第1話 始まりのSTRUCTURE 『構造的課題について』
初めまして、井口りりかです。
人生の一大イベント(?)である高校入学の朝、私の脳内は今日も通常運転でフル回転中――。
第1話 高校生活、始動するのである
ピピピピッ……。
「んんっ〜……」
眠い。
ひたすら眠い。
眠いのだ。
(もう一度、モーニングスリーピーしたいのだが……駄目だ。起きなければならない)
(しかし、この睡魔を克服し、目覚めなければならないのだ)
時計の針は、6時30分。
早朝である。
昨日までなら、モーニングスリーピーしているところなのだが、いかん。
今日から変わる。
新しい環境のために、起きなければならない。
私の名前は、井口りりかである。
昔から友人には、何故か「りりっぺ」と呼ばれている。
一体誰が名付けたのかは、最早、記憶が定かではない。
りりっぺ……っぺ?
意味が分からないのである。
これでは、私が「かとちゃんぺ」と同類になっているようだ。
りーちゃんや、りりー。
いや、やはり、りりっぺが、私の大切な友人から頂いたあだ名なのだ。
ここは「っぺ様」に拝んでおこうか。
素敵な呼び名をありがとうございます。
うん。
スッキリした。
15歳。
今日、春の入学式。
世間では所謂、ピチピチと言われるお年頃の女子高生。
いよいよ、青春シリーズの始まりなのである。
ふむ、ふむ?
(お胸が構造的に足りないのは気のせいではないが、良し。これからに期待しよう。高校生活が始まるのである)
(そうなのだろうか。高校受験が終わり、春休みの終了を告げる、朝のベルか……)
(これは「終わりの始まり」を告げるお知らせだったかもしれない)
(いや、そもそも「高校生活の始まり」にこれほど大げさな意味を見出すこと自体が、人間の認知バイアスによる錯覚なのだ)
私たちは常に、
「新しい環境=特別なイベント」
という社会的なプロパガンダを、無意識に刷り込まれているのである。
――なんて、朝っぱらから脳内で無駄な構造分析をしている場合ではない。
このままだと、普通に初日から遅刻してしまうのだ。
……だがしかし。
足が勝手にベッドへ引き返そうとする。
あぁ、布団の温かさと睡眠欲のコンボが私を支配する。
私の意志の弱さが――。
(……これも構造です。意志の弱さじゃなく、報酬系と習慣の構造です)
自室の鏡に向かって一人ごちると、私は無理やり瞼を引き剥がし、パジャマを脱ぎ捨て、制服のシャツへと腕を通すのだった。
ふむ。
スカートは……。
今の女子高生を分析すると、平均的な着丈と入学式という場面を考慮して――。
(……膝上は、これぐらいでいいだろう)
ウエストを締める。
鏡に映った自分は、まだどこか寝起きの抜け切らない顔をしていた。
(……これも、意志が弱いんじゃなくて、ただの仕組みの問題なんだよな)
(さてと。顔を洗って、真の目覚めを手に入れるとしようか)
冷たい水が、まだ眠気の残る頬を叩いた。
その瞬間、脳内でぼやけていた意識のピントが、急激にシャープへと切り替わる。
(……ふむ。洗顔による物理的な温度刺激が、血流を促進させ、副交感神経から交感神経への強制的なスイッチングを完了させた、と)
洗面台の鏡に映る私は、先ほどまでの「布団の亡霊」だった面影をキレイさっぱり拭い去り、見事なまでに凛とした――あるいは、少し無理をしているだけの――女子高生の姿を取り戻していた。
睡眠欲という強大な敵との初戦。
これにて、私の完全勝利である。
「おはよー、りりか」
「おはよーです、マミー」
「あら、可愛いわね。よく似合ってるよ」
(んんっ、ふっ、うん。ありがとう)
「お父さんは、今日は早く会社に行っちゃって、りりかの制服姿が撮れなくて残念ねー」
(大丈夫である、マミー)
(ダディが帰って来るまで、着替えずこのままでいるのである)
「あら、駄目よ。折角の新しい制服がシワになっちゃうでしょ!」
(うぐっ……分かりもうしたのである)
「ほら、早く朝ご飯食べなさい」
「はーい」
「頂きます」
我が家の朝メニューは、ご飯に納豆、お味噌汁、たくあん。
うん。
和食テイストなのである。
――そして、一口食べた瞬間、脳内の論理回路が別の方向へと一瞬で振り切れる。
(……ふむ。発酵食品特有の旨味成分であるアミノ酸が、寝起きの胃袋を優しく刺激する)
(この納豆のネバネバこそが、これから始まる新生活への粘り強さを暗示している……というのは、さすがにこじつけか)
箸を進めながら、私は密かに今日の時間割を頭の中で再構築する。
初日だからといって油断してはならない。
