姉弟
「…………」
「あら……これ全部、香水? よく集めましたわね」
「……あの、トリステア姉上」
唐突に、オードックが声をかけた。
その目はまっすぐにトリステアを見ている。
「なんですか?」
「……こちらを、」
「え?」
「こちらの香水を、すべてあなたに捧げます」
「……え?」
ルチアはその言葉を、候補にした十本の香水全てを贈り物にする、という意味だと考えた。
そしてすぐに、それはこの部屋にある香水全てを贈る、という意味だと気づいた。
オードックの、両手を目一杯広げた仕草は、どう考えても「この部屋にあるもの全部」を意味している。
「え?
何?
どういう意味?」
困惑するトリステアに、オードックがたたみかける。
「この部屋にあります全ての香水を、トリステア姉上に差し上げます。不肖の弟オードックからの、ささやかな贈り物でございます」
トリステアは口をぽかんと開け、侍女を見たりルチアたちを見たりした。
しかし、今はルチアもダニエルも困惑しており、何も言うことができない。
トリステアは、やっとのことで言葉を紡ぎ出した。
「いらない」
オードックは腕を下げ、やや前傾姿勢になって聞き返した。
「……今なんと?」
「……こんなにたくさんの香水は、いりません」
「…………」
当然といえば当然の返答。
ダニエルが進み出て、オードックに耳打ちした。
「候補の十本に絞って差し上げるというのはどうでしょう」
「……お、おお、そうしよう」
オードックはあらためてトリステアの方を見た。
「……では、こちらの十本をお贈りします。
トリステア姉上のために、三人で知恵を絞って選び抜いた香水です。
お気に召すかどうかは分かりませんが、どれも良い香りには間違いありません。
なにとぞ、お納めくださいますよう……」
オードックが頭を下げると、トリステアはハッと我に帰った。
訳の分からない展開に自分を失っている場合ではない。
「あ、頭を上げてちょうだい……」
「! 受け取ってくださいますか!」
「ええ……十本だけなら……」
「ありがとうございます!」
オードックはダニエルたちに笑いかけた。
ダニエルも、わずかに口角を上げて、笑った。
ルチアは、紆余曲折あったにせよ贈り物が受領されたので、ホッとしていた。
「でも……なんで今、贈り物を……?」
トリステアの疑問はもっともである。
「誕生日でもないわよね……」
「…………」
オードックは視線をぎこちなく彷徨わせてから、意を決したように、トリステアの青い瞳を見た。
それから、言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開く。
「……私は、昔から、トリステア姉上のことを気にしたことがありませんでした」
ルチアは思わず息を潜めた。
オードックは何かを……たぶん、オードックとトリステアにとって重大な何かを、話そうとしている。
「……子供の頃から、トリステア姉上があまり動かないのを当然のこととして捉え、姉上が病気を患っているのだと理解してからも、それを思いやることはなかった」
ルチアはトリステアをうかがった。
その目は平静そのもので、ただ押し黙って、弟を観察している……ように見える。
「そのうち、私は士官学校に入り、軍に入った。
訓練中に落馬して、腰を打って、足が動かなくなった。
自分の人生は終わった、と考えた。
そのときでさえ、姉上のことを気にすることはなかった」
トリステアは何も言わない。
ただ、オードックを見つめ、彼が放つ言葉を、受け止めている。
「苦しかった。
なぜ私が、と思った。
運命を憎み、自分を呪った。
その間も、姉上を思うことはなかった。
そうして、すべてを呪っていても、時間は経つ。
そのうち、呪っている時間より、ただ生きている時間の方が増えてくる。
それで、車椅子に慣れるため、カノラ宮の中を行ったり来たりしているときに、気づいた。
宮殿は段差が少ない、と」
ルチアはハッとして、実験室の出入り口に目をやった。
思い当たることはある。
カノラ宮は、極端に段差が少ない。
階段はそこかしこにあれど、数段の段差であれば、板を張って坂道の様に整えたり、削ったりしてある。
また、一階から外に出るための外階段のそばには、なだらかな坂道が作りつけられており、車椅子でもゆっくり降りられるようになっていた。
建物と改造の跡の馴染み方、そうなるまでの年月を鑑みると、この整備はトリステアのためになされたものである、と考えた方が自然である。
「カノラ宮は、兵舎や病院よりも、ずっと移動しやすい。
それは間違いなく、姉上のためになされたこと……姉上がいたからこそ、なされたこと。
姉上が車椅子を使っていたからこそ、私はなんの苦もなく宮殿の中を移動できる。
そう気づいたとき、初めて、トリステア姉上のことを思い出しました。
姉上はずっといた。
ずっと、カノラ宮に、そこに、いた。
なのに、おれは知らなかった。
姉上が、ずっと、すぐそこで戦っていたことに、気づきもしなかった。
おれはベルミオンのどこへでも行けた。
いや、今だって、行こうと思えば、行けるんだ。
レヴィナの外へ、外国へ……山へだって、海へだって、どこにだって、行ける。
姉上が行けないどんなところだって、行けたのに、おれは、おれは……。
……どうして一度も、一度でも……姉上の代わりになって、世界を見ようとしなかったのだろう……」
重い塊のような呟きが、オードックの口から吐き出される。
うつむいていたオードックが再び顔を上げたとき、頬には涙の筋がいくつも流れていた。
