大公からの手紙
「ルチア様!」
丘の斜面を埋め尽くす緑のうね。
その先にある黒い防潮林と、林の向こうに見える青い海。
青々としげるラベンダーの株は、その細かい葉を風に揺らして、さわさわと音を立てている。
「殿下! 公女殿下!」
透き通るような空の下、畑の隅から隅まで、男の声がひびく。
フロラント南部・シャマイリー地方の一角。
修道院管理下の香料工場と、原材料を獲るためのラベンダー畑。
男はこの広い敷地の中、ただ一人の人物を見つけようと、声を張っている。
「ルチア様!
キャシディでございます!
お姿をお見せください!」
フロラントの者であれば、ひと目見て、男が首都コルデバートの大公城──通称マルセル城からやってきた大公の雑用係だとわかる。
仕立てのいい制服、ほつれひとつないマント、……それになにより、腰に立派な剣をさげている。
そんな大公の威信を服に着ているような人物が、何度も何度も、困ったように人の名前を呼んでいるさまは、見ようによっては不思議な光景かもしれない。
「ルチア様〜‼︎ ……どこにいらっしゃるのですか……!」
このだだっ広い畑の隅から隅まで見て回るというのは難しい。
シャマイリーのラベンダーは丈が高く、穂の先など大人の腰近くまであるため、近くほど見通しが悪い。
それなのに、農家にいた作業員は、「ルチア様なら畑にいる」としか教えてくれなかった。
畑のどこらへんにいるのかまでは、農家の人々も知らなかったのかもしれない。
筒のような形を作って口にかざしていた手を下ろし、男が途方に暮れかけたそのとき。
「はーい!」
のんびりとした、良く通る声。
とある畝と畝との間、ラベンダーの葉むらの向こうから、ルチアはひょっこり、顔を出した。
身につけているのはドレスではなく、白っぽい色の木綿の作業着。
長い赤褐色の髪は束ねられ、頭巾で覆われている。
膝についた土を手で払いながら、ルチアが立ち上がった。
片手には、大きなラベンダーが一株、根元を掴まれ、ぶら下がっている。
「ごめんなさい、キャシディ! この株を引っこ抜くのに集中してて……」
「ルチア様……」
〈キャシディ〉は安心したような、また少し呆れたような表情で、肩の力を抜いた。
「何度お呼びしてもお姿が見えないので、心配いたしました」
「ごめんなさい……」
「大公殿下からお手紙でございます」
「まあ」
ルチアは株を地面に置き、腰に下げた手拭いで手を拭いてから、手紙を受け取った。
「ありがとう」
「は。恐れ入ります」
封蝋には大公アンドレアの紋章が印されている。
ルチアためらいなく封を破り、手紙を取り出して開いた。
「…………」
一通り読み、もう一度頭から読み直す。
「…………」
ルチアは手紙自体になにか不備があるかのように、手紙の裏を見たり、手紙を閉じてまた開いたりした。
「ルチア様……? 何か手紙に不備でも……」
「いえ……」
ルチアは書面をにらんでいる。
キャシディは不安になってきた。
やはり手紙に不備……?
字が、にじんで読めないとか……?
ルチアはだんだんと顔色を悪くするキャシディに気づいて、手紙から顔を上げた。
「本当に不備はないよ、キャシディ。
今日も完璧な仕事ぶり。
助かりました」
「! お心づかい、痛み入ります……!」
ルチアの笑顔を受けて、キャシディはおのれを恥じた。
雑用係が公女殿下に気をつかわせるなど、大公殿下の雑用係──大公殿下と公女殿下をおつなぎいたす〈たつき〉としての、雑用係の精神にもとる行ないではないか。
「わたくしは国家の汚点にございます!」と叫んで畑の真ん中で五体投地したい気持ちを抑え、キャシディは黙ってルチアに頭を下げた。
「……なんかね、お客様がいらっしゃるから、城に戻って準備をしなさい、って話だったんだけど……」
「お客様、でいらっしゃいますか」
「それが……うーん……」
ルチアは手紙をポケットに納めた。
「なんだか信じがたいなぁ」
ルチアは肩をほぐすように首を回してから、腰をかがめてラベンダーの株を拾った。
とがった枝の先をつかみ、細かくゆらして土を落とす。
「この株は病気なの。だから周りに広がらないうちに、廃棄」
「病気ですか」
キャシディは片ひざをついて株を眺めた。
青臭い匂いの葉叢。
細く、硬そうな枝。
髭のような根。
正直いって、植えられている株との違いが判らない。
「よくおわかりになりましたね」
「私が担当してる区画のものだからね。毎日見てると、わかるよ」
「なるほど」
毎日見て回り、手で触れているから、細微な異変が見つけられる。
それは農地の近くで寝起きしている者の、ある種の特権なのだ。
だからこそ、今回のマルセル城への召喚も、担当している農地を誰かに任せて修道院を離れるしかない以上、どうしようもなく。心苦しいものがあるにちがいない。
キャシディはルチアの心情を思って心を痛めた。
「すぐにお戻りになれますよ」
「だといいな〜」
ルチアは近くの納屋に向かって歩いていくそぶりを見せた。
キャシディは別の農家に馬を繋いでいる。
ルチアは手紙を受け取るとすぐに返事を書く。
毎度のことなので、ルチアが返事をしたためている間は、キャシディも修道院で休憩を取らせてもらうことが定石になっている。
「先に修道院に行って待ってて」
「承知いたしました」
ルチアは納屋の中に入り、作業台の上に株を置いた。
この株は、納屋の外に吊るしておく。
よく乾かして、燃料にするのだ。
しかしその前に、修道院に戻って返事を書かなくてはならない。
ルチアはポケットの上から手紙に触れた。
手紙の内容は本当だろうか?
にわかには、信じがたい内容だった。
マルセル城に、ベルミオン帝国の皇子がお見えになるとは。




