悪魔のような微笑みで
休み明けの月曜日は天気予報が外れ、昼過ぎから激しい雨足が京都市内の屋根という屋根に襲いかかっていた。
「こんなに降るなんて、もう入梅でしょうか」
「そんな小粋なもんじゃないでしょお。これはもはやスコールですぜ、お紗英さま……」
風雨ですっかり視界を失った窓ガラス越しに、摩子と紗英は灰色の景色をじっと眺めていた。少し前から遠雷も聞こえて、摩子の言うとおり、窓の外は雨期の熱帯のような様相を呈している。自分たちの他には誰もいない図書室は、薄暗い蛍光灯も合わさって一層の陰鬱さを漂わせていた。
「こういう日に限って、図書当番のほうもあまりやることないんですよね。せっかく三人でいるなら、読書というのもなんだかもったいないですし……」
「こうなると、ゆかりの偵察結果が最重要事項になるなあ……」
摩子が名前を出したところへ、入り口の戸が開き、肩で息を弾ませながらゆかりが戻ってきた。
「あ、お帰りぃ。どうだった? 置き傘の在庫……」
「みんな考えることは同じね。職員室前に『置き傘はもうなくなりました』って張り紙されてたわ。――こうなったらもう、壊れるのを覚悟で帰るしかないわね」
摩子たちのいる机の隣に置いた鞄から、ゆかりは小ぶりの折りたたみ傘を取り出す。女子高生が三人はいるのがやっとの上に、普通の傘の半分ほどしか径のない華奢な骨組みが、悪天候を前にした頼りなさをありありと物語っている。
「こういう時に限って、あたしも持ってないんだよねえ。かくなる上は、止むまで待とうホーホケキョ、か」
「それを言うならホトトギス、でしょ。まあ、こういう場合は仕方ないわね。のんびり復習でもして、時間つぶすのもいいんじゃない?」
ノートを取り出すゆかりに、摩子はあからさまに嫌そうな表情を返す。
「まあまあ、そんな顔せずに……。案外こういうことをしてるときの方が、時間が過ぎるのが早いものなんですよ」
「それは違うと思うなあ、お紗英さま……」
とはいったものの、他にやることも見あたらない。雨のやむまで、という条件を飲んで、摩子も不承不承、ノートにペンを走らせることとなった。
窓をたたき、校舎をゆすった雨風が止み、西の空が赤くなりだしたのは六時を過ぎたころだった。手近のサッシをすべらせ、小雨の気配もないのを見ると、摩子はやっと帰れる、と言って机の上にうつ伏せに伸びてしまった。
「ほらほら、帰るんだったら早くしなさい。また降り出したら、今度はずぶ濡れよ」
「へいへい、そうしまーす」
鞄へ文房具やノートを押し込むと、摩子は先に出入り口のそばへ立っていたゆかりと紗英を追いかけた。明かりもまばらで、ほとんど人の気配がない廊下を、三人は足早に玄関めざして歩き出した。と、
「ねえ、誰かこっちに上がって来てない?」
摩子がそんなことを口にしたのは、下駄箱に近い、中二階の踊り場へさしかかった時だった。摩子の指摘に、ゆかりが耳をそばだてると、確かに階下で廊下を急ぐ足音がする。
「陸上部の室内練習って、ここじゃなかったわよね」
「あれは体育館前の廊下だったはずですよ。じゃ、いったい誰が……」
ほの暗いのも合わさって、だんだんとゆかり達は背筋が冷たくなるのを覚えた。しかし、その早足の主はすぐに、しかも三人にとって嬉しい形で明らかになった。
「――あれ、三人ともどうして……」
「佐伯さん!」
そこにいたのは、普段着姿の佐伯千鶴絵だった。具合を悪くしている、と聞いたわりには血色のよいのにゆかり達が安心していると、
「ごめんなあ、連絡できてなくて。実はちょーっと、訳あって入院することになってさ。その前準備でずっとバタバタしてたんだ」
思いがけない告白に、ゆかり達は怒るどころか、却って千鶴絵の体を案じた。聞けば千鶴絵は、置きっぱなしの私物などを回収しに来たのだという。
「わりと元気そうに見えるけど、あんまし具合よくなくてね。とりあえず、早いところ教科書とかを回収しておこうと思ってさあ」
「そうだったのね。でもよかった、何か事故にあったとか、そういうんじゃなくって」
スマホのバックライトを頼りに、千鶴絵はD組の自分の机から、教科書や運動靴、食べかけのチョコレートの箱などを回収する。その背後で、紗英は友人の安否を確かめられ、ほっと胸をなでおろしていた。
「――お待たせっ。それじゃ、早いとこ帰ろうぜ」
「ほんとほんと! 早いとこ帰んないと、またあの変な魔女にナニされちゃうんだから……」
特に気の合う千鶴絵に影響されてか、摩子は足取り軽く、半開きにしたままの出入り口へと向かった。廊下の窓は、最前までと違い茜色の夕雲をありありと見せている。ところが、そんな雲間にいきなり、黒いシルエットの飛び出したのに摩子は驚き、そのまま数歩後ろへとのけぞった。
「ん、んんっ!?」
最初、摩子はふたたび雨足が迫っているのだと思った。だが、それなら影は窓の上の方へさしかかっているはずで、いま自分の目の前にあるそれは、ちょうど摩子より背の高い、人のような形をしている――。
「――よお、また会ったなぁ」
「……わ、わああっ!」
夜目の利いた摩子は、目の前にいる相手の正体に気づき、音の外れたチューバのような悲鳴をあげた。
そこにいたのは、あの晩耳塚でゆかり達に襲いかかった、あのけだるい表情の女だったのである。
「鷲尾さんっ、どうしましょう」
「どうしようたって……こっちには病人もいるのに、どうすれば――」
そこまで口にしたところで、ゆかりは自分の背中に何か尖ったものの押し当てられていることに気づいた。振り向いてたしかめようにも、立て続けに降りかかる災難を前に、首が言うことを聞かない。
しかし、災難の正体はすぐ、ゆかり達にとって実に皮肉な形で明らかになった。
「――そっちはどうだあ、千鶴絵」
「――大丈夫。ナイフ当ててるから下手なことはしやしないよ。大人しいもんさ、こいつら」
刃先で自分の背をつつく友人、佐伯千鶴絵の声は、今まで聞いたことのないほど激しく下卑て聞こえていた。




