第83話 前久への第一便
評定の熱気が冷めやらぬまま、崇清は三兄・歳久の居館へと足を運んでいた。
部屋の片隅には、獅子目のシラス台地で漉き上げられた純白の竹紙と、特製の硯がすでに整えられている。
「前久公、か」
歳久は筆の穂先を墨に浸しながら、懐かしむように目を細めた。
「思えば天正三年の秋であったな。あの御仁が都の政争を逃れ、はるばる薩摩の地に下向されてこられたのは」
近衛前久――時の関白を辞し、武家と公家、朝廷と寺社の間を自在に泳ぐ天下第一の数奇者にして、希代の政治フィクサーである。
「あの折、兄上が機転を利かせて前久公へ贈られたものこそが、すべての始まりでございましたね」
崇清の言葉に、歳久は小さく笑った。
「うむ。お前が獅子目のシラス多孔質層を通して造り上げた、あの『純白無臭サボン』よ。南蛮の粗悪な油臭さを一切拭い去り、雪のように白く泡立つ塊を手渡した時――あの当代一の風流人が、童のように目を丸くして歓喜した顔が今も忘れられぬわ」
高貴なる血筋でありながら、肌を清める術に飢えていた公家にとって、純白の石鹸は金銀砂子にも勝る衝撃であった。前久はその礼として近衛家の庇護と人脈を惜しみなく開き、やがて都へ戻った後も、烏丸通の屋敷を島津の出先――「烏丸サロン」として機能させる強力な後ろ盾となってくれたのだ。
「あの御仁は、雅を解するが同時に極めて生臭い現実主義者よ」
歳久は筆を執り、流麗な筆致で書状を走らせ始めた。
「ゆえに、公式の窓口は麿が務める。かつてサボンを交わした友として、礼を尽くして文を認める。――崇清、お前の実務の具申案を添えよ」
「ははっ」
崇清は用意してきた別の封書を取り出した。
二人が仕立て上げた第一便の文面は、極めて重層的かつ周到なものであった。
表向きの歳久の書状には、耳川における大友軍撃破の正確な戦況報告、そして敗走した大友宗麟が精神を病み、豊後奥殿に引き籠もって寺社を焼き払い、キリシタンの狂信に走っている惨状が克明に記された。
そして同封された崇清の実務案には、三つの決定的な矢が番えられていた。
第一に、現在都で進められている禁裏御築地修復に対し、島津家より莫大な「修理料」を現物銀にて献納する意志があること。
第二に、大隅国 肝属郡 大姶良 獅子目に鎮座する古社「若一王子神社」の由緒、ならびに皇祖・天忍穂耳尊の神統譜を記した『飯隈文書』の抜粋の提示。
第三に、これをもって皇室への至誠を示し、若一王子神社への神階「正一位」の奏請を仰ぎたいという、極めて具体的なプロジェクトの提案であった。
「よし。早船の手配は抜かりないな」
「山川港より、水密隔壁を備えた硬式竹骨帆の早船を出します。瀬戸内の逆風をも切り上がり、十日と待たずに難波津へ届く手はずです」
二人の署名と花押が据えられた文箱は、厳重に封印され、夕闇迫る錦江湾を滑り出すように出航していった。
――それから、半月余り。
早春の冷たい潮風が吹き抜ける獅子目の浜に、難波津から折り返してきた早船が滑り込んできた。
運ばれてきたのは、葵の紋が捺された小さな桐箱――近衛前久直筆の返書であった。
崇清の居室で、歳久が静かにその封を解く。
二人の視線が、端正でありながらどこか鋭利な墨痕の上を走った。
読み進めるにつれ、歳久の眉がわずかに歪み、崇清は思わず薄く口角を上げた。
「……手厳しいな。相変わらず、痛いところを突いてきおる」
歳久が溜息混じりに吐き捨てた。
前久からの返信は、耳川の勝利を祝しつつも、崇清たちの目論見を冷や水で洗い流すかのような、辛辣かつ冷徹な「京の現実」が叩きつけられていた。
『――耳川の軍功、天晴れと聞き及ぶ。
されど、神階奏請の儀、あまりに都の公家どもを甘く見すぎてはおらぬか』
前久の筆は、容赦なく核心を抉っていた。
『銀の献納とあらば、禁裏も公家衆も諸手を挙げて飛びつくであろう。
だが、単に銀を積んで「正一位を賜りたし」と奏請してみよ。都の公卿どもは陰で「南国の田舎武士が、大友に一度勝ったくらいで身の程知らずの売名を企ておる」と嘲笑い、銀を貪るだけ貪って、のらりくらりと引き延ばすに決まっておる。
ましてや正一位は人臣を極めし神の頂。獅子目の無名の小社にそれを下すとなれば、神祇官代たる吉田家が猛然と異を唱え、朝廷内は大紛糾致そう』
前久はさらに、解決のための冷酷な条件を突きつけていた。
『正一位を本気で勝ち取る腹積もりならば、二つの壁を打ち破らねばならぬ。
一つは、神道の総本山たる吉田家を完全に沈黙させる、動かぬ神道上の理論武装。
もう一つは、銭の多寡などを超え、朝廷と公家衆の胃の腑と鼻腔を掴んで「この島津を手放してはならぬ」と狂喜乱舞させるほどの、圧倒的な【実利と雅】じゃ。
金銀など、使い果たせば消える。
都の狸どもを平伏させるに足る「得体の知れぬ力」を持たぬまま上洛するなど、ただの金蔓になりに参るようなものぞ――』
「……とのことだ」
歳久が文を畳の上に置き、腕を組んで天井を仰いだ。
「図星だな。忠棟の申した通り、都の公家とはそういう生き物よ。銭だけで人が動くなら、戦国に朝廷がこれほど落ちぶれるはずもあるまい」
歳久の苦い視線に対し、崇清はむしろ、喉の渇きを覚えた獣のように静かに目を細めていた。
「銭を積むだけでは、足元を見られて終わる……。やはり、そう来ましたか」
「崇清? 何か手があるのか」
「ええ。前久公の仰る通りにございます。金だけで人を動かせば、金が尽きた時にすべてが終わる」
崇清は立ち上がり、障子を開け放った。
視線の先には、湯気と煙を上げる獅子目の工房群が広がっている。
「ならば、銭などという抽象的な数字ではなく――相手がどうしても手放せない、生きるための実利と、五感を狂わせる欲望をこちらから直接叩き込むまでのこと」
崇清の瞳に、現代の事業再生コンサルタントとして、破綻しかけたクライアントを「代替不可能な商品価値」で再建してきた男の冷徹な光が宿った。
「兄上。京へ向けて、工房の生産ラインをすべて切り替えます」
「……何を作る気だ?」
崇清は静かに振り返り、笑みを浮かべた。
「都の貴族どもの胃袋を掴む『泡立つ露』と『奇怪な麦酒』。
そして、女房衆の鼻腔を焼き尽くす『神聖なる香りのサボン』にございます」
まぁ大隅の獅子目の小さな神社を正一位というのは流石になまなかではいかないです…
次は7時の更新予定です。




