耳塚前の女
だが、ゆかり達の平穏な日常はいつまでも続かなかった。その日の放課後、七条通りの坂を下りきったところにある純喫茶「アマゾン」の二階席でお茶を楽しんでいた三人は、南向きの窓ガラスをこつこつと叩く音に気づき、外をにらんだ。
「ええっ、嘘でしょ」
「天気予報は晴れだったのぃ」
それまで陽気な日差しの差していた窓外の景色は降って沸いた雨足ですっかり濡れ、眼下の舗道を傘を持たない学生やサラリーマンが右往左往している。南国のようなスコールが、家の壁という壁を激しく叩いていた。
「今年はもしかすると、梅雨になるのも早いかもねえ」
ガラス越しに外をにらむゆかりのつぶやきに、摩子もつられて、
「そういえば、五月もそろそろ終わりだねえ。――そういえば中間試験もそろそろ、だね」
がっくり肩を落とす摩子に、ゆかりは店の壁に掛かったカレンダーへ目をくれる。長かった五月も、いよいよ終わりに差し掛かっている。
「あと一週間と半分よ。範囲も出たんだから、腹きめて勉強しなさいよね。一年生のド頭から赤点なんて嫌でしょう?」
「そりゃそうだけど……あたしゃどっから手をつけたらいいのかてんでわかんないんだよぉ」
「一番タチが悪いやつね……」
摩子の成績不振はいまに始まったことではなかったが、さすがに最初から堂々と赤点を連発させるのも忍びない。ゆかりは申し訳ない顔で、向かいに座った紗英へ試験対策への協力を仰いだ。
「お安いご用です、困ったときはお互い様、ですからね」
「ありがとうっ、神様仏様お紗英様……」
「わかったら授業料代わりに、下田さんの紅茶代はあんたが出しなさいよね。それくらいはしなきゃバチがあたるわよ」
伝票の上へ自分のコーヒー代を足して突き出すと、摩子はゆかりを軽くにらんでから、紗英のほうへ笑顔をみせた。そんな三人をよそに、雨足はまだゆるむ気配がない。出ように出られないのを仕方なしに、二階席で簡単な、補習計画の立案会が幕を開けたのだった。
結局、閉店間際まで三人は店の二階へ留め置かれる格好になった。合間合間に頼んだコーヒーやミルクティーですっかり膨れたお腹を押さえつつ、三人は日の傾いて暗くなった七条通りへと踏み出した。元来街灯もまばら、人家の少ない並びということもあって、東へ通り沿いはひっそりとした装いをたたえている。少し前に雨もあがって、さわやかな夜の川風が鴨川べりから吹き、三人の顔をなでるように通り過ぎて行った。
「――結構遅くなっちゃったわね。家には連絡したからいいとして……ここからの帰り道が億劫ね」
八時過ぎまで混雑の激しい、市内の公共交通機関の事情を知っているだけにゆかり達の足取りは重い。
もう少し懐の事情がよければ、いつだか薫がしてくれたようなタクシー、という手もあったのだが、一番遠回りになる紗英の手前、それも出来ない。仕方なく、割合空いている普通列車を目当てに、三人は七条京阪ではなく、一本先の清水五条の駅を目指して五条坂のほうへと歩き出した。
「――今さらだけどさ、この道筋、あの晩と同じじゃない?」
店を出て、音羽の通りのほうへ何メートルから出たところで、摩子が水を差すようなことを言い出した。だが、因縁のある道をこんな暗い時間に歩くというのはたしかにあまり気持ちのいいものではない。だが、川端通りはこのごろ、舗装がゆがんでいるせいでこんな天気の後は否応なしに車のはねた水をひっ被る危険がある。
考えあぐねた末に、三人は国立博物館のある、大和大路の通りへ坂をひきかえした。ほかの通りよりは往来もあり、寺社や旅館、住宅地を縫いながら歩くこのルートの方が開けていて心強かったのである。
「――そこだっけ? 有名な鐘があるのって」
博物館の煉瓦塀を過ぎたところ、豊国神社の門前に差し掛かったところで、摩子が暗がりの中の大門を指して尋ねる。豊臣家滅亡のきっかけとなった「国家安康、君臣豊楽」の文字のある釣り鐘は、敷地を同じくする寺、方広寺の中にある。
「わかってても不思議な感じよね、お寺と神社が一緒になってるの。で、そっちにあるのが……」
「『耳塚』ですね。――暗がりで見ると、あんまり気味のいいものじゃありませんね」
ゆかりに付け加える形で、紗英が薄暗がりを背にした、耳塚の丸まった影を指さす。朝鮮出兵の折、数を数えるべく削いだ耳を供養した塔が、なんということのない住宅街の中程に、すぐそばの児童公園を見下ろす格好でそびえて立っている。
