夜
明日の朝、宮殿を発つダニエルとルチアのために、その夜の晩餐は盛大になった。
海老のビスク、タコのテリーヌ、蒸した蟹と新鮮な野菜のサラダ、ホタテ貝と真鯛のムニエル、南洋原産の果実のシャーベットに、チョコレートボンボンとコーヒー。
内陸の都であるレヴィナでは手に入れることも保存することも難しい食材が、次々と供されては、人々の胃に飲み込まれて消える。
「お味はどうかな、ルチア殿」
パンの切れ端を飲み込んだばかりのルチアに、メリニオスがたずねる。
ルチアはなんとかパンを飲み下してから、笑って答えた。
「……とっても美味しいです!」
「よかった」
今夜は、ルチアも舌鼓を打つ余裕があった。
一仕事を終えた安心からか、何を食べてもちゃんと味がする。
ルチアは魚の肉と骨とを取り分けながら、前夜の晩餐が肉料理、それも狩猟肉の料理ばかりだったことを思い出した。
おそらく晩餐の主催者であるメリニオス帝が、海辺の国から来たルチアを楽しませようと、山の幸をふんだんに使って作らせたのだろう。
今回の献立が海の幸ばかりなのは、レヴィナと同じ内陸の土地から来たダニエルを楽しませようという意図があるからかもしれない。
ルチアはメリニオス帝とミュリティス后の心尽くしのもてなしに頭が下がる思いがした。
子供たちでさえ、闖入者であるルチアとダニエルたちを怖がりもせずに受け入れているあたり、皇帝一家のもてなし好きは筋金入りのものと思われた。
***
食後は、歓談室でボリシュターがソナチネを演奏した。
子供たちも大人しく聴き入っていたが、ルチアはそれにも増して真剣に聴いた。
絶え間なく響む弦の音。
少しづつ変化しながら繰り返される一つの旋律。
曲自体は、ルチアも聴いたことのある、定番の独奏曲である。
しかし、ボリシュターの演奏には、楽士の演奏とは、どこか違ったものを感じる。
それは言葉で言い表せないような感覚的な感想で、今のルチアの語彙力では、到底語ることのできない複雑さを含んでいる。
演奏が終わり、ボリシュターが弓を持った手を下すと、ルチアは熱心に拍手し、賞賛を贈った。
言葉にできない賞賛は仕草に込めるしかない。
小さな子供たちは大人たちの真似をして手を叩く。
大きな子供たちは拍手の音を競うように大きく、大人たちは控えめに、皇帝夫妻は穏やかに。
それぞれが賞賛を込めて拍手を送る。
ボリシュターは額を袖で拭い、目をパチパチと瞬かせながら、礼をした。
その眼の動きは、四方八方から注がれるきょうだいたちの視線を避けるようでもあり、ここではないどこかを見つめているようでもある。
例によって、ボリシュターはルチアが声をかける間もなく引っ込み、ヴァレリウスが号令を取って、お開きとなった。
***
「ルチア殿」
引き上げようとする人々の合間から、オードックがルチアに声をかけた。
「オードック様」
「お食事は楽しまれましたか」
「はい!
とても!
