働く手
ルチアは片手を少し浮かした。
もう片方の手で長手袋のボタンをはずし、少しずつ、剥がすように、外していく。
「……こうなるから」
ルチアは手のひらをダニエルに見せた。
ダニエルは暗がりの中で目を凝らした。
ルチアの前腕は、途中から、日焼けで色が変わっている。
爪の先は変色し、関節は荒れ、指にはあかぎれが、手のひらにはマメができていた。
とても貴族の──公女のものとは思われぬ、労働のいたみを色濃く残す手。
しかし、その荒れた手は、指先から馥郁とした香りをただよわせており、それが奇妙なコントラストを醸し出してもいた。
「…………」
「これでも欠かさず、手入れはしているんですけれどね」
ルチアは照れたように笑った。
ダニエルはゆっくりとまばたきをした。
ルチアの背後では、優雅な音楽に導かれて、美しく着飾った人々が、裳裾をひらめかしながら、踊っている。
輝かしい背景と、荒れた手のひら。
見せびらかされるものと、隠されるもの。
……ダニエルは、おもむろに片手の手袋を外した。
なにごとかと目をしばたたかせるルチアの前で、ズイ、と素手をかざす。
固そうな、厚い手のひらの皮膚。
潰れた肉刺《まめ》の跡、薄れた指紋。
ほのかに感じる皮革の匂い。
ルチアはまじまじとダニエルの手のひらを見、見すぎたことに気づいて、あわてて目を伏せた。
ダニエルが口を開く。
「柄を持ち、振るえば、誰だってこうなる。
身体を動かして何かをするということは、誰かに自分の命を預けず、自分で、自分の責任において、自分の命を扱うということだ。
誰にでもできることじゃない。
働くのは悪いことじゃない。
手が荒れているのは悪いことじゃない」
ルチアは目を見開き、ダニエルを見つめた。
「……そうですね」
ダニエルはゆっくりと手を下ろした。
ルチアは手袋をはめ直しもせず、自分の手をぼうっと眺めた。
香りが誇りだと思っていた。
美しく人を癒すものだけが誇りになると。
しかし、この荒れ果てた手にも誇りがあるとは。
……考えてみたこともなかったが、あらためて見てみれば、確かにそうなのかもしれない。
この手を使ってこそ、自分は香りをつくってきたのだから。
「ありがとう……ダニエル様」
「ダニエルでいい」
「え?」
「もう友だちだと思う」
ルチアは手袋をはめているダニエルを見上げた。
「……士官学校では、お友だちのお名前を、そのように呼ぶのですか?」
「ああ。同期は、私的な場で名前を呼び捨てにする。
あなたは俺と同じ十六歳だろう?
同期といっても過言ではないはずだ」
「なるほど……?」
ルチアはあごに手を当てて思案したあと、なにかを得心したようで、ふたたび顔を上げたうはずいた。
「では、ダニエルとお呼びしますね!」
「ああ」
「私のことも、ルチアと呼んでください!」
「ああ」
「なんでだよ」
「わあッ⁉︎」
ルチアは驚いて肩をすくめた。
あわてて後ろを振り向くと、舞踏会の明かりを背後に、兄・ギルバートが立っていた。
「辺境伯と公女が呼び捨てにしあってたらみんな困惑するだろ」
「そッ、そうかな……⁉︎」
「そーだよ」
ギルバートはルチアの横に立ち、ダニエルに向かって軍隊風のお辞儀をした。
「初めてお目にかかります。ギルバート・イル・フロラントです」
「ダニエル・イル・オルドリーク少尉です。おうわさはかねがね」
「は。
こちらこそ。
閣下のご高名はシュカ帝国までも、健やかに響いております」
「恐縮です」
ルチアはあわてて長手袋をはめた。
はめにくい真珠のボタンをようやくはめ終えて横を見上げると、ギルバートが冷たい目で見下ろしていた。
「な、なに、なんですか」
「べつに」
ギルバートはダニエルに視線を戻した。
「閣下」
「なんだ」
「呼び捨てはいささか早すぎるかと存じます」
「そうか?」
「そうです」
ダニエルは首をかしげた。
ルチアはいぶかしげにギルバートを見た。
この兄、今夜はやけに突っ込んでくる。
「まだ知り合って間もない二人が呼び捨てとは、常識にかないません」
「しかしもう友だちになってしまった」
「フーム……ならしょうがないですね」
「引くんだ」
ルチアは思わず口を挟んでいた。
突っ込んできたわりには撤退が早すぎる。
「じつのところ、俺はわりと常識とかどうでもいいと思ってる」
「そうなんだ……大丈夫なの?」
「だが世間の目を気にして一応は常識を踏まえた行動を心がけているし、おまえが俺の眷属である以上は、おまえにも常識ぶった行動を心がけてほしいと思っている」
「なおさらダメじゃない」
ルチアはギルバートの袖を掴んだ。
「というか、眷属じゃないし」
「妹は兄の眷属だろ」
「ちがうよ。少なくとも兄の眷属ではないよ」
「ケンカはよせ」
ダニエルはルチアとギルバートの間にはさまるようにして身を乗り出した。
両手を二人の前にかざし、これ以上近づかないようにとどめる。
ルチアはダニエルの真剣な顔つきを見て、不思議と落ち着いた気持ちになった。
「ダニエル、これは別にケンカじゃ……」
「なにやってんの?」




