鴨川浮音、事件の絵解きをする
ところが次の瞬間、鞭をふるうような音が二つ鳴ったかと思うと、聡美は悲鳴を上げて背中からテーブルの上へ転げ落ちた。衝撃がかかってガラスの天板が粉々に砕け散り、その上で聡美は大の字になって伸びている。
「な、なんだっ、何が起きてやがるんだっ」
ナイフを持った千鶴絵は、処置に困ってその場へ立ち尽くしている。すると、それまで静かに垂れ下がっていた窓辺のカーテンがゆらり、と動き、中から人影がゆかり達の前へと躍り出た。
「間一髪でしたなあ、学園長先生」
「か、鴨川さん!」
三人がほぼ同時に声を上げ、思いがけない味方の出現を喜ぶ一方で、千鶴絵は焦りと怒りのないまぜになった表情で染まりきっている。
「て、てめえか鴨川ナントカいうのは……」
「ナントカってのはごあいさつやなあ。――これでも、親から貰った浮音って名前がついとるんやっ!」
浮音の羽織の、だらりと垂れた右の袂が持ち上がり、あの鞭のような音が部屋の中へこだまする。そして、それに応じるような具合で、千鶴絵の手からは刃渡りの長いナイフがゆっくりこぼれ落ちる。
「――あんたなんかもう、友達じゃないよっ!」
その一瞬の隙をついて、摩子は手近の棚にあったトロフィーを掴みとり、それを勢いよく千鶴絵の頭へ振り下ろした。そして千鶴絵は、のどから壊れたリコーダーのような音を上げ、膝から崩れ落ちてしまった。トロフィーは飾りのガラス玉が床へ散らばり、本体はうっすらひしゃげている。
「――ふーう、どうにか一難去ったらしいな」
それだけ言うと、浮音は襟元へ押し込んだひも付きの笛を取り出し、力いっぱいに吹き鳴らした。すると、それまで静かだった廊下に大勢の足音が鳴り響き、固く閉ざされていた学園長室のドアが前触れもなく開け放たれた。
「やったかっ、鴨川の!」
拳銃片手の牛村警部と、その背後の武装警官隊の姿が明るみになる。驚くゆかり達へ、警部は無事だったか、と安堵の笑みを浮かべた。見れば後ろには、いつだったか三人を保護した田尾、大江の両巡査の顔もある。
「け、警部さん! どうしてこんなに早く……」
ゆかり達が駆け寄ると、牛村警部は額の汗を拭い、
「あいつが今夜あたり来る、と言うから上に頼んで人を出してもらったんだよ。――それで鴨川の、現状は?」
警部の問いかけに浮音は、これこの通りってカンジですわな、と目線で聡美と千鶴絵を指す。
「こりゃひどい、二人ともお前の十円玉の餌食になったのか」
「いやいや、そっちのほうは同級生に仕返しされよったんですわ。ちなみに凶器はそこに」
「――えっ」
摩子が手に持ったひしゃげたトロフィーに、さすがの警部も驚きを隠せない。慌ててそばにいた警官に千鶴絵、そして聡美の脈をはからせると、それぞれの体からは至って正常な脈動が確かめられた。
「危うく、過剰防衛でお縄になるとこだったな。でも二人とも、お手柄だったぜ」
聡美と千鶴絵が担架へ乗せられるのを横目に、牛村警部は浮音たちへ賛辞を送る。
「やっと、学園に平和が戻ったわけかあ。明日から心おきなく、寄り道回り道ができるねえ、二人とも……」
「ちょっと摩子! まったくもう、すぐ調子に乗るんだから……」
摩子のとぼけた言いぐさとゆかりの指摘に、緊張していたその場の空気がいくらかゆるむ。
「――鴨川さん、ありがとうございました。おかげでまた、普通の毎日を送れそうです」
「なぁに、いいってことよぉ。けどな、ほんとのこというと、まァだ事件は終わってへんのよ」
「え?」
浮音の妙な言いぶりに、ゆかり達の顔が再びこわばる。
「みんな、なーんか勘違いしてへんか? 僕は今日、この場で一度だって、あの二人が『七条大橋の魔女』だなんて言うとらんよ。もっとも、あの二人がしかるべき理由から、学園長先生を闇討ちにする可能性があるとはにらんどったけど……そこんとこ、どないです? 村山センセ」
ゆらりとカブリを振って、浮音は学園長の顔へ視線をくれる。
「どういうことです、あの二人が一連の黒幕なのでは……?」
学園長に問いかけに応じて、浮音は懐へ押し込んであったビニール包みを取り出し、中から数枚の写真をデスクの上へとたたきつけた。
「三人とも、こないだ僕が大学新聞の仕事で陸上競技場へ行っとったの覚えてるやろ? あそこで望遠はめたライカを振り回しとったら、思いがけずこないな写真が撮れてな。――題して『在りし日の栄光、ふたたび』」
2Lサイズの印画紙に焼き付けられたモノクロ写真を、ゆかり達はしばらく目をしばつかせながらにらんでいた。やがて、そこに写っているものの正体に気がつくと、ゆかりは思わず声を荒げた。
「ここにいるの、秘書の大貫さんじゃありませんか! 足が悪くてもう走れないんじゃ……」
ライカのシャッタースピードのせいか、足まわりがひどくぶれた写真ではあるものの、そこにはたしかに、競技用のウェアに身を包んで陸上レーンを疾走する学園長秘書――大貫美代の姿が写っている。不思議がるゆかり達へ、浮音は話を続ける。
「義足つーと、どうしても本物の足に似せた歩行専用のモンを想像しがちやけどな。そうではない大きな板バネ式のスポーツ用義足も、そのための材料ともに各国で研究されとるわけ。大貫さん、記者相手に言ってたで。『事故で右足を失ってからずっと陸上とは無縁だったのですが、義足のおかげでこうやってまた走れるようになった、と……』」
