マティアス皇子
「……大丈夫ですか」
「大丈夫だ……よし、おろして……ありがとう……さあ、ちょっと休憩しよう」
「失礼します」
従者たちが、車椅子に乗ったオードックを、絨毯の上に下ろし、壁際に寄せた。
重さをものともしないゆっくりとした動作だったが、それに加えて絨毯の長い毛足が重量を吸い込んでくれるので、床に置いても、コツリとも音がしない。
オードックはワクワクした表情を隠しもせず、従者たちを見上げた。
「うまくいったかな……⁉︎」
「さあ……」
「ハハハ……ダニエルはこういうことには奥手だから、誰かが背中を押してやらんとな」
従者の一人が、手袋をはめ直しながら、一人盛り上がるオードックに釘を刺すように、言葉をかけた。
「……しかし、ダニエル様にもルチア様にもその気がなかったらどうするんです? 大体、ダニエル様の好意だって、殿下の早とちりかも」
「そ、そんなことないよ! なんてこと言うんだお前……!」
オードックは胡散臭げな従者の顔から目を逸らし、ひとりごちるように言った。
「晩餐前にダニエルに思い切ってルチア殿のことを訊いてみたら、『好意を持っています』ってはっきりと言ったんだ……ダニエルが言うんだから嘘じゃない、ぜったいに……」
「え〜本当かな〜」
「絶対そうだってば!」
「殿下」
オードックは声を上げた従者に目をやり、すぐに廊下の奥に目をやった。
「東棟の方向から人影が二つ」
三人は廊下の奥に目を凝らした。
二つの人影は、穏やかなスピードでこちらに近づいてくる。
廊下を照らす照明の、わずかな光の下で、ようやっと人影の正体が分かったとき、オードックは息を吐いて緊張を緩めた。
長身の人影と、一回り小さい人影が声の届く距離まで近づいてきたあたりで、思い切って、自分から声をかける。
「マティアス皇子」
皇子と呼ばれた青年は、笑って、オードック挨拶を返した。
「こんばんは、よい夜ですね……オードック叔父上」
オードックはマティアスを見上げてうなずき、隣に立つ少女に目を向けた。
「エマリンドまで……」
「さっきぶり」
マティアスはエマリンドに先立ってオードックの前に立ち、軽く頭を下げた。
光を吸い込むような黒い髪に、陶器のような白い肌、金色に光る眼。
美しい顔に、作りつけたような微笑み。
マティアス・ミラ・ザビウス=メールラントは、皇太子ヴァレリウスの第一子である。
隣に立つエマリンドは、自分から来たくせに、やけに退屈そうな顔をしていて、それを取り繕うそぶりもない。
マティアスもオードックも、彼女にとっては体面を保つ相手ではないのである。
「二人ともどうした、こんな夜更けに……」
「肝試し」
「は?」
「冗談ですよ」
マティアスは頬を歪めて笑った。
「叔父上が部屋に戻っていないようだったので、エマリンドと心配して、探しに」
「……そうか」
オードックは肩の力を抜いた。
「もう戻るよ。心配してくれて、ありがとう」
エマリンドはなかば呆れたようにつぶやいた。
「ルチアたちを二人きりにさせるなんて、ずいぶん思い切ったことなさったわね」
「う……き、気を利かせたんだ……年上の友人として……」
エマリンドの指摘に、マティアスも同調する。
「わざとらしすぎますよ」
「そう。それに押しつけがましい」
「クサい上に雑」
「というか寒い」
「そ、そんな……」
「雑すぎてマティアスなんて邪魔する気もなくしてたわよ」
「おい」
マティアスが横目に睨むと、エマリンドも横目に睨み返す。
「いまさら誤魔化したって無駄よ、お邪魔虫さん。お前がダニエルのことを目の上のタンコブみたく思ってることは、みんな知ってることなんだから」
「なんだそれは。自分の話か?」
「私がダニエルを憎たらしい小僧だと思ってることは、秘密じゃないわ。
私はお前ほど卑屈じゃないの。
嫌なものは、はっきり嫌と言うわ、大きな声でね」
「なんでもかんでも自分の思い通りになると思ったら大間違いだぞ、クソガキ……」
「何? 自己紹介?」
「やめろ、見苦しい」
オードックの唸るような声に、エマリンドとマティアスは口を閉じた。
「……エマリンド、自分の甥には敬意を持て。
それに、マティアスが士官学校の先輩だということを忘れるな。
マティアス、叔母に向かってなんだその口の利き方は。
エマリンドがどれだけ若かろうと、彼女が皇帝の子で、現スタングリッツ伯だということを忘れるな」
エマリンドとマティアスは渋々といったていでうなずいた。
二人とも、なんだかんだ言いはするが、オードックに対しては敬意を持っている。
オードックは、ふと疑問に思って、エマリンドを見た。
マティアスがダニエルとルチアの〈デート〉の邪魔をしようとしたのならエマリンドは何をしにきたのだろう?
