第2話「ポール角は譲らない」
第2話 電車という名の第一関門
やはり、この時間は少し電車が混雑するぐらいで済む。
(ふむ。これならば、入り口ポール角地点は死守できそうである)
「扉が閉まります。ご注意下さい」
このアナウンスは、今までの人生の中で何回聞いたフレーズだろうか。
私の中では、
「おはようございます」
「さよなら」
と同分類の定義である。
いつも、お疲れ様なのである。
電車における立ち位置。
マイポジション。
狙うは一つ。
それは――ポール角。
電車における唯一の聖域。
入り口横のあの角こそ、私が毎朝の戦場で死守すべき最重要拠点なのだ。
(ここを確保できれば、揺れによる姿勢制御の難易度が大幅に低下する)
(乗客の圧力による物理的ストレスも軽減される)
(つまり、ポール角は通学効率の最適解である)
「りりっぺ、またポール角狙ってるの? ほんと好きだねぇ」
「好きとかではない。これは構造的戦略である」
ゆっきーは呆れたように笑いながら、私の後ろにぴたりと付いてくる。
この幼馴染は、私の通学戦術を理解しているようで理解していない。
いや。
理解する気がないだけかもしれない。
ガタンゴトン。
電車が揺れ、乗客の重心が一斉に傾く。
(むっ……!)
(来るぞ。朝ラッシュ特有の群体揺れが)
私はポール角に手を添え、体幹を微調整する。
この瞬間、私はただの女子高生ではない。
通学戦線における、一級戦術士官である。
ガタンゴトン。
鉄のレールを鳴らしながら、電車は私とゆっきーを乗せて無機質に加速していく。
(よし)
(この一級戦術士官の精密な体幹コントロールにより、車内のカオスから完全なる自立を果たすことに成功している)
「ねえ、りりっぺ。なんかさっきからずっと真剣な顔して、電車のポールにしがみついてるけど、そんなに楽しい?」
「楽しいわけがないのである。これはサバイバルだ、ゆっきー」
「はいはい、サバイバルね」
ゆっきーは軽く笑った。
「……あ、次の駅で降りるよ」
ゆっきーに軽く肩を叩かれ、私は現実の通学ルートへと引き戻される。
(むっ。もう学校の最寄り駅か)
(この空間からの離脱、すなわち転移イベントの発生である)
プシュー。
音を立てて電車のドアが開く。
私たちは、押し寄せる下車客の波に逆らわないよう、絶妙な流体力学の動きでホームへと滑り出た。
朝の澄んだ空気が、少し熱を帯びた私たちの頬を冷やしていく。
「今から、私の高校生活、青春のストーリーが始まるのである」
私は一度、胸を張った。
「終わり」
ブスッ。
「おふぅ〜!」
ゆっきーの手刀が、私の脇腹にクリティカルヒットした。
「りりっぺ……何、一人で言って終わらせているの?」
「む……」
「また意味の分からないこと言って。行くわよ」
侮ってはいけない。
ゆっきーは空手黒帯の猛者であった。
人体の構造を熟知しているのである。
確実に側腹部を狙いに来ている。
まさに、私には脅威なのである。
(うむ)
(ガチで怒らせてはいけない友人、ぶっちぎりNo.1の座は、ゆっきーであろう)
(その座は、誰にも覆される日は来ないのではないだろうか)
そんな気がするのである。
――電車という名の第一関門を突破した私たちは、そのまま朝の住宅街へと足を踏み入れた。
アスファルトの照り返しが、少しずつ春の訪れを告げている。
通学路に並ぶ電柱の影を数えながら、私は一歩一歩、慎重に歩みを進める。
「ねえ、りりっぺ。さっきから妙に歩幅が規則正しくない?」
「何の行進のつもり?」
「行進ではない」
私は即答した。
「これは、最もエネルギー消費を抑えつつ、かつ不意の障害物に対応するための『省エネ機動歩行』である」
「はいはい、また始まった」
ゆっきーは呆れたように肩をすくめる。
「朝から脳内設定がフル回転だねぇ」
それでも、彼女は私の歩調に合わせて並んで歩いてくれる。
この幼馴染の懐の深さだけは、いつだって私の想定パラメータを大きく超えてくる優しさを含んでいる。
しかし、油断は禁物だ。
朝の通学路には、様々なトラップが潜んでいる。
