才能のありか
「……よい香りだ」
「左様でございますね」
「森の奥の神殿みたいな香りだ。
精悍だが、堅すぎない。
うっすら白粉みたいな匂いもするが、嫌味じゃないし、むしろ、温かみがある」
「…………」
ルチアはオードックの顔を見つめた。
「……オードック様は、まことに、よいお鼻をお持ちですね」
「そうか? 香水職人にそう言われると、さすがに嬉しいな」
「ユリウス様も、よいお鼻をお持ちでした。それに、よい言葉も」
「言葉?」
オードックはルチアの顔を見返した。
つられて、ダニエルもルチアを見る。
「はい。
感じたものを言葉にする力……とでも言いましょうか。
丁寧に言葉を学び、使わなければ、培われない力です。
素晴らしい能力ですが、稀な力でもあります。
お二人はまことに優れた〈言葉〉をお持ちでいらっしゃる」
「……それは多分、私たちではなく、父母と教師の力だな。
私たちがだけでは得られなかったはずの力だ。
それは私たちだけの力ではないよ」
オードックは香水瓶のラベルを読み直した。
香水の名前は〈夜の太陽〉。
ベルミオンの中心地で作られながら、世界各地の香料を使って、多様な文化の匂いを内包し、一つにまとめあげた香り。
ルチアは〈夜の太陽〉を作った香水職人の名を知っている。
ルチアが生まれるはるか前に、モリグロフからベルミオンに亡命してきたという流浪の香水職人だ。
ベルミオン。
そしてレヴィナ。
古代から栄えてきたこの地域は、さまざまな理由から故郷を離れた人間たちが、自然と寄り集まってくる場所でもあった。
ゆえにベルミオンには数多の国や地域の文化が流入し、それらは混じり合いながら、人々の中に、歴史に、息づいている。
移民の歴史は、ベルミオンを語る上でなくてはならない一側面なのである。
北の果てのモリグロフからやってきて、ベルミオンのために香水を作り続ける老職人。
故郷を後にして、彼は香水に、その名前に、何を託してきたのだろう。
香りという、言葉を超えたものを、言葉に還元する力。
守られ、育てられ、熟成されて、初めて発現する力。
それはときとして、思いもよらぬ威力を発揮する。
「……子供のそれを発掘し、育てたのは周りの大人たちだ。私たちが自らの手で掴んだものなど、わずかでしかないのかもしれない」
「……そうだとしても、やはり、それらはお二人だけのものです」
オードックはルチアを見上げた。
うながすように、黙って顔を見つめる。
ルチアは慎重に言葉を選び、口に出した。
「……それを育てたのが周りの人間だとしても、能力はただ一人の人間のものである、と私は思います。
能力が身体に帰属するものである以上、そしてその身体がただ一人の人間のものである以上、能力はただ一人の人間のものでしかあり得ません」
オードックは視線を落とし、香水瓶を手でもてあそんだ。
「……君は、トリステア姉上のようなことを言うのだな」
「え……」
オードックは笑った。
その目は窓の外の世界を、どこか遠い世界のどこかを見ている。
「トリステア姉上も、身体と所有について話していたよ。
身体を動かす力はどこから来るのか。
その力は本当に自分の力か。
他人に指示されて動いたとして、それは本当の意味で自分の行いだといえるのか。
初めて聞いたときは、子供すぎて、何を言っているのか分からなかった。
だけど、今なら、分かる気がする。
姉上が、何を言って、何を言わなかったのかも……」
オードックは作業台に香水瓶を置いた。
「これも候補に入れよう」
「はい」
「今度はもっと、こう……優しい香りを選んでみてほしい。疲れたときに、ホッと一息つけるような」
「かしこまりました」
ルチアは香水の森に分け入りながら、師匠の言葉を思い出した。
──君の鼻は君だけのものだ。
──君の言葉も君だけのものだ。
──しかし、君の力は君だけのものではない。
(私の力は、私だけのものじゃない……)
それはオードックが言ったように、自分以外の人間によって育まれた、単独では養えなかった力ということだろうか。
それとも、自分という存在を超えた、大きな何ものかの存在をほのめかしているのだろうか。
師の言葉は、ルチアの考えとは異なるが、それゆえに、考える余地がある。
師の言葉の、明確な意図は分からない。
ルチアが答えを聞く前に、師は旅立ってしまったからだ。
師は香りの知識とともに、言葉を残していった。
そのほとんどは、ルチアの理解を拒み、謎のままで、わだかまっている。
ルチアは香水の森を歩いた。
あらゆる香りが閉じ込められた数多の瓶の森。
香水が、謎のように、静かにルチアを取り巻いている。
(……『まだできないことをやる。そうすることでしか、成長はない』)
ルチアは紫色のラベルが貼られた瓶を手に取った。
師がベルミオンの会社に勤めていたころ、作った香水だ。
瓶の蓋を開け、香りを嗅ぐと、馴染みのある香りがした。
レシピをもとに、今でも同じ処方で製造が続けられているのだろう。
スミレの匂いを模し、スミレの葉とアイリスの根を中心にさまざまな香料を組み合わせて作った香水は、スミレの花束のように、小ぢんまりとして可憐な香りである。
オードックのいう「優しい」「一息つける」香りに相当するだろう。
ルチアはこれも候補に入れることにした。
それからいくつかの香水を見繕って、オードックのいる作業台にとって返す。
作業台に瓶を並べ、オードックに香りを試してもらう。
それを何回か繰り返した。
そうして、皆の嗅覚が疲れてきたころ、オードックの提言で、庭を散歩することになった。
***
ルチアとダニエルはオードックの案内で、庭と呼ばれている広大な敷地の一角、〈西の森〉に向かった。
ブナやオークなどの広葉樹が群生する深い森の中に、綺麗に整えられた遊歩道がのびている。
ルチアは感心して、オードックに言った。
「さすがはカノラ宮ですね!」
「ははは、そうだろう。広いのが取り柄なんだ」
「こんなに宮殿の近くに自然林を残してあるなんて」
「え?
いや、これは自然林とは違うよ。
人工的に作った森さ」
「……え?」
ルチアは空を見上げた。
青空が見えないほど密集した葉叢。
鳥の鳴く声と、梢枝のざわめき。
水の音がするのは、どこかに川が流れているからである。
下を見れば、陽の差し込まない巨木の根元を、緑の苔が覆い尽くし、湿った土のあちこちには、いく種類もの茸が生えている。
引き返すことはできても、抜けることができるとは、到底思えない、年古りた森。
ルチアが「人工的」と聴いて思い浮かべる規模を、はるかに超えているが、オードックが言うからには、そうなのだろう。
「……さすがはカノラ宮ですね」
「はは……そうそう、遊歩道から外れると遭難するらしいから、それだけは気をつけてくれ」
「はい……」