「――だめねえ、悪いことばかり考えちゃう。天気がよければ、今頃とっくに家に帰ってたのに。変なことばっかり連想しちゃうの、ちょっと病気ね」
「しょうがないありませんよ、あんなことがあって、助けられたのが不思議なくらいですもの」
湿気で曇ったレンズを拭いていた紗英がゆかりをフォローする。
「ほんとだよねえ。あの日もこんな雨降りで、こうして歩いていたところへかつん、かつんなんて音がして、業物がひらり、って――」
「ちょっと摩子、よしなさいったら!」
調子に乗って芝居がかった声を出す摩子の額を、ゆかりは怒りにまかせて軽くひっぱたいた。と、そのときだった。柵を挟んだ奥、それこそ話題にのぼった耳塚の真下の公園の木陰から、何か金属同士がふれあうような、甲高い音が響きわたった。
「……何の音?」
工事現場が近くにあれば別だが、防音の覆いも、建築中の住宅らしい物影も見あたらない。ただ、雨上がり後のしめり気を帯びた街角が目の前に広がっているきりである。
「……誰か、そこにいるんですか?」
不気味な静寂に耐えかねてゆかりが声を上げる。風で遊具の部品が擦れたのなら、単なる独り言で片づく。しかし、ゆかりの期待むなしく、木陰にゆらり、と人の気配が沸き上がった。
「……なんだぁ? おまえら」
木々の間の、ほとんど枯れた藤棚の下にいたのは、およそ自分たちの学校生活では目にかかることのない、派手な装いをした若い女だった。
最後に染め直したのはずいぶん前なのか、プリンのような色味になった長い金髪と、あちこちよれた赤いジャージへ羽織った、虎柄の刺繍のジャンパー。そして、履き古しのスニーカーでがに股のまま、女はゆかり達の方へと近づいてくる。
夕暮れの向かい風に押されて漂う、最前まで吸っていたらしい安煙草特有の臭いに、三人は軽くむせながらその場へ立ち尽くす。決して寂しい通りというわけでもないのに、人っこ一人、タクシー一台通りかからない。運の悪いことに、先刻通り過ぎた交番も、パトロール中で中には誰もいない。すべての状況が、三人にとってつくづく不利であった。
そうこうするうちに、若い女はとうとう畳二枚ほどの距離まで近づいてきた。そこでようやく相手の人相が分かったゆかりは、その表情がひどくくたびれているのに、どこか上品さを称えている、その不思議なミスマッチに軽い戸惑いを覚えた。自分達に害をなすようには、ちょっと見えなかったのである。
「――なんだ、七女の連中か」
そのうちに、しげしげと自分達を見つめていた若い女が口を開いた。
「は、はいっ。――その、なにか、ご用でしょうか……」
女性にしては低い、地をはうような声音に摩子が圧倒されて余計な口をきく。すると、若い女はにやりと微笑み、おもしろい奴らだ、と三人の表情を食い入るように見つめた。
「ちょっとそのまま動くな、なに、すぐ終わるさ……」
それだけ言うと、女は肩へ羽織っていただけのジャンパーの内側へ左手を伸ばし、四十センチほどの長さの、黒い何かを手に掛けた。すると、両の手で引っ張られたそれがくい、と音もなく伸び、鈍い輝きを放ち、三人の目へとまばゆい光の筋が放たれた。三人の頭上にあった街灯に電気が回り、女の手元に向かって激しく降り注いだのである。薄暗がりになれていた三人は、くらんだ目元を押さえながら数歩のけぞり、悲鳴をあげた摩子を先頭にその場を方々の体で逃れた。
「――な、なによあれっ!」
「それはこっちの科白だよぉっ、は、早く、警察、救急車……!」
「竹井さんっ、あそこ!」
豊国神社を通り過ぎ、真新しい民宿などのあるところまで逃げ延びた三人は、二人組でパトロールをしていた警官に気づき、手を振って助けを求めた。そして、自分達が体験した奇妙な出来事を聞くと、二人は色めきだって、大急ぎで耳塚公園へ向かった。しかし、すでにその女の姿はなく、あとにはあの、安い煙草の香りが夜風に乱されて軽くただようばかりであった。
「よりにもよって、派出所の鼻先でこんなことが起きるなんて……」
ペアの片方、小柄なショートカットの女性巡査が現場一帯へ懐中電灯をあびせながらつぶやく。
「先輩、どうしましょう。応援呼びましょうか」
「逃げた後じゃもう意味ないわ。でもひとまず、署の方へ連絡だけはしないといけないようね」
「そいじゃあ、そっちは自分が受け持ちますっ。――家の方への連絡、出来そうかい?」
後輩らしい、細身ながらも上背のある男性巡査が尋ねると、ゆかり達は頷き、気が重いながらもそれぞれの家へと連絡を入れたのだった。