やはりダニエルの邪魔だろうか?
さっきの口ぶりからすると、それはなさそうだ。
すると、ダニエルの邪魔をするマティアスの邪魔をしにきたのだろうか?
これは十分ありえそうだ。
昼にルチアから聴いた話が本当だとすると、エマリンドはルチアを好意的に見ている。
エマリンドがルチアの味方をするつもりでマティアスの妨害をするのは、考えられることだ。
エマリンドにしろマティアスにしろ、ダニエルを苦々しく思うのは、まず彼の人間性と能力を認めた上でのことだからだ。
エマリンドもマティアスも、相手がそれ相応に優秀でなければ、〈敵〉として認めない。
自分と同等かそれ以上に優れた人間でなければ、自分の障害になるとは思いもしない。
これは優秀さゆえの死角だと、オードックは思っている。
〈敵〉はいつだって思わぬところから現れるのであって、決して筋書き通りの場所から現れるとは限らない。
「二人とも……ダニエルにかまけてないで、自分の鍛錬に気を使いなさい」
「かまけてない」
「かまけてるだろう。
ダニエルはダニエル、自分は自分だ。
一心に自分を鍛えていれば、自ずと結果はついてくる。
さあ、部屋に戻って、寝る準備をしろ」
「子供扱いして……」
オードックは二人を追い払うような仕草をした。
マティアスは鼻で笑って背を向け、廊下を戻ろうとして、ふと振り返った。
「手応えはありますか」
「何の」
「ダニエルと、フロラントのお姫様ですよ。叔父上の早とちりがないとも限らないし」
「……あっても言わない」
「へえ」
「お前には関係ないだろう」
「断言できないわけだ」
「…………」
「じゃあ粉かけちゃおうかな」
「あ?」
マティアスは肩をすくめて「怖」とつぶやいた。
エマリンドは呆れ返ってマティアスを睥睨している。
「まだ交際にも至ってないんでしょう。それなら私がルチア姫にアタックしてもいいわけだ」
「いいわけないだろう」
「そんなことになったら、ダニエルが引き下がらずを得ないと分かっているから言ってるんでしょう? 最低ね」
「お前はどうせ何もできないんだから黙ってろ、エマリンド」
「黙るのはお前のほうよ、マティアス……」
この場に居合わせた全員の背筋が総毛だった。
暗闇で静電気が起こるときのように、エマリンドの手元で、光と音がバチバチと瞬いている。
オードックはエマリンドが何をしようとしているのか察し、思わず車椅子を前進させた。
マティアスとエマリンドの間で急停止した瞬間、勢い余って、オードックの身体が座席から浮いた。
重心が傾き、上体が前に倒れそうになる。
「ッ」
「あッ、」
従者たちより速く、マティアスが動いた。
絨毯に片膝を突き、オードックの身体を支える。
遅れて前に出たエマリンドも、オードックと車椅子を手で押さえる。
「…………」
「…………」
「……ありがとう」
「……いや……」
従者が車椅子を押さえているのを認めて、マティアスが離れた。
バツの悪そうな顔でうつむいているエマリンドに向かって、オードックは声をかけた。
「エマリンド、こんなところでブッ放すつもりか?」
「…………」
「でも、ありがとう」
「……べつに」
「私を支えてくれたことだけじゃない」
「え?」
「ダニエルと、ルチア殿のために怒ってくれたんだろう」
「…………」
エマリンドは、手を後ろに回して、引き下がった。
エマリンドがまだ小さい頃、何か隠したいことがあるときには、そういう仕草をしたことを思い出して、オードックは微笑んだ。
「お前は友達思いの、いい子だな」
「……友達じゃない」
「ルチア殿も?」
「ルチアは友達だけど」
オードックはマティアスに向き直った。
「マティアス」
下から覗くようなオードックの視線を避けて、マティアスは顔を背けた。
「私は好きにさせてもらう」
「マティアス、お前は優しい子だ……だから、」
「そんなことはどうだっていい」
「マティアス」
マティアスを殴りつけそうなエマリンドを制して、オードックは静かに、マティアスに語りかけた。
「心のない、恋愛の真似事ほど、むなしいものはない」
「…………」
「お前にそんな思いはしてほしくない」
「……覚えがありそうな口ぶりですね」
「……痛いとこ突いてくるな」
マティアスは気を取り直して姿勢を正した。
いかにも自信ありげな顔つきが、エマリンドの癪に触った。
「安心してください。叔父上のようにはなりませんよ」
「自分は傷つかないとでも?」
「相手も自分も傷つかないように、納めてみせます」
「愚かな振る舞いだ」
「まったくね。バカ丸出しだわ」
「エマリンドォ……!」
「やめろ、二人とも‼︎」
オードックはいい加減怒るのをやめたかったが、エマリンドとマティアスはなかなかそうさせてくれない。
二人の首根っこを掴んで寝床まで引きずっていきたいところだが、そうするわけにもいかない。