涙の塩からい匂いが、ルチアの鼻にまで届く。
「私は、とんでもない馬鹿者です。
失って初めて大切さに気づき、体験して初めて偉大さに気づくのですから、バカとしか言いようがありません。
戦う者を戦士と呼ぶなら、姉上は間違いなく戦士です。
最初から、私などより、よほど立派な戦士でいらっしゃった。
姉上は立派な御仁です。
姉上は……姉上は、立派な、御仁です……」
最後の方は、ほとんど嗚咽で、何を言っているのか分かりづらかった。
しかし、ルチアたちにも、話していることの意味は聴き取れた。
「……生きていてくれて、……いや、……生まれてきてくれて、ありがとう……ありがとう、ございます」
オードックは滴り落ちる涙を手で拭った。
ルチアとダニエルが同時にハンカチを出し、二枚とも使われた。
「……オードック」
トリステアが、侍女に車椅子を押され、オードックに近づく。
「それを言いたくて、贈り物なんて理由をつけたのね」
「……はい」
「…………」
オードックは涙に濡れた青い瞳をトリステアに向けた。
トリステアを少し考えるそぶりを見せたが、すぐに正面を向き、口を開いた。
「しゃらくさい」
「…………」
「……えっ」
「しゃらくさいわ」
この言葉には、さすがにルチアもダニエルも、……トリステアの侍女でさえも、驚きを隠せなかった。
「…………」
「…………」
「……ええ?」
あっけに取られた人々の中心で、トリステアは、コホン、と一つ咳払いしてから、オードックをまっすぐに見た。
「……私は戦ってなんかいません。
ただ、生まれてきたから、生きてきただけ。
生きることを戦いと捉えるなら戦士というのも妥当かもしれないけれど、私の認識としては、違う。
私は拳を振るったことはないし、剣も持ったことはない。
だから、私は戦士じゃない」
「いや……それは……もののたとえというか……」
「あなたが私のことを気にしなかったのは当然のことです。
だって仲良くないんだから。
私だって、あなたに興味なかった。
あなたが怪我して、車椅子を使うようになってから、まじめに顔を覚え始めたたくらい。
でも、十歳も歳の離れたきょうだいなんて、こんなものじゃない?
あなたが泣くほどの大転回は起きてないし……いまさら泣かれたって、私に子守は無理よ、オードック」
トリステアは車椅子の車輪を掴み、ゆっくりと回した。
腕に力の入りにくいトリステアにとって、かなりの重労働だろう。
侍女がハンドルを掴んで押し、少し進む。
トリステアはオードックのすぐ横に来るまで進み、互いの車輪が重なったところで、止まった。
「……まあ、でも……あなたはよくやったよ……本当に、よく頑張ってきたと思う。
……だからもう、『泣くのはおよし、おチビちゃん』」
トリステアが手を伸ばし、オードックの頭に触れる。
か細い指が、オードックの頭を叩くように撫でた。
「……ばあやの真似だ」
オードックは、泣きながら笑った。
トリステアも、少し笑った。
「懐かしいわね。
ばあやはスミレの香りが好きだった。
ばあやがつけてた、あの香水、今でもあるのかしら」
「あるよ。
そこにある。
ベルミオン中の香水を集めたから、きっとある」
トリステアは香水の森をあらためて見て、嘆息した。
「……こんなに香水を集めるなんて!」
「姉上が何が好きか、分からなくて」
「そんなことは私に直接ききなさい」
「はい……」
「あなたたちも」
と、トリステアがルチアとダニエルの方に顔を向けた。
「オードックに振り回されて大変だったでしょう」
「いえ、そんな……」
「苦情はメリニオスかミュリティスにね」
「いえ……そんな……」
ルチアは静かに息を吐き、ダニエルを見た。
ダニエルもひとまず安堵したらしく、ルチアを見て軽くうなずいた。
「ルチア殿」
「はい!」
トリステアがルチアを呼び寄せた。
ルチアは颯爽とトリステアのそばに寄り添った。
「こちらの香水なんだけど……」
「はい……」
トリステアの質問に、ルチアは小気味よく答えていく。
トリステアの関心は、すでにオードックからルチアの持つ香料の知識の方に移り変わっている。
オードックは車椅子を動かして、ダニエルのそばに寄った。
「大丈夫ですか」
「ああ……ハンカチ、ありがとう」
「いえ」
ダニエルとルチアのハンカチは、もみくちゃになってオードックの手に握られている。
白い木綿のハンカチは、パッと見では、どちらがどちらのものか、分からない。
「洗って返すよ……二人とも、優しいな」
「恐縮です」
オードックはダニエルを見上げた。
ダニエルは、トリステアと話すルチアを眺めている。
「ダニエル」
「はい」
「その……ルチア殿は、いいお友達か?」
「はい。よいお友達です」
「……そうか」
オードックはトリステアとルチアの方を見た。
話は、花の香りの成分から、抽出方法の課題に移っている。
「ダニエル」
ダニエルはオードックに視線を向けた。
オードックは、まだ赤い鼻を軽く擦った。
表情には、元の精悍さが戻っている。
まだ涙の名残がある眼をダニエルに向けて、オードックは口を開いた。
「今日は本当にありがとう」
「どういたしまして」
「……私は、君たちに何があっても……君たちを応援する。
それだけは、覚えておいてくれ」
「……はい。ありがとうございます」
オードックは視線を正面に戻した。
ダニエルは、香水に含まれている成分について議論するルチアを、いつまでも眺めていた。
第六章:香水選抜 終