配られる教科書の重さを計算し、ロッカーの位置を把握し、周囲の人間関係という名の「不確定要素」に対する初期配置をシミュレートしておかねば。
「りりか、そんなに真面目な顔して朝ご飯食べてると、また変なこと考えてるように見えるわよ」
「なっ……! マミー、私はいたって正常な新高校生ライフについて思考しているだけです」
「はいはい。遅刻しそうになる前に、早く食べちゃいなさい」
ぐすっ、と心の中で涙を拭いながら、最後の一口をかき込む。
お椀に残ったお味噌汁を飲み干し、私は勢いよく立ち上がった。
「いってきます!」
ガチャリ、と玄関のドアが閉まる。
朝の冷たい空気が、制服のブレザー越しに肌を刺すように心地よい。
空は見事なまでの快晴。
桜の蕾も、今日という日を祝うかのように膨らんでいる。
(……統計学的に見ても、これ以上のコンディションの日は、そうそうない)
私は深く息を吸い込み、新生活のステージへと足を踏み出したのである。
ガチャリと自宅のドアを閉め、数歩歩いたところで――。
まさに隣の家から、絶妙なタイミングで、全く同じ制服に身を包んだ彼女が姿を現した。
「おはよう、りりっぺ」
「おはようである、ゆっきー」
彼女は井川雪菜
我が家と壁を一枚挟んだだけのお隣さんであり、物心ついた頃からの幼馴染み。
そして、最早あらゆる因果の糸で私と物理的・空間的に結び付けられているとしか思えない、厄介かつ貴重な友人である。
……待てよ?
(もしや、私に「りりっぺ」という、どこか釈然としないけれど妙に語呂の良いあだ名を最初に定着させたのは、隣に住む彼女なのでは……?)
脳内で瞬時に過去の記憶アーカイブを検索する。
しかし、残念ながら当時のログは綺麗に上書きされていた。
まあいい。
今日のところは「隣のおとなりの有難い命名者(かもしれない人物)」として、丁重に扱っておこう。
「ねえ、りりか。何ニヤニヤしながら歩いてるの? 初日から変質者みたいな顔してると、高校デビュー即ぼっち確定コースだよ?」
「っ……! ゆっきー、私は至って厳粛な心持ちで、これからの学園生活におけるリスクマネジメントをシミュレートしていただけです」
「はいはい。その『リスクマネジメント』って、大体ロクでもないこと考えてる時の顔じゃん」
雪菜は呆れたようにため息をつきつつも、私の歩幅に合わせて軽やかに並んで歩いてくれる。
お隣同士だからこそ、毎朝のこの数分間の移動すらも、完全にシステム化されているわけだ。
制服の着こなしは完璧。
生まれ持ったスペックの高さで、周囲からの好感度を確実に掻っ攫っていくタイプの人間である。
(……ふむ。周囲の人間関係という初期配置において、彼女のような陽キャ属性のお隣さん兼幼馴染と登校するイベントは、私のスクールカーストを一定以上に保つための「防護壁」として、極めて有効に機能する、と)
「ねえ、聞いてる? 今日さ、クラス一緒だったらどうする?」
「……統計学的に、同じクラスになる確率は学級数と全体の人数から算出すれば、ある程度の確率で弾き出せるが、問題はそこではない」
「そこじゃないんだ?」
「うん。問題は、もし別のクラスになった場合、私の人見知り発動によるコミュニケーション・デッドロック――膠着状態が、どの程度の期間持続するか、という致命的なシステムエラーの懸念である」
「もう何言ってるか全然わかんない。とにかく、離れ離れになっても泣かないでよね」
「泣かんわ!」
などと他愛のない――しかし私にとっては死活問題の――会話を交わしながら、私たちは足早に最寄り駅へと向かう。
朝の住宅街を抜けていく、この一連の動線すら、今日からは「中学生」ではなく「高校生」という上位互換のステータスに書き換わっているのだ。
駅の改札へと続く階段を上り、ICカードをタッチしてホームへ降り立つ。
そこには、すでに通勤・通学客の群れが形成されていた。
(……むっ。この朝のラッシュにおける乗客の配置は、見事なまでの最適化アルゴリズムであり、私たちは荷物という名のパケットデータと共に圧縮されている……)
満員電車の気配を察知して、少しだけ顔を引きつらせる私を横目に、ゆっきーは涼しい顔でスマホをいじっている。
やがて、遠くからゴウンゴウンと鉄の怪物がレールを鳴らして滑り込んできた。
(……来るぞ。日常から非日常、そしてまた別の日常へと私たちを強制送還する、鉄の箱が)
ドアが開く。
押し寄せる人の波に飲み込まれそうになりながら、私たちは吸い込まれるように電車の中へと足を踏み入れたのだった。
――高校生活、第一関門。
満員電車編、開始である。




