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薫る国の公女  作者: よこうみ
第六章:香水選抜
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車椅子


 ルチアとダニエルは、オードックに着いて遊歩道に入った。

 ときおり歩みを止めて、こずえで鳴き交わす鳥の声を聴き比べたり、植物の名前をあてたりしながら、ゆったりとした速度で森の中を進む。


 宮殿を出る前、オードックは従者を呼んで車椅子を替えた。

 新しい車椅子の車輪は、溝が深く、突起が多く、やけにゴツゴツとしている。

 ルチアは森に入ってから、車輪が変わった理由に気づいた。

 整地されているとはいえ土と泥の道、ゴツゴツした形の車輪は、不安定な地面をしっかり掴むためのものだったのだろう。 


 オードックは、車椅子を自在に扱う。

 ダニエルにもルチアにも、オードックの車椅子を押す、という考えは浮かばなかった。

 車椅子を使っているのが老人であれば、二人とも、車椅子を押したり、手伝ったりすることを申し出たかもしれない。

 しかし、オードックは快活な若者そのもので、足で歩くように腕で車輪を回し、スタスタと前に進む。

 普段自分が二本足で歩いていることに思いを馳せないように、二人はオードックが車椅子を使っていることを忘れて、歩いた。


 三人は森の中を歩きながら、たびたび深呼吸をし、嗅覚を癒した。


「そろそろだ」


 オードックは顔を前に向けたまま、二人に話しかけた。


「川のほとりに東屋(あずまや)がある。そこで少し休んで、引き返そう」


「はい」


「はい」


 オードックの言った通り、しばらく行くと、川が見えた。

 広く穏やかな流れの川は、水が茶色く澄んでいて、川底の小石まで、はっきりと視認できる。

 その川底から浮かび上がるように、流れに逆らって留まる小さな魚影が、いくつか。


「釣りができますね」


 ダニエルが言うと、オードックは同意した。


(マス)釣りができるよ。もっと奥に行くと、怪物みたいな(ナマズ)がいる」


 湾曲した遊歩道をゆるやかに進み、川辺に近づいていく。

 と、突然、オードックが速度を落とした。


「オードック様?」


「東屋に、誰かいる」


「え……」


 オードックが、再び車輪を回し、進む。

 歩きながら、ルチアが目を凝らすと、木々の隙間から東屋らしきものが見えた。

 かつては白かったであろう石の東屋は、苔と黒ずみに侵され、すっかり森に馴染んでいる。

 そんな東屋の屋根の下に、こちらを見ている女が二人。

 一人は立ってこちらをまっすぐ見、もう一人は椅子に座って、こちらをうかがっている。


 ルチアは従者を一人も連れてきていないことを思い出したが、とにかくオードックに着いて行った。


 オードックは遊歩道を進みながら、声を張り上げた。


「トリステア姉上!」


 ルチアは今度こそ、はっきり二人の女を見た。

 一人は見覚えのない人物だが、もう一人は肖像画で、見たことがある。


 トリステア・ルイス・ジナルド・ザビウス=メールラントは、乗っている車椅子をゆっくり動かして、方向を変え、ルチアたち闖入者(ちんにゅうしゃ)らの顔を、正面から見はるかした。



   ***



 川のほとりの東屋で、姉と弟が並んで、川を見ている。

 その後ろには、一人の侍女が控え、横には少年と少女が立って、ひたすら、川の流れを眺めている。


 ルチアはトリステアをうかがった。


 トリステアは、メリニオス帝とミュリティス后の第一子で、四十歳の女性である。

 生来病弱で、公務に出ることはほとんどないが、皇帝の初子にして長女、すなわち〈大皇女〉であり、皇帝の子供たちの最年長者として、皇太子に次ぐ権威を持っている。


 身体のあちこちに慢性的な病を患っており、自立歩行が難しいため、オードックと同じく、車椅子を使って日常生活を送っている。

 トリステアの場合、オードックと異なり、自らの力だけで車椅子を動かすことは難しい。

 そのためトリステアの行くところには、いつでも、影のように侍女が控えている。


 トリステアはルチアの視線に気づくと、手元のノートを見せた。

 ノートにはびっしり記号が書かれている。


「これは……」


「森に出ると、いろいろと思いつくことがあります。

 数式のアイディアが一番多いわ」


 ルチアはまったく読み解けない数式を前にして、理解を放棄した。

 とりあえず、白い紙に黒い鉛筆で描き殴られた数字は、絵のようで美しい、とだけ思った。


「素晴らしい創作の記録ですね」


「ただの落書き」


 トリステアがノートを横に差し出すと、心得た侍女がノートを受け取り、鞄にしまった。


 トリステアが身じろぎすると、短く切った白髪混じりの栗色の髪が、車椅子の背もたれに触れた。

 ()めた青色の瞳が、ぼんやりと川のせせらぎに向けられる。


 トリステアの車椅子は、オードックのものとは違い、大きめのフレームに、しっかりとしたハンドルがついた、重厚な見た目のものである。

 ダニエルが車椅子の見た目を褒めると、トリステアは性能について語り始めた。

 噂に違わぬ博識ぶりで、機械についても詳しい。


 ルチアはひそかにオードックの方を見た。

 オードックはまったく話に乗ってこないが、そのくせときおり、トリステアの方をうかがっている。

 ルチアはオードックがトリステアと話したがっているようにも思え、どうにか話を繋げられないかと考えていた。


「……トリステア様」


「ん?」


「わたくしは、フロラントの南部シャマイリーにおいて香水職人の見習いをしております」


「そうらしいですわね。素晴らしいことと思います」


「トリステア様は、香水はおつけになりますか?」


「私?

 私は、香水は、あまりつけませんね。

 公の場所に出ることも少ないし、余計な香りは、実験の邪魔になりますから」


 なるほど、トリステアからは石鹸で洗い清めた皮膚と、陽光で暖められた木綿布のような、穏やかな匂いしかしない。


 ルチアはキュ……と唇を引き結んだ。


(オードック様……)


 見ると、オードックはルチアとトリステアを凝視している。


(まずい……)


「ト、トリステア様は、香料の香りはお嫌いですか……?」


「嫌いではありませんよ。

 私も化粧品くらいは使います。

 香料の合成にも興味があります」


「まあ……わたくしも、合成香料に興味があります」


「おお、やはり。合成香料は香料業界の目下の悩みの種でしょうね」


「左様でございますね。しかし、希望の種でもあります」


「というと?」


 ルチアはトリステアに、合成香料についての知見を語った。

 思わず話に熱が入るが、すぐにオードックとダニエルを置いていってしまったことに気づいて、話題を修正する。


「トリステア様は、おつけになるなら、どのような香りがよろしいと思いますか?」


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