隣に
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……軍隊は優先事項をはっきりさせるし、あるべき流れというものもはっきりしているので、ダニエルからすると、とても分かりやすい。
しかし、軍隊の外──それは士官学校の自由時間だったり、宿舎の食堂だったりする──に出ると、あるべき流れはなくなり、代わりに、刹那的な、不鮮明な、その時々によって制定される〈お約束〉のようなものが立ち現れる。
それは会話の中の冗談や慰めや怒りの中に混じっていて、人々はやり取りの中にダニエルの理解し得ない〈お約束〉を読み取り、それに従って笑い、慰め、そして泣く。
ダニエルにとって、それは、ときに理解の範疇を超えている。
──ダニエル、おまえは本当に真面目だな。もっと肩の力を抜いたほうがいい。
──君は言葉を額面通りに受け取りすぎだよ。
ここまでなら、まだいい。
──今のは冗談だよ! ……本当に分からないのか?
──そりゃ「普通」つったら「普通」だろ。定義なんかありゃしねえよ。
ここまでくると、ちょっと、困る。
ダニエルが、まだツィヴァコフやレヴィナや士官学校や、そのほかあらゆる場所で感じていた違和感。
それを、思い切ってオードックに相談すると、彼は、「いったん持ち帰らせてくれ」と言った。
そして本当に一週間ほど考え、悩み、再び相対したおりに、噛み砕いて、ダニエルに教えてくれた。
人々が我知らずといった顔で読み取っている〈お約束〉というものは、人によっては〈顔色〉というものに近いもので、これを読み取るには相当の訓練がいること。
人々は涼しい顔でそれと付き合うが、それはそれなりに訓練を積んだからこそできることであり、練習しなければ読み取るのは難しいということ。
オードックは言った。
「……どんなに頑張っても懸垂ができない人がいるように、どんなに頑張っても顔色を読み取ることはできないかもしれない。
だけど、頑張れば、できるかもしれない。
ダニエル、もし君が頑張ってできるようになりたいというのなら、どうぞ何度でも、この私に相談してほしい。
その度に、何が合っていて何が違うのか確認しよう。
もし分からなければ、他の人にも訊いてみよう。
合っている〈お約束〉に従ってやり取りできるようになれば、大したものだし、そうやって学んでいけば、そのノウハウ自体が、素晴らしい財産になると思う。
それは、君の助けになるだろうし、きっと、誰かの助けにもなるはずだ」
自分の顔より下の方にある、この年上の皇子の笑顔を、それを見たときの安心感を、ダニエルは生涯、忘れないだろう。
家族以外の人間で頼りたいと思った人間は初めてだった。
寄り添ってくれる気持ちが嬉しい、と思ったことも、これが初めてだったかもしれない。
このときからダニエルは、オードックを師と思い、そう公言するようになった。
それは士官学校で学ぶことより他の、しかし生きる上で大切なことを指導してくれるオードックへの最大の敬意の表れでもあった。
そんなオードックがダニエルとルチアの交友に期待するものがあるとして、それが何かは、ダニエルには分からない。
オードックに訊いてしまえばそれまでなのだが、なぜか、ダニエルはそうしない。
ためらう、というより、それは必要なことではない、と思って、質問せずにいる。
オードックはダニエルに期待を押しつけるようなことはしない。
あらかじめ正解を教えて、それに沿って行動するように勧めたりはしない。
ただ、祈るような、淡い希望を持つだけだ。
オードックがそうするならば、ダニエルも、そうするまでのことで、用意された台本に沿って行動することはしない。
どんなに不安でも、正解を決めず、求めず、希望を持って、未知に──ルチアという存在に、手を伸ばすだけだ。
***
ルチアは再度、星を見上げた。
その横顔を、ダニエルは黙って見つめた。
黒い毛皮に囲まれた紅色の髪と、小麦色の肌が、冷たい空の下で、鮮やかに浮かび上がっている。
黒い瞳は星の光を受けて輝き、自らも淡く光を放っているように見えた。
ダニエルは、ルチアと初めて出会ったとき、その瞳に夜の闇の色を見出したことを、今さらながらに思い出した。
闇の色は、その奥にさまざまな色が隠れている。
赤や青や緑が、彩度を保ったまま混じり合う、鮮やかな色。
暗くて、無辺のようでいて、その実、何よりも豊かな色。
黒はそういう色でもあるのだと、ダニエルはルチアの瞳を見て、知った。
ダニエルは自らも首をそらし、再び星を眺めながら、ぼんやりと考えた。
ダニエルは、「自ら考え起こした行為によって尊敬されることは、生まれによって与えられた称号の威光より、強い威光になり得るのではないか」と考えることがある。
それは彼が士官学校で、貴族や、平民や、外国人や、さまざまな生い立ちの、さまざまな人間と関わる中で、自然と思いついた考えである。
自分が思いつくくらいだから、すでに大勢の人間が思いついているであろう考えだとは思っているのだが、〈貴族〉が貴族である根拠を揺るがしかねない危険な思いつきではあるので、誰も口に出さないだろうとも思っている。
ダニエルとて、この考えを口の端にのぼらせたことはない。
しかし、こうしてルチアに生い立ちを話してみた今、ダニエルはひそかに、「ルチアには、いつかこの考えを話すかもしれない」と考えずにはいられなかった。
ルチアは、ダニエルの考えを、ただ一つの思いつきとして、素朴に受け入れてくれるのではないか。
期待にもならない淡い考えが、ダニエルの脳裏によぎって消えた。
実際にそれを口に出してもてあそべるほど、ダニエルとルチアの足場は堅牢ではない。
ダニエルはルチアから目を逸らし、天を見上げた。
夜天は、どこまでも冷たく非人間的なのに、その途方もなさで、かえって人間を喜ばせる。
自分も、隣にいる人間をも矮小だと感じさせるのに、心安らかになれるのは、その矮小さこそが、人間が隣り合い、支え合う理由になるからではないだろうか。
「綺麗ですねぇ……」
「……ああ」
冷たい天の下で、二人は心地よい沈黙のうちに、目が渇くまで、星に見入った。
他人がそばにいることの暖かさを、身体のかたわらに感じながら。
薫る国の公女 第一部 完




