第4話 「青春の最適化」
教室の扉を開ける前に、私は一度、深く呼吸を整えることにした。
高校生活という人生の一大イベント。
誰もが一度は経験する、ある意味では極めて一般的な構造である。
……なのだが。
(まさか、私ともあろうものが、高校生活という一大イベントを前にして、無意識に震えていたというのか……!)
ヒーヒーフー……ヒーヒーフー……。
「りりっぺ、それ、完全にラマーズ法の呼吸じゃないの」
「なっ……!?」
「リラックスしたいなら、こうよ!」
ゆっきーはすっと姿勢を正した。
「体の軸を真っ直ぐに保って、丹田に気を溜め込むように呼吸するのよ。こうすると何事にも効くわよ!」
「いや、待たれぃーなのだ!」
私は思わず手を上げた。
「それは所謂、武道で言う『息吹』というものではないのか!?」
「そうよ。だからやってみない?」
「違う! 私はただ普通に深呼吸して、気持ちを落ち着けたいだけなのだ!」
「ほら、こう。足の裏を地面にぴったり貼り付けるようにして、軸をしっかり持って、おへその――」
「ストーップなのだ!!」
私は両手を前に突き出した。
「なぜ教室に入る前の一分一秒を争う緊迫の場面で、陣痛を逃す者と空手の達人の二択を迫られねばならんのだ……!」
ゆっきーは呆れたように私を見る。
「りりっぺ、朝から何言ってるの?」
「私が聞きたいのである……」
気を取り直して、私は教室の扉に手をかけた。
ガラリ。
ついに、新しい教室へ足を踏み入れる。
名前順に決められた席番号を確認すると、私の席の前には「井川」の文字があった。
(……む?)
私はその文字をじっと見つめる。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
そこには、先ほどまで私と呼吸法バトルを繰り広げていたゆっきーが立っていた。
(これも因果か……)
少しだけ間を置く。
(いや、ただの腐れ縁である)
「りりっぺ、席そこだよ」
「うむ」
私は席に着いた。
そして、ふと気が付く。
「何!?」
「どうしたの?」
「お決まりの自己紹介がないだと……!」
私は教室を見回した。
普通ならここで、新入生同士の自己紹介が始まり、趣味や好きなものを語り、そこから友情や恋愛が芽生えたりするものではないのか。
ところが現実は違った。
教科書が配布される。
説明がある。
そして、入学式へ。
淡々と時間が進んでいく。
「……入学式が終了だと?」
私は愕然とした。
(人生の一大イベントが、こんなにも事務的に処理されてしまった……)
だが、ここで私は冷静になる。
(いや、これも最適化された時代の悲しき構造なのかもしれない)
限られた時間。
限られた人員。
限られた予算。
そして、大量の新入生。
(公務員ティーチャーも大変なのである)
そんなことを考えているうちに、配布された教科書の山が目に入った。
私は一冊持ち上げる。
重い。
想像以上に重い。
(これは……)
さらにもう一冊。
(予想を遥かに超えるボリューム……)
まるで、かのラーメンの「マシマシ」並みである。
「ふふふっ……」
私は笑った。
ゆっきーがこちらを見る。
「何? 急に笑って」
「この予想外の事態も、すでにシミュレーション済みである」
「いや、予想外なんでしょ?」
「細かいことは気にするな」
私は教科書を抱えながら、周囲を見渡した。
(さて、まずはロッカーのサイズを調べる)
ロッカーへ向かう。
扉を開ける。
内部を確認する。
高さ。
幅。
奥行き。
そして、教科書のサイズ。
私は脳内で即座に比較する。
(……入る)
ならば。
答えは一つ。
(全て置いていく)
私は迷わず、教科書をロッカーへ収納していく。
「りりっぺ、全部置いていくの?」
「当然である」
「家で勉強する分は?」
「必要なものだけ持ち帰ればよい」
「忘れたら?」
「その時は、その時の問題として再最適化する」
「……相変わらずだね」
「これが私の『取り置きスタイル』である」
私は満足げにロッカーを閉じた。
(重量物を毎日持ち運ぶ必要性を排除。通学時の負荷を軽減。必要な教材だけを選択的に搬送する)
完璧である。
少なくとも、私の中では。
入学初日。
まだ友達もほとんどいない。
学校の構造も分からない。
これから何が起きるのかも分からない。
それでも。
(まあ、最初の問題は一つずつ処理していけばいいのである)
私はロッカーの前で、小さく頷いた。
高校生活は、まだ始まったばかりなのだから、先は長いのである。
留年だけは、ノーセンキューなのである、全力で回避、お断りするのである
現実は厳しけり、である.
――次話へ続く。




