ひき逃げを見た者は……?
ところが、用意万全とばかりに迎えた金曜日の夜は、思いがけない通り雨によってすっかりご破算となってしまった。軽いお湿りを通り越し、水浸しになった屋根瓦が合間合間の雷で白く輝く、そんな夜となったわけである。
「なーにが『春雨じゃ、濡れて参ろう』だあっ、こちとらずぶ濡れで風邪引いちゃうよっ」
「ちょっとやめて、不潔よ……」
広い湯船の隅で、顔の半分のみを出してぶくぶくと水面を揺らす摩子に、ゆかりはタオルで巻いた髪が崩れないよう気を使いながら、幼馴染へ釘を刺す。急な雷雨から逃れ、銭湯に駆け込んだ二人は店主の老婆の計らいで濡れた服を乾かし、その間ゆっくりと湯に浸かることにしたのである。
「昼間見た予報じゃ、雨雲の出る気配なんて全然なかったのにねぇ。ここまで来るともう、運命だよね」
肩に湯をかけながらつぶやくゆかりに、摩子は口の中で運命……と反芻する。
「――あたしが苦難に立ち向かってゆくのが?」
「違うわよ、入部できないのが、っての」
「もォ!」
がっくりとうなだれ、そのまま一気に額まで湯船に沈んだ摩子をよそに、ゆかりは普段と違う広々とした入浴を心から楽しんだ。脱衣所のテレビからは小さな音で、延長の末に片付いた阪神戦野結果を伝えるニュースが流れている。普段あまり触れることのない番組なのも相まって、非日常の趣がぐっと増していた。
髪も乾き、ブレザーから湿り気が取れたのをたしかめると、摩子とゆかりは店主に礼を述べてから、雨脚の去った七条通へと出た。
「もうこんな時間かあ……いつもなら、そろそろ寝る準備してるくらいね」
入学祝にもらった婦人物の腕時計は十一時過ぎを差している。そのまま京阪電車の七条駅へ向かおうとしたゆかりだったが、
「ちょっとゆかりぃ、そんなに急ぐことないんじゃない?」
「――しつこいわね、まさかまだ諦めがついてないの?」
摩子の台詞が気になったゆかりは、いくらか乱暴に彼女の腕を引こうとした。ところが、摩子は最後まで聞いてよっ、と手を振り払い、滑り落ちかけた鞄の持ち手を肩へ戻すではないか――。
「こんな時間に外にいるなんて、滅多にないじゃん? どうせなら、ちょっと一駅歩いて、そっから電車に乗ろうよ。清水五条なんて、目と鼻の先じゃん」
鴨川伝いに少しのぼった場所にある駅の名前に、ゆかりも一旦は怒りをひっこめた。折しも頭上をうろついていた雨雲も散り出し、その切れ間切れ間に乏しいながらも都会の夜空の星がちらちらと輝きだしている。
星空の下のそぞろ歩きというのも悪くない――ゆかりはそう考えた。
「――街灯もあるし、まあ、大丈夫よね。たまには星でも眺めて、ゆっくり行きましょうか」
「そうこなくっちゃ! じゃ、念のために傘だけ買っていこうよ。またザアッとやられちゃいやだし……」
少し下りた先にあるコンビニを指さすと、摩子はゆかりの手を引き、小走りに坂のすそ野を目指した。行きはさほど乗り気のしなかったゆかりも、この珍しいシチュエーションにはいくらか心の弾むのが分かった。
一番安い傘を二つ、そして道中歩きながらつまもうと買ったコーラ味のグミを手に、ゆかりと摩子はゆっくり坂を下り、鴨川伝いの川端通の歩道を、街灯の灯りを追うように歩き出した。正面橋を越し、音羽川北の通りを過ぎてゆけば、昼も夜もひっきりなしに車の通る交通の要所・五条通は目前である――。
しかし、そんな冒険心を萎えさせるような、実に無粋な存在が都度、二人を邪魔していた。
「ぎえー、またこの看板だ。京都って、いつからこんな無法地帯になったわけ?」
「さすがに嫌になるわね……四枚目よ、これ」
「――月――日に発生したひき逃げ未遂事故の目撃者を探しております」。
字句こそ微妙に違うが、七条の坂を下ってから四度、二人は同じような看板に遭遇し続けていた。こうも感覚が短いと、苛立ちを通り過ぎて恐怖の念すら湧いてくる。
「オリエンテーションで交通安全、とかやたら言ってたの、こういうのが多いせいなのね。知らなかったわ……」
都合四度目の遭遇となった、川端通の街灯下に括りつけられた看板を、ゆかりはしげしげと見つめる。決して人の目のない場所でもないのに、どうしたわけかひき逃げ犯も見つからず、今に至っているらしい。
「よっぽど、魔女よりこっちのほうがおっかないかもねえ。そっちが話題にならないのはなんでかなあ?」
「被害者が中高生じゃないから、かしら……」
「……あたしら、案外薄情に出来ておるらしいねえ。よそっか、この話」
誰かの無関心を責める権利がない、という共通の認識が生まれると、二人はそのまま、夜風を避けるようにして音羽通のほうへと足を向けた。このまままっすぐ歩くと、あの看板がまた視界に入ってくるような、そんな気がしたのである――。