そこまでつらつら語ると、浮音は手近にあった三枚の写真を裏返した。「諸事情により掲載差し止め」という物々しい字句の並んだスタンプの跡が、その場の全員の目に飛び込む。
「ところがどうしたわけか、後になってそのほほえましいワンシーンを捉えた写真や記事に差し止め依頼が出た。そないな無粋なことをするのはいったい、どこの誰だ――と、いろいろ探りを入れたら思いがけない名前が出た。学校法人七条女子学園。差出人は秘書、大貫美代……。本人からの申し出じゃあ下手には動けんと思ったが、事情を教えてくれた大会役員はよーくその時のことを覚えていた。『なんだか、誰かに言われて仕方なくそうしたような、そんな雰囲気だった』と……。おや、先生どうなさいました? そない汗びっしょりで青い顔して……さっきの恐怖があとから来よりましたン?」
浮音の肩越しに学園長の顔を認めたゆかり達は、その表情のあまりにもひどいのに言葉を失ってしまった。整髪料でまとめた髪の間から汗という汗が滝のように、川のようになって学園長の顔全体を濡らしているのである。
そんな学園長をよそに、浮音は悠々と、袂から出した扇子を片手で開いて涼んでいる。
「――そういえば、こないだ通りすがりに会った先生からこないなことを聞かれましてな。『秘書の大貫さんがここしばらく休んでいるようだが、何かご存じないでしょうか』って……。最後に会うたの、もうずいぶん前ですわなあ。風邪にしてはずいぶんとこじらせとるようやけど……。まさか、口封じのために亡き者にしたなんてことはないですやろなあ、あんたの計画の忠実な駒であった、あの彷徨える黒い魔女を……」
黒い魔女、という言葉を最後に、不気味な沈黙がその場を支配する。
「――返事の如何によっては、そこの警部さんが持っとる逮捕状の罪状にいろいろおまけがつきまっせ。もう、六年前の騒動のことも、一切合切状況証拠がアガっとりますんよ、先生」
「……そ、それじゃあ、あの時あたしらを襲おうとしたのって!?」
数テンポ遅れて、言葉の意味の気づいた摩子がわななくように叫ぶ。恐怖の伝播は、あっという間であった。
「そういうこと。あんなカッコで走り回った実行犯は大貫さん。ついでに言えば、さんざん探し回った行方不明の運ちゃんも、大貫さんが雲隠れするために車を出してた協力者や。まさかと思うたけど、あのベンツのお抱え運転手が加藤さんやったとは……。これはさっき、下で待機しとった本人がゲロったおかげで待ったなしの王手や。さあ、どないします、村山センセ?」
「ああ」
背広の内ポケットへ牛村警部の野太い指が消えると、中から一通の、素っ気ない色味をした長封筒が姿をのぞかせた。
「――村山巴先生、あなたには六年前の裏口入学あっせんの証拠捏造と偽証、ならびに国税法違反による逮捕状が出ております。もっともこの調子では、女子中高生を目標にした襲撃未遂などの余罪も加わると思われますが……」
提げていた逮捕状を警部がひっこめると、学園長は向かい合ったまま、しばらく虚空をにらんでいた。が、
「……ああ、とうとうこの時が来てしまったのですね」
デスクに引っ掛けた愛用の杖を手にすると、彼女はゆっくり立ち上がって、警部たちの前へと義足を引きずるようにして近寄った。と、牛村警部に肩を押される格好で、思いがけない人物が歩み出た。
七条女子学園のOG、田尾巡査長である。相手の顔に覚えがあったのか、相対する村山学園長の表情もあまり芳しいものではない。
「――田尾さん、あなた、お巡りさんになれたんですね。こんな形で会うの、あなたが一番不本意でしょうけれど……」
「まったくです。――こんなことがあると分かってたら、警察官になるんじゃありませんでした」
目元の薄っすらとうるむのが見え隠れしながら、田尾巡査長は自分の手錠をそっと、学園長の両の手へとはめた。そしてうつむいたまま、学園長は浮音へと声をかけた。
「――断っておきますが、さすがに姪を手にかけるほど私も人の道から外れてはいません。彼女は運転手ともども、しかるべき場所に身を隠しております」
「ほんならよかった。さすがにあんたも、そこまでのワルやないとは思うてたから……」
それだけ言い残すと、浮音はあとはよろしく、と田尾巡査長の肩をそっと叩いた。
「七時十七分、容疑者確保。このまま、府警本部へと連行いたします」
「――うむ」
制帽を目深に被りなおすと、どこか学園長をかばうような格好で、田尾巡査長は警部たちを従えて廊下へと出た。そのとたん、ゆかり達は目も眩むような閃光に驚き、その場へ立ち尽くした。
「――え、ど、どういうこと?」
視界から白みが抜けてゆくうちに、ゆかりは目の前にいるのが有作と千夏に付き添われた、薫たち七女通信の面々であることに気付いた。最前の光は、写真班の構えていたカメラのフラッシュであった。
「見てのとおりやで諸君。せめてもの餞や、きちんと撮ってやりなや……」
「――なるほど。そういうことだったの」
短い間の目くばせに全てを察したのか、薫はカメラマンの肩へそっと手をかけた。二度目のフラッシュが薄暗い廊下一杯に瞬き、日の落ちた古都の片隅を嫌というほど照らし出す。応援部隊のものらしいパトロールカーのサイレンが、ゆっくりと学園の門前へ近づきつつあった。




