車椅子
ルチアとダニエルは、オードックに着いて遊歩道に入った。
ときおり歩みを止めて、こずえで鳴き交わす鳥の声を聴き比べたり、植物の名前をあてたりしながら、ゆったりとした速度で森の中を進む。
宮殿を出る前、オードックは従者を呼んで車椅子を替えた。
新しい車椅子の車輪は、溝が深く、突起が多く、やけにゴツゴツとしている。
ルチアは森に入ってから、車輪が変わった理由に気づいた。
整地されているとはいえ土と泥の道、ゴツゴツした形の車輪は、不安定な地面をしっかり掴むためのものだったのだろう。
オードックは、車椅子を自在に扱う。
ダニエルにもルチアにも、オードックの車椅子を押す、という考えは浮かばなかった。
車椅子を使っているのが老人であれば、二人とも、車椅子を押したり、手伝ったりすることを申し出たかもしれない。
しかし、オードックは快活な若者そのもので、足で歩くように腕で車輪を回し、スタスタと前に進む。
普段自分が二本足で歩いていることに思いを馳せないように、二人はオードックが車椅子を使っていることを忘れて、歩いた。
三人は森の中を歩きながら、たびたび深呼吸をし、嗅覚を癒した。
「そろそろだ」
オードックは顔を前に向けたまま、二人に話しかけた。
「川のほとりに東屋がある。そこで少し休んで、引き返そう」
「はい」
「はい」
オードックの言った通り、しばらく行くと、川が見えた。
広く穏やかな流れの川は、水が茶色く澄んでいて、川底の小石まで、はっきりと視認できる。
その川底から浮かび上がるように、流れに逆らって留まる小さな魚影が、いくつか。
「釣りができますね」
ダニエルが言うと、オードックは同意した。
「鱒釣りができるよ。もっと奥に行くと、怪物みたいな鯰がいる」
湾曲した遊歩道をゆるやかに進み、川辺に近づいていく。
と、突然、オードックが速度を落とした。
「オードック様?」
「東屋に、誰かいる」
「え……」
オードックが、再び車輪を回し、進む。
歩きながら、ルチアが目を凝らすと、木々の隙間から東屋らしきものが見えた。
かつては白かったであろう石の東屋は、苔と黒ずみに侵され、すっかり森に馴染んでいる。
そんな東屋の屋根の下に、こちらを見ている女が二人。
一人は立ってこちらをまっすぐ見、もう一人は椅子に座って、こちらをうかがっている。
ルチアは従者を一人も連れてきていないことを思い出したが、とにかくオードックに着いて行った。
オードックは遊歩道を進みながら、声を張り上げた。
「トリステア姉上!」
ルチアは今度こそ、はっきり二人の女を見た。
一人は見覚えのない人物だが、もう一人は肖像画で、見たことがある。
トリステア・ルイス・ジナルド・ザビウス=メールラントは、乗っている車椅子をゆっくり動かして、方向を変え、ルチアたち闖入者らの顔を、正面から見はるかした。
***
川のほとりの東屋で、姉と弟が並んで、川を見ている。
その後ろには、一人の侍女が控え、横には少年と少女が立って、ひたすら、川の流れを眺めている。
ルチアはトリステアをうかがった。
トリステアは、メリニオス帝とミュリティス后の第一子で、四十歳の女性である。
生来病弱で、公務に出ることはほとんどないが、皇帝の初子にして長女、すなわち〈大皇女〉であり、皇帝の子供たちの最年長者として、皇太子に次ぐ権威を持っている。
身体のあちこちに慢性的な病を患っており、自立歩行が難しいため、オードックと同じく、車椅子を使って日常生活を送っている。
トリステアの場合、オードックと異なり、自らの力だけで車椅子を動かすことは難しい。
そのためトリステアの行くところには、いつでも、影のように侍女が控えている。
トリステアはルチアの視線に気づくと、手元のノートを見せた。
ノートにはびっしり記号が書かれている。
「これは……」
「森に出ると、いろいろと思いつくことがあります。
数式のアイディアが一番多いわ」
ルチアはまったく読み解けない数式を前にして、理解を放棄した。
とりあえず、白い紙に黒い鉛筆で描き殴られた数字は、絵のようで美しい、とだけ思った。
「素晴らしい創作の記録ですね」
「ただの落書き」
トリステアがノートを横に差し出すと、心得た侍女がノートを受け取り、鞄にしまった。
トリステアが身じろぎすると、短く切った白髪混じりの栗色の髪が、車椅子の背もたれに触れた。
褪めた青色の瞳が、ぼんやりと川のせせらぎに向けられる。
トリステアの車椅子は、オードックのものとは違い、大きめのフレームに、しっかりとしたハンドルがついた、重厚な見た目のものである。
ダニエルが車椅子の見た目を褒めると、トリステアは性能について語り始めた。
噂に違わぬ博識ぶりで、機械についても詳しい。
ルチアはひそかにオードックの方を見た。
オードックはまったく話に乗ってこないが、そのくせときおり、トリステアの方をうかがっている。
ルチアはオードックがトリステアと話したがっているようにも思え、どうにか話を繋げられないかと考えていた。
「……トリステア様」
「ん?」
「わたくしは、フロラントの南部シャマイリーにおいて香水職人の見習いをしております」
「そうらしいですわね。素晴らしいことと思います」
「トリステア様は、香水はおつけになりますか?」
「私?
私は、香水は、あまりつけませんね。
公の場所に出ることも少ないし、余計な香りは、実験の邪魔になりますから」
なるほど、トリステアからは石鹸で洗い清めた皮膚と、陽光で暖められた木綿布のような、穏やかな匂いしかしない。
ルチアはキュ……と唇を引き結んだ。
(オードック様……)
見ると、オードックはルチアとトリステアを凝視している。
(まずい……)
「ト、トリステア様は、香料の香りはお嫌いですか……?」
「嫌いではありませんよ。
私も化粧品くらいは使います。
香料の合成にも興味があります」
「まあ……わたくしも、合成香料に興味があります」
「おお、やはり。合成香料は香料業界の目下の悩みの種でしょうね」
「左様でございますね。しかし、希望の種でもあります」
「というと?」
ルチアはトリステアに、合成香料についての知見を語った。
思わず話に熱が入るが、すぐにオードックとダニエルを置いていってしまったことに気づいて、話題を修正する。
「トリステア様は、おつけになるなら、どのような香りがよろしいと思いますか?」




