針金で、渋紙の栓を二重に巻き止めてある。日陰に置いておけば、船旅くらいは保つ」
「保てばいいんですがねえ……」
弥三郎は腰のあたりを拳でトントンと叩きながら、土間の片隅に腰を下ろした。手拭いで鼻の頭を拭う仕草は、ひどく疲れて見えた。
崇清は筆を置き、手元に残った白檀石鹸の木型を一つ、指の腹でなぞった。 木灰の灰汁とヤブツバキの油を炊き合わせ、細かく砕いたシラスの粉末を通して油の濁りと臭みを濾過・吸着させた上で、高須の極上白塩を加えて塩析させた白い塊。角を滑らかに削り落としたその表面からは、仄かに甘く冷たい香気が立ち上っている。
都の近衛家へ送る、第一陣の先行品だ。 これに、極薄に漉き上げた孟宗竹の記録紙、創傷用の高濃度焼酎。そして『飯隈文書』の中から、オシホミミを北九州の初代統合王とする神代系図の該当箇所と、神階昇叙の口実となる祭祀の抜粋控えが加わる。
飯隈で検品を終えた荷は、川舟で肝属川の水系を下って高須港へ送られ、そこから早船で日向の油津・細島へ回される。大友の警戒が残る豊後沖を抜けて瀬戸内へ向かう航路だが、船には近衛家の公用旗を掲げさせ、表向きは禁裏修繕料の献金船、添え荷の石鹸やサイダーは摂関家への私的進物という名目を通してある。これなら途中の関所や水軍の改めが入っても、無礼として手出しはできない。
公金は一文も使っていない。 高須の塩田と獅子目の炭窯、そして高鍋・細島の湊を押さえたことで生じた、蒲生島津の自前の上前だけで揃えた荷だ。
「……若」
不意に、弥三郎が声を落とした。
「何だ」
「手が、止まってますぜ。……また、あの変な顔をしてやがる」
「変な顔とは何だ」
「何だか知らねえが、大隅の山奥じゃなくて、何里も何十里も遠い向こうの……死んだ奴らの顔でも思い出してるような、嫌な目つきです」
崇清は視線を帳面へ戻しかけ、わずかに眉を寄せた。
弥三郎の指先にある、赤黒くひび割れたアカギレが目に入った。 その傷の形が、かつて、遠い記憶の底にあった誰かの手と重なる。
――冬の午前三時、凍てつく現場で生コン車のシュートを支えていた、下請けの老職人の手だ。
前世の自分は、二十七で死んだ。 中堅のコンサルタント会社に入り、建設や資材流通の現場再生ばかりを押し付けられた。元請けの無茶な工期短縮と発注元のコスト削減の板挟みになり、その間を縫って、崇清はいつも「承知いたしました」と頭を下げ続けた。
数字は合った。 帳簿の上の粗利は残り、役員会では「見事な現場統制だ」と褒められた。 だが、現場では人が倒れた。
実家の父親が倒れたという知らせを受けた日も、崇清は現場を離れられなかった。 午後からの大型打設を止めるわけにはいかなかったからだ。生コンの受け入れ検査を投げ出せば億単位の損害が出ると電卓を叩き、「すぐには行けない」と告げて現場に残った。 夕方に仮眠室へ戻った時には、もうすべてが終わっていた。
通夜の席に座りながらも、頭の中にあったのは翌朝の生コンの配合計画書だった。 悲しみよりも先に、工程の遅れをどう取り戻すかという計算が、脳髄の奥で勝手に算盤を弾いていた。 自分自身が人間を数字として扱い、人をすり減らすシステムそのものになり果てていた。その吐き気を催すような自己嫌悪のまま、半年後、崇清自身が事務所のパイプ椅子の上で心臓を押さえて突っ伏したのだ。
(死んだら、売上ゼロだ)
木型の冷たさが、指の皮膚を通して芯まで伝わってくる。
