敵と味方は一度にいでて……
そんな相手とほんの二、三メートルほどしか間を開けていない状況にもかかわらず、震える幼馴染をよそに、ゆかりは不思議なほど冷静に相手のことを観察していた。恐怖の裏返しはなんとか、というやつである。
――こんな絵面の死神、占いのカードで見たことがあったっけ。
摩子を背後にかばうよう、そっと右手を伸ばすゆかり。そんな彼女を前に、真っ黒いローブで顔から足からすべてを隠した相手は、ゆらり、と身を揺らす。すると、大昔の二重廻しのように分かれた手元と胴の生地の合間から大鎌――ではなく、杖ほどの大きさの代物がすっと姿をのぞかせた。
そして、ゆかりから見てちょうど真上にあたる箇所を、ひどく色の白い指が一瞬這う。そして、音もなく動いたその杖の合間から、月明かりを受けて一筋の光がすっ、と瞬いた。
間違いない、これは仕込み杖だ――。ゆかりの落ち着き様もさすがに限界であった。と、
「や、やられるっ。やられるよっ!」
「ちょ、ちょっと摩子っ」
ブレザーの裾を掴んでいた摩子が大股に後ずさりを始めたので、ゆかりもつられて下がり出した。真正面ががら空きでは、いつバッサリやられてもおかしくはない。ところが、そんな好条件をよそに、相手は動きもせず、ただただ上下に身を揺らしている。
「――摩子っ、逃げようっ」
「えっ、あっ――待ってよおっ!」
支えになっていたゆかりが先に飛び出し、摩子がそのあとを追うように走り出した。もう無我夢中、ひたすらの全力疾走である。
「――やっぱりいたんだよっ、本当にいたんだよ『魔女』は!」
「今度ばかりは摩子に頭が上がらないわねっ。それより早く、お巡りさんにでも……」
鞄の外ポケットへ押し込んだスマホを出そうと、ゆかりはそっと右手を伸ばす。と、再び沈黙を保っていた夜の住宅街に、おそまきながらあの不快なしゃり、しゃりという音がこだまし始めた。摩子呼ぶところの「魔女」はやはり、二人のことをあきらめていなかったのである。
「――ゆかりぃっ、あいつ来てるよっ」
「わかってるわよっ! ――大丈夫、あともうちょっとだから……」
恐怖の波が押し寄せてはいたものの、走るうちにゆかりは、いくらかの余裕を取り戻していた。もう少し走れば、否応なしに五条通に出る。昼夜問わず通行量の激しい大通りへ飛び出て、憎たらしいあの追跡者が耳目を集めないわけがない。
「ゆ、ゆかりっ! 距離が縮まってるよおっ」
「いいから! 黙って走りなさいっ」
並の体力しかない二人と、軽々と走り迫る魔女との距離はだんだんと縮まってゆく。同時に、ビルの谷間から漏れる五条通の街灯や看板の明かりもはっきりと見えるようになってくる。あともう少し――。
ゆかりと摩子は長い長い徒競走の終わりに沸き上がる、疲労と喜びの混ざったランナーズハイのような感情に包まれていた。
だが、その思いは一瞬にして、ぬか喜びへと転じてしまった。
「嘘でしょっ、そんなのって……」
あと十メートルほどで五条通、というところで、ゆかりはゴムがほどけたようにその場へ立ち尽くした。目の前には「下水管工事中につき通り抜けできません」という、年度末に見るような文句の看板がひっそり、警告の赤ランプもなしに暗がりに立っている。迂回しようにも、退路はすっかり断たれている――。
「ゆかりぃ……もうおしまいだぁ」
観光客ラッシュで新しく建ったホテルの建屋に、あの不愉快な音がゆっくりとこだまし、ぴたりと止む。五条通の街灯を薄く受けて、「七条大橋の魔女」は悠然たる佇まいを女子高生二人へとのぞかせている。
「……短い人生だったねぇ。こんなことなら、チャーシューメンは大盛りにしておけばよかったよっ」
「……人生の最後ぐらい、もうちょっとましなことを考えたらどうなの!」
だが、最後まで言い切らぬうちに、ゆかりは両の目から滔々と涙を落とし、戻さんばかりの嗚咽とともにその場にへたり込んでしまった。つられて摩子も、がくりと隣へなだれ込む。鉄パイプの柵を背にした二人の前で、「七条大橋の魔女」はゆっくりと、仕込み杖へ手をかけ、刀身をさらけ出した。もはやこれまでか――、と思われたまさにその時であった。
「ちょ、ちょっとカモさんっ、あれっ!」
「どないしたぁ、佐原くん」
どこかで飲んだ帰りの大学生であろうか。若い男の声が二つ、コンクリートの壁の合間を夜空めがけて跳ね返ってゆく。何が起きたのかわからず、困惑するばかりのゆかりと摩子だったが、事態は思いがけず二人に味方した。
「君たちっ、そんなところでどうしたんだいっ」
二人連れの片方、背の低い小柄な青年が様子のおかしいのを見て声をかけてくる。逆光で姿こそよく見えないものの、相手の善意に応じて唇を動かそうとしたゆかりは、安堵と恐怖のないまぜになったせいで思うように声が出ない。と、
「――嬢ちゃんっ、危ないっ!」
我に返ったゆかりは、意識の離れていた背後で空気の動くのを感じ、とっさに摩子を突き飛ばして受け身を取った。ぎらつくような輝きを帯びた刀身が鉄パイプの上へ振り下ろされ、線香花火のような火花が散る。すると、今度はそれと入れ違いになるように、ゆかりの目の前を小さなものが勢いよく飛んで行き、黒い布に覆われた「七条大橋の魔女」の胸元へ派手に食い込んだ。
「人の情けで顔は避けたが、お次はどこに放るかわからんで。覚悟は出来とるかっ」
夜目が再び効いたおかげで、ゆかりはようやっと、二人の背格好と素顔を目の当たりにした。体育の授業で使うにしてはやや上等な、紺のジャージの上下を着た小柄な青年。そしてその隣には、時代劇の若侍のような和服姿の青年が、羽織の袂を派手にまくって右腕を上げている――。
見ようによっては奇々怪々な格好の連中に囲まれているわけだが、顔の見える分もあってか、ゆかりはその二人の青年の存在が実に頼もしかった。
「ち、ちきしょう――」
しばらく胸元を抑えて苦しんでいた「七条大橋の魔女」は、ひどくしわがれた、男とも女ともわからない声音を吐き、曲がった仕込みを手に、鞘町通の暗がりへ溶け込むように駆けて行ってしまった。
そのさまをゆかりと摩子は、濡れた路面の上に座り込んだままずっと見つめていたが、
「――嬢ちゃん、そないなとこでしゃがんどると風邪ひくで。そっち行くから、ちっと待ってなぁ」
どこかとぼけたような、それでいて頼りがいのありそうな羽織姿の青年の声が耳を打ったとたんに、緊張のほどけた二人はあたりはばからぬ声と共に、互いの無事を喜びあうのだった。雨上がりの古都の空を、月から雲をはがすような風がかすめていった。




