匂い手袋
「踊りました?」
「踊った。二回」
なんとなく、二人で欄干に手をかけて、外を見ながら話す形になった。
星空の下は森のはずだが、人家の明かりもぽつりぽつりと見える。
反対側のバルコニーにまわれば、宮殿と街のまぶしい光が地を満たしているのが眺められるだろう。
「私は三回。精一杯踊ったから、もうヘトヘト」
「俺ももう、ヘトヘトだ……ダンスは疲れる」
ルチアはいぶかしんだ。
「軍人なんだよね?」
「軍事行動とダンスは違う」
ダニエルはルチアの方に向き直った。
近くで見るダニエルの瞳の色は、翡翠のような灰緑色をしている。
「軍事行動より、ダンスの方が疲れると思う」
ということは、軍事訓練もダンスも〈楽しみ〉でやっているギルバート某は、相当珍しいたちに違いない。
ルチアは今も〈舞踏会の花〉然として皆の中心に立つ厄介な兄を思い出して、我知らず微笑んでいた。
「? なぜ笑う?」
「いえ……ちょっと思い出し笑い」
ルチアは手袋をはめた手で頬を揉んだ。
頬がゆるみがちだというお小言も、ギルバートからもらったことがある。
「それが噂の匂い手袋か」
「え?」
「さきほど踊ったご令嬢から聞いた。
フロラントのご兄妹……ギルバート様とルチア様は、とても良い香りのする手袋をはめているらしい、と」
「噂になっているの?」
「みたいだな」
ルチアもギルバートも、柔らかい革の手袋に、フロラント製の香水をしみ込ませている。
もちろん、一旦乾かすので、濡れているわけではないが、アルコール分が蒸発したあとも、香りの成分は残る。
手袋を手にはめると、手の熱で温められた香りの成分が揮発・拡散する。
このような仕組みで香る匂い手袋は、フロラントの名産品でもある。
もちろん、ルチアとしても、宣伝したい気持ちがないわけではない。
匂い手袋に使われる皮革も香水も、ルチアが暮らすフロラント南部で製造されているものだからだ。
しかし、こんなに早くうわさが広まるとは、正直なところ、思いもよらなかった。
「こんなに早く、手袋のことが広まるなんて……まだ三人としか踊っていないのに」
「うわさとはそういうものなのだろう」
ルチアは欄干の外に手を伸ばし、手のひらを広げた。
闇の中に、真っ白な、シミ一つない手のかたちが浮かんでいる。
「しかし、言われているほど匂いはないな」
「え? ……うーん、さっきシャーベットを食べたからかしら」
「? どういうことだ」
「香りは熱によって匂い立つのです。
さっき手袋をはめた手でシャーベットの冷えた器を触っていたから、手袋が冷えて香り立ちが抑えられてるんじゃないかしら」
ルチアは手で鼻と口をおおうようなかたちをつくった。
ここまで近づけばさすがに匂いを感じるが、少し離れていば気づかないくらいの弱い香り立ちだ。
ルチアはチラと隣のダニエルを見た。
手の匂いを嗅ぎ始めたルチアを、不思議なものを見るような目で見ている。
「嗅いでみますか?」
「いいのか?」
「もちろん! さあ、どうぞ」
ルチアは両手の先をダニエルの前に差し出した。
ダニエルは両手を揃えてそれを優しく掴み、鼻先に近づけた。
袖口からは、男物の香水によくある香り──ローズマリーとラバンディンの匂いがした。
すうっ、と大きく息を吸い込む音がする。
ダニエルが手袋の香りを感じている。
手は、まだ離されない。
目を閉じて匂いを感じ取ろうとしているダニエルを見ていると、ルチアは次第に落ち着いてきた。
今の自分たちの行動を客観的に考えてみる余裕ができた、ともいえる。
ダニエルに両手を差し出すルチアと、その指の先に鼻をうずめている(ように見える)ダニエル。
(あれ……これって……そうとう、変な光景なんじゃ……)
だんだんと、ルチアの頬に赤みが差してきた。
もしかして私、けっこう恥ずかしいことしてる?
「ああああのダニエルさま、」
「ありがとう」
「エッ」
ダニエルはゆっくりとルチアの手をおろし、それから指を離した。
肺の空気を入れ替えるように、深く息を吸い、吐く。
「いい匂いだな。……しかし、なんというか、……胸がさわぐ」
ルチアは息をのんだ。
あわてるあまり、一歩、踏みこむ。
「それは……不快だったということでしょうか……!?」
詰めよるようなルチアの動作にダニエルは目を丸くした。
「いや、いや、そうではない……そうではなくてでな」
ルチアは自身の不審な動作に気づいて、身を引いた。
「し、失礼いたしました……。
……あの、不快な匂いではなかったと……?」
ダニエルがうなずく。
「そうだ。不快ではなかった」
「では、胸がさわぐというのは……」
「うーん……それは……なんというか……」
ダニエルは天を仰いで腕を組んだ。
ルチアの疑問に対して、真剣に考えようとしている。
「なんというか……?」
「こう、血がさわぐ……でもないな、」
「血がさわぐ……」
「思わずつかみかかりたくなるような……というか……いや、これもちがうな」
「つかみかかりたくなる……」
ダニエルは「ううん……」とうなるような声を出して、真剣に悩んでいた。




