皇帝の晩餐会
いよいよ季節が秋から冬に移り変わろうというころに、ルチアはマルセル城を発った。
四頭立ての馬車で山を越え谷を越え、国境の関所を越え、あとはまっすぐレヴィナを目指す。
キャシディに持たせたトランクには、アルチルド修道院製の香水が数種類、ルチアが製作した香水が一種類、入っている。
ルチアはシュカから帰った直後、持ち帰ったマビスを使い、冬用の香水を試作していた。
サフラン、クミン、クローブなどのスパイスに、ジャスミン、ラブダナム、マビスを合わせた、濃厚で、温かな香りである。
シュカの夜宴の記憶をモチーフに作り上げた最新の香水の出来には、少なからず自信を持っている。
オードック皇子に気に入ってもらえるかは分からないけれど、とにかく新作として提出してみよう。
ルチアは勇気を出してトランクに香水瓶を詰めた。
(気に入ってもらえなかったら、持って帰ればいいだけだ)
ルチアは馬車の中で、荷台に置いたトランクの中身を思った。
中には隙間なく綿を詰め込んであるから、瓶が割れることはないと思うが、それでも心配なものは心配である。
「カノラ宮に着くまで何もありませんように……」
目を閉じて祈る。
目を開くと、正面に座ったメノワがこちらを見ていた。
「荷物はブリッジが見張っておりますゆえ、ご安心なされませ」
しとやかにそう言うメノワに、ルチアは心の中で安堵した。
メノワはいつでもメノワのままだ。
メノワの変わらなさは、ともすれば慌てがちなルチアをなだめ、落ち着かせてくれる。
「メノワはいつでもメノワだね……」
「? わたくしの名前は未来永劫変わらぬものと存じます」
四頭立ての馬車が滑らかに国道を走る。
いくつかの森と村を抜け、街を抜け、馬と身体を休ませ、また街を抜け、そうして移り変わる景色を眺めたり、本を読んだり眠ったりしているうちに、ルチアたち一行はレヴィナに着いた。
マルセル城を発ったのは早朝だったが、カノラ宮を囲む森が見えるころには、日が暮れかけていた。
沈む夕陽を背に、その輪郭を際立たせている黒い森。
その奥に、カノラ宮は存在する。
森の中、宮殿の周りに使用人たちが住む家々が点在しており、そのさまはマルセル城と城下町の関係にも似ているが、規模が違う。
森はそのほとんどが原生林であり、その中に整地された一つの村がある。
村の家々には宮殿に勤める使用人たちとその家族が住んでおり、義務教育や職業訓練を施すための学校施設、村への来客を泊める宿泊施設さえ存在する。
宮殿の運営は、それほどの人員を必要とするのだ。
森の入り口には常に開かれた正門がある。
建国神話をモチーフに彫刻がなされた、石造りの巨大な門。
その内側に足を踏み入れれば、そこはもう宮殿の敷地内である。
村一つを内包する森、皇帝の寝所、帝国の象徴、芸術品、都会にただ一つの野生動物たちの安息の地。
カノラ宮は、さまざまな側面を持ちながら、どこにも動くことなく、ただそこに存在し続けている、この世にただ一つの存在なのである。
ルチアがレヴィナの街の光と夕日の色に見惚れているとき、ゆっくりと馬車の隣に近づいてくる馬があった。
騎手はマントを羽織っており、そこに大きくザビウス=メールラントの紋章が印されている。
「帝室の使者でございますね」
メノワは窓の外を見て言った。
ルチアはうなずき、再び窓の外に目をやる。
使者が、車内のルチアに向かって敬礼したのが見えた。
使者は、御者に近づいて何事かを話したあと、ルチアたちが乗った馬車を先導するために、前に出た。
先導する使者がいなければ、カノラ宮に入ることはできない。
馬車は速度をゆるめず、そのまま正門に入った。
街の明かりの気配が消え、暗い森の中に、松明で照らされた馬車道だけが浮かぶ。
森の向こうに太陽が沈む。
宮殿に夜が訪れた。
***
ルチアたちは二日ほどカノラ宮に滞在することが決まっている。
カノラ宮に着くと、家令たちによる出迎えの挨拶もそこそこに、宮殿の一角の、あてがわれた来賓用の部屋に入った。
部屋といっても棟の一階分のスペースを総合して部屋と呼んでいるのであり、浴室や化粧室、食堂に広間、召使いの寝泊まりする部屋までが、「部屋」に含まれている。
厨房がないこと以外は、普通の屋敷の機能をほとんど揃えているといっても過言ではない。
おそるおそる主寝室に入ると、天井から壁まで、白を基調とした漆喰の装飾と、色鮮やかなフラスコ画の装飾に満ちていた。
白い部屋の壁には、神話の一場面を描いた古いタペストリーの壁掛け、アキツハラ製と思われる漆塗りの屏風、暖炉の上には帝国各地から取り寄せたのであろう陶磁器や絵画。
家具一つを取ってみても、やたらと絢爛で、派手なのだが、そのわりに、部屋の印象はとっ散らかっておらず、まとまっている。
まるで、部屋それ自体がひとつの細工品のようなのである。
ルチアは眩いばかりの室内に圧倒され、こんなところで一晩ちゃんと眠れるかしら……などと考えたが、「もっとひなびた部屋にしてください」などと申し出るわけにもいかない。
レヴィナに来るまでの道のりでかなり疲れたが、まだ気を抜いていいときではない。
ルチアは皇帝一家の晩餐の席に呼ばれているので、急いで旅着から晩餐用のドレスに着替え、身支度を整えた。
散々迷ったあげくに、黒い毛皮をあしらった深緑色のドレスを着た。
ルチアの持っているドレスの中では、初拝謁に着たドレスの次に高価なドレスである。
ルチアは鏡の中で緊張している自分を見ながら、気を引き締めた。
ユリウスのときとは違い、ここは故郷から遠く離れた宮殿である。
呼ばれて来た客の身であるといえ、無礼な真似は絶対に許されない。
「香水はいかがいたしましょう」
仕上げの段階に入って、メノワがきいた。
ルチアは化粧箱の中の小さな香水瓶を眺めて考えた。
「お食事だから、軽いものにしようと思う」
「では、ネロリはいかがでしょう」
「そうする」
手首の内側と耳の裏に香水を擦り込むと、オレンジの花の、明るい、爽やかな匂いが立つ。
やはり香水をつけると身が引き締まる。
これから人と会うのだという実感が湧き、良い意味で、緊張が始まる。
鏡とメノワの前に立って不備がないか確認し、ルチアは身支度を終えた。
さあ部屋を出ようと思ったちょうどそのとき、出入り口の扉をノックする音が響いた。
いくつかの部屋を抜けてメノワが扉を開くと、そこには出迎えてくれた執事の男がいた。
「ルチア様のご準備が整い次第、ご案内させていただきとうございます」
メノワの伝言に、ルチアがうなずく。
ここからはメノワも誰もついてこない。
晩餐には、ひとりで向かわなくてはならない。
「分かりました。今、出ます」
頭を下げて見送るメノワを後にし、ルチアは部屋を出た。
燭台を手に持った執事に導かれ、晩餐の間に向かって長い廊下を歩く。
ルチアは晩餐の間の手前の部屋、控えの間に通された。
蝋燭の炎で煌々と照らされた部屋の中に、老若男女の人々が寄り集まっている。
その顔ぶれを見た瞬間、ルチアの背筋に緊張が走った。




