香りの効能
一方のルチアは、フロラントの威信をかけて綿密に調香したはずの香りが、オルドリーク辺境伯に不評だった場合のことを考えてしまい、どぎまぎしていた。
オレンジの花に、ジャスミン、リンデン、カモミール、その他秘密の香料諸々と、ほんの少しのムスクを加えた特製の香水。
貴族の若者が好むような香調、しかしきつすぎず、しつこすぎないような、繊細な香りをと調香したはずだが……。
ルチアはダニエルの顔をじっと見つめた。
ダニエルは眉間にシワをつくって本気で悩んでいる。
自分の感覚にふさわしい言葉を探しているのだ。
香りや感覚、それを受けての心象などを、正確に言葉で表すのは難しい。
詩人や学者、訓練を受けた香水職人などでさえ、頭を悩ませる作業だ。
一軍人にして辺境伯、しかしいまだ年若い少年のダニエルには、ことさらに難しい作業だろう。
ダニエルは何かを思いついて、ルチアをまっすぐに見た。
指を鳴らして、人差し指を立てる。
「『抱きつきたくなる』」
「…………」
ルチアはきょとんとした顔でダニエルを見た。
とうのダニエルは、生真面目な顔でルチアを見つめ、人差し指を拳にたたんだ。
かと思うと、首をかしげ、
「……いや、ちがうな……『抱きしめたくなる』? かな……」
と、ふたたび言葉を探しはじめる。
ルチアは胸の前で手を組み、ダニエルの前に一歩踏み出した。
「それは……それは」
ダニエルはルチアの不審な動きに気づくと、両手をわきに下げ、あらためてルチアの顔を見た。
「……それは?」
「成功です」
ルチアの顔は喜色に満ちていた。
ダニエルは急激に表情を変えたこの少女を、珍しいもののように、まじまじと見つめた。
「……成功?」
「はい!」
ルチアは距離を詰めすぎていることに気づき、姿勢を正した。
「このような華やかな場に用いられる香水は、まず何よりも装飾品としての機能を求められます。
アクセサリーとしての機能を求められるということは、それをつける人を、より魅力的に見せなくてはならない、ということです。
ダニエル様がこの手袋の香りをお嗅ぎになって感じたのが『抱きしめたくなる』という感情なら、この香りに魅力を感じたということ。
この香りをまとう人にも、その魅力は移ります。
香りの魅力はそれを身につける人をも魅力的に見せるのです。
だから、香りが魅力的であれば、人を魅力的に見せるという、香水の機能を十分に果たしているということになるのです。
それは、このうえない香りの成功、我が香水産業の勝利です!」
ルチアはハッと我に帰った。
ダニエルは目を丸くして、ルチアを見ている。
「ごごごごめんなさいダニエル様! 一人で盛り上がってしまって……!」
「いや……なるほど」
ルチアの脳裏に不安がよぎった。
現役の軍人に向かって「勝利」などとは。
たとえとはいえ、ちゃんちゃらおかしいと思われはしなかっただろうか。
そんなルチアをよそに、ダニエルはいささか感心した様子でルチアを見直していた。
香りにそのような戦略が隠されていたとは、思いもよらなかった。
「香水には、ちゃんとした目的があるのだな……ただいい匂いだからつけているものだとばかり、思っていた」
「! ただいい匂いだからつける、でよいのです」
「そうなのか?」
「香水はもともと医薬品でした。
よい香りを嗅ぐことで病気や怪我を癒せると考えられていたからです。
しかし、香りそのものの楽しさ……よい香りがもたらす幸福感がその人自身の魅力にもつながったため、香水は装飾品にもなりました。
香水は心を癒し、見た目を魅力的にもしますが、それは香りの良さが、それを味わうことに楽しさがあってこそ。
機能は度外視して、香りをただ楽しむことこそ、香水本来の機能といえるかもしれません」
ルチアの言葉に、ダニエルは黙ってうなずいた。
「俺も、訓練のあいまに食べたオレンジの実の匂いに、驚くほど心をいやされたことがある。あれは不思議な体験だった」
「!」
ルチアはダニエルの目を見た。
ダニエルはルチアの目を見返し、彼女の瞳が不思議な色をしていることに気づいた。
黒みがかった色の中に、赤や青、緑など、さまざまな色の差異が隠されている。
闇夜のようだ、とダニエルは思った。
すべてを内包する美しい夜の色。
「私も、そのようなお話を聞かせてもらったことがあります」
ルチアはダニエルから目を逸らし、伏せた。
「戦場から、それを知らせてくれた人がいました」
「戦場から?」
「はい。
……恥ずかしながら、見も知らぬ、縁もあるとは思われぬ国からの手紙でした。
わたくしども──フロラントのアルチルド修道院製の香水を、戦場で使っている。
この香水のおかげで、戦場から楽園へ、一瞬にして移動することができる。
この香水は自分の、目に見えない大事なものを守ってくれている……そのような内容のお手紙でした。
私はこのお手紙を読んでから、自分が感じていた誇りのようなものが、なぜかしら、ちっぽけなもののように思われました。
今ではこの仕事に、自分の誇り以上の、大事な目的……使命とでもいうべきものが、あるように思われてなりません
……でも、そう思ってしまうからには、やはり、自分の誇りにしているのでしょうね……」
ルチアは手袋をはめた指を組み合わせた。
冷たい風が吹き、二人の髪を揺らした。
ダニエルは音もなく動き、風上とルチアとの間に立った。
「今、あなたは仕事と言ったか」
ふと思いついたように、ダニエルがたずねた。
ルチアはちょっと驚いたようにダニエルを見てから、かすかに苦い微笑みを浮かべた。
「……言ってしまいましたね。
そう、私、仕事してるの。
学校にも行かず、城からも離れて。
修道院とその農作地で、香水とか、石鹸とかを作ったり、香料を取るための植物を育てたりしてる」
「悪いことではないだろう」
「私もそう思ってる。
悪いことはしてないって。
でも、親族の中には、こういうことをするのは、よくないと思ってる人もいる」