戦国武士どもは、すぐに「討ち死に」を口にする。 名を残すだの、武士の面目だのと叫んでは、槍を抱えて敵陣へ突っ込んでいく。 馬鹿げている、と崇清は心の底から思う。
一人死ねば、その男が耕すはずだった田が荒れる。 一人欠ければ、船を漕ぐ艪の数が減り、輸送の歩留まりが落ちる。 死んで残る名など、帳簿の上ではただの「欠損」にすぎない。
預かった人間は、一人残らず生かして飯を食わせる。 人間を数字として管理する。だが、その数字の先に生身の人間がいることを、二度と見失ってはならない。 それ以外に、現場を預かる者が背負うべき仕事など、この乱世のどこを探してもありはしないのだ。
「……若?」
呼びかける弥三郎の声で、崇清はふっと我に返った。 目の前に座る男の、ひび割れた手をもう一度見る。
「明日の積み込みだが」
「へい、夜明け前に高須の船着き場へ――」
「お前は出るな」
弥三郎が目を丸くした。
「は?」
「明日の段取りは与八郎と甚兵衛に回す。お前は明日の昼まで、奥の布団で寝ていろ。これは命令だ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ若! 俺が抜けて船頭の甚五郎がヘソを曲げたらどうすんですかい! あの親父、積荷の目方を少しでもごまかそうとするとすぐ怒鳴り散らし――」
「指先が割れている。その手で縄を引けば、途中で滑って荷を海へ落とす。荷を落とせば手戻りになり、余計に工数が嵩む。……寝ろ。お前に今倒れられたら、帳簿の数字を合わせられる奴がうちには一人もいなくなる」
崇清は無愛想に言い捨て、視線を帳面へ落とした。 弥三郎は口を半開きにしたまま固まり、崇清の横顔をじっと見つめた。 呆気にとられたような沈黙がふた呼吸ほど続き――やがて、男の口元がわずかに緩んだ。崇清が口にした工数や帳簿という理屈の裏に、不器用極まりない気遣いが隠れていることに気づいた顔だった。
「……へっ。まったく、若が人に寝ろだの休めだの言うなんて、明日は日向灘に槍でも降ってきそうですぜ」
「降る前に寝ろ」
「へいへい、分かりましたよ。口を開けばすぐ段取りと計算のくせしやがって……。ほら若、これでも頂きなさいよ。勝手場のお杉が、麦焦がしを熱湯で練ったのを作って置いていきやがったんでさぁ」
差し出された素焼きの椀から、香ばしい穀物の湯気が立ち上る。 崇清はそれを受け取り、両手で包み込んだ。
土肌の熱が、冷え切っていた手のひらの奥へ、じんわりと染み込んでいく。
「弥三郎」
「何ですかい」
「この荷が京へ届けば、都の公家どもは薩摩をただの田舎侍とは呼べなくなる。金で平伏させるのではない。向こうが喉から手が出るほど欲しいものを、こちらの値で握らせるのだ」
「相変わらず、えげつねえこって。……まあ、大友の狂った親父に日向を荒らされるよりは、都の公卿から銭を毟り取る方が、俺の胃薬代にはなりますがね」
弥三郎は短く笑い、煤けた手拭いで顔を拭いながら、のそのそと奥の部屋へ引き上げていった。
総会所に、ふたたび静寂が戻った。 崇清は麦焦がしを一口啜り、熱い塊が喉を通り抜けるのを感じながら、手元の帳面を静かに閉じた。
板敷きの外では、冬の夜風が孟宗竹の防弾束をかすかに揺らし、乾いた笹鳴りの音を立てている。 日向灘から豊後沖を越え、都へ至る長い海の道。 夜が明ければ、船が出る。
麦焦がしの練ったもの、とははったい粉に砂糖やはちみつなどを入れてお湯で練ってゆるくした飲み物です。
寒い時には美味しいです
次は7時投稿予定です