例えば、斜め上に突き出た民家の庭木の枝。
あるいは、猛スピードで角から飛び出してくる新聞配達の自転車。
それらを事前に予測し、回避ルートを脳内でプロットしながら進む私にとって、登校時間とは単なる移動ではない。
一種のサバイバル演習に他ならないのである。
「……む?」
視線の先に、微かな光を放つガラス張りの建造物が現れた。
自動ドアの上に掲げられた、見慣れたコーポレートカラーの看板。
そう。
それは朝の補給拠点――コンビニエンスストアである。
「りりっぺ、止まったよ」
ゆっきーが私を見る。
「まさか、朝から何か買うつもり?」
「ふふふ……ゆっきー」
私は自信満々に振り返った。
「よくぞ気づいた」
「今の私たちのエナジー残量は、ここいらで一度、補給を行わねば、お昼まで長期戦を乗り切ることはできないのである」
「ただの炭酸とグミが欲しいだけでしょ」
「違う」
私は首を振った。
「これは戦略的補給物資の調達だ」
私は自動ドアのセンサーに向かって、一歩を踏み出す。
ひんやりとした冷気が、外の熱気を押し返すように私たちを包み込む。
自動ドアがプシューと音を立てて開き、私たちは現代社会の便利さの象徴へと吸い込まれていくのだった。
――その瞬間。
「りりっぺ」
ゆっきーが突然、妙に深刻な声を出した。
「最近、知り合いのおばさんが、変な信仰に入って、私、空手やってるでしょ?」
「うむ」
「おばさん、枇杷の葉っぱばっか持って来てくれるの」
「……ほう?」
「湿布貼りたいんですけど、って……言えないよね?」
私の脳内思考回路が、一瞬停止した。
(待て)
(情報の処理が追いつかない)
(知り合いの伯母様が特定の信仰に傾倒しているという社会的背景)
(そして、なぜか空手黒帯の猛者であるゆっきーに対し、戦闘の疲労回復ではなく、民間療法アイテムである「枇杷の葉」を大量供給してくるという、謎の物資補給ルート)
(さらに、それを湿布として活用したいが、角が立たないようにどう断るべきかという、極めて現代的かつ人間関係の面倒くささに満ちたライフハックの相談……!)
私は陳列棚に伸びかけていた手をピタリと止めた。
そして、冷気をまとった店内で、厳かにゆっきーを振り返る。
「ゆっきー」
「なに?」
「それは構造的に、極めて高難易度な外交問題だな」
「でしょ?」
ゆっきーは困ったように眉を下げた。
「空手やってるからって、なぜか私が自然派の民間療法に目覚めてる前提で話が進んでるわけ」
「しかも会うたびに『これ、血が浄化されるから』って、大量の葉っぱを渡されるの」
「断ったら思想を否定したみたいになるし……」
「かといって、ガチの湿布代わりに背中に貼りまくるのも、なんか違うし……」
「どうすればいいと思う?」
私は腕を組んだ。
一級戦術士官として、冷静な分析を下す必要がある。
「うーむ……」
そして、私は結論を出した。
「断言しよう」
「真正面から『科学的な西洋医学の湿布の方が効果的です』と告げるのは、外交的敗北を意味する」
「やっぱり?」
「相手の信仰心を刺激せず、かつ物資の供給源だけをスマートに断つ必要がある」
私はさらに考える。
「そうだな」
「アレルギー的偽装工作」
「あるいは――」
「『すでに他の極秘ルートから、最高級の消炎鎮痛パッチが配給されている』という既成事実を作るのが最適解である」
ゆっきーは少し考えた。
そして、あっさり答えた。
「はいはい。面倒くさいから、学校のロッカーに置き忘れたことにして全部処分する、が正解ね」
「物騒な言い方をするな」
私は即座に突っ込んだ。
「それは物資の不法投棄に等しい」
その横で、レジ打ちのお兄さんが遠い目でこちらを見ている気がする。
しかし、私たちはそんな周囲の視線など気にする余裕すらなかった。
学校の門をくぐる少し手前。
このコンビニの冷暖房が効いた安全地帯で、私たちは今日も今日とて、青春とは名ばかりのシュールな日常サバイバルを繰り広げているのである。
――次話、コンビニにおける定価販売の経済構造と、そこに潜む生存戦略へ続く。