ボリシュター様の素晴らしい演奏も聴けて、とても楽しい夜でした!」
「それはよかった……」
オードックはルチアの顔を見ながらゆっくりと瞬きした。
何か言いたげな様子である。
ルチアはオードックの前から去ることもできず、チラと車椅子の後ろに立つダニエルを見やった。
ダニエルも、オードックの言葉を待っている。
「……ルチア殿、ダニエル、」
心なしか、ためらいがちに、オードックが口を開いた。
「はい」
「はい」
「……実は、この宮殿には天文台がある」
「天文台……ですか」
「存じております」
オードックは首を持ち上げ、言葉を続けた。
「この三人で何かをするのは、これで最後になるかもしれない。
どうだ、記念に見に行かないか。
レヴィナの星空を」
ルチアは思ってもみなかった誘いに心を浮き立たせた。
「よろしいのですか⁉︎」
「ああ、もちろん。私から誘ったのだから。ダニエルは?」
「もちろん、喜んで」
「よかった。では、参ろう」
オードックは従者を四人、呼び出した。
廊下は自分で車輪を回して進み、階段まで来ると、二人の従者に自分の車椅子を持ち上げさせ、階段を登った。
もう二人はダニエルとルチアにそれぞれついてまわるための従者で、うち一人は女性の従者である。
優雅なドレスを身にまとったこの従者は、常に抑制の効いた微笑を浮かべており、初対面のルチアに対しても、よく気が利く。
手燭を差し、傾ける具合からしても細やかで、ルチアはこの従者に好感を持った。
姿勢や歩き方に、どこか軍人のような気配がするあたり、メノワと似ている、とも思った。
ベルミオンは優秀な護衛侍女を輩出することでも有名な国なので、彼女もその手合いなのかもしれない。
彼女はルチアとダニエルに、腕に抱えた毛皮の外套らしきものを見せた。
「お冷えになるかもしれません。
上着をお召しになりたいときには、どうぞ、わたくしめに、お申しつけくださいませ」
オードックは都度、従者を休ませながら、階段を上がり続けた。
休むたび、ルチアとダニエルはオードックからカノラ宮にまつわる様々ない奇談を聞いた。
真夜中に走り回る子供の足音が聴き続け、睡眠不足に陥った皇女が自腹で廊下に絨毯を敷き詰めた話。
自分の部屋の中に土を運び入れて、小さな農園を作った皇后の話。
最上階に馬を走らせた皇子の話。
ルチアとダニエルは笑ったり背筋を凍らせたりしながら、オードックとともに上へ上へと登っていく。
そうこうしているうちに、一同はとうとう屋上に上がった。
屋上は城壁のように四方を壁で塞いであったが、外は外である。
冷たい夜風が、ルチアたちの首に差し込み、吐く息が白く変わる。
思わず従者の方を見ると、心得たように、ルチアとダニエルの肩に外套を掛けた。
オードックの膝にも毛皮が掛けられ、さて何を見るのかと前を見れば、屋根つきの渡り廊下がある。
宮殿の端まで続くその廊下を進んでいくと、そこには不思議な形の建物があった。
建物は円柱型で、屋根は丸天蓋になっている。
いかにも宮殿然として、四角ばった形の多いカノラ宮の中にあっては、丸みを帯びた形のこの建物は、いささか浮いた存在であるかもしれない。
「ここが目的の場所だ」
オードックは従者に両開きの扉を開かせた。
重たい、引きずるような音を立てて、鉄の扉が開く。
ルチアは頬にあたる空気が変わったのを感じた。
機械油の匂いが、かすかに鼻を刺激する。
扉の内は暗く、ただ広いことしか分からない。
従者たちは簡易手燭を取り出して火を灯し、部屋の中の、別々の方向に向かっていった。
ルチアは目を凝らして部屋の奥を見た。
何かの鍵を外す音の後に、何か重たいものを転がすような音が聴こえたかと思うと、部屋の奥に一線の切れ込みが入った。
切れ込みは明るく、徐々に、横に太く、広がっていく。
光が部屋の中を照らし、床に鎮座している大きな機械が望遠鏡だと分かるくらいに〈切れ込み〉が広がった頃、ルチアはそこにある満点の星空を認めた。
従者が部屋の側面に取りつけられた大きなハンドルを回すたび、ゴロゴロと物を転がすような音が鳴り、二つに割れたドームが徐々に動いて、壁の向こうに納められていく。
そうしてようやく天蓋を納め切ったときには、部屋は明るい屋外になっていた。
空は晴れ、空気は澄み、星は明るく、それゆえ、夜の色は濃く、暗い。
青みを帯びた白、きらめく緑、輝く赤、オレンジ、眩しい金。
小さな点でしかないそれらが、寄り集まって、煙のように、しかしはっきりと光り輝いて、顕在している。
その中でも、光の粒がとりわけ多く寄り集まって錦の帯のようになっているところが、銀河だ。
銀河は夜天を横断するようになびいて、一際強く輝いている。
ルチアとダニエルは、寒さも忘れて夜天に見入った。
これくらいの星の数なら、自分の居城でも見えはするし、慣れている。
だが、星が無いとさえ思われたこの大都会レヴィナにおいて、ここまで星が美しく見える場所があるとは、思いもしなかった。
「フロラントやオルドリークでの眺めには劣るだろうが……ここも、なかなかよく見えるだろう。レヴィナにしては」




