モニク
ルチアは息を呑んだ。
驚いたことに、影はまったく音を立てずに、スルスルと横滑りに移動している。
影は、建物の陰、柱の陰を伝って、少しずつ、こちらへ近づいてくる。
近づくにつれ、だんだんと、影がその立体としての姿を現してきた。
清らかな木綿の裾がひるがえる。
風に揺れる髪、大きな眼、すんなりとした手脚。
影は、少女の形をしていた。
「モニク」
サマルが静かな声で名前を呼んだ。
「モニク、もっと明るいところに出てこい」
ふ、と影が笑った。
少女らしい、濁りのない声。
「──ほら、」
気だるげに、つぶやくように言って、影は陰から飛び出した。
少女が、音もなく飛び上がって、音もなく着地する。
月の下に躍り出た少女の、薄紫の袖が踊る。
「驚かせようと思ったのに」
モニクと呼ばれた少女は、サマルとルチアの前に立った。
建物の陰から外れた彼女の顔を、月の明かりが煌々と照らし出す。
濃褐色の肌に、大きな眼。
この国に来てから、ルチアは驚くほど多くの黒い瞳を見てきた。
シュカの民は、そのほとんどが褐色の肌に黒い瞳を持っている。
どこへ行っても見つめられるのは、この国でのルチアの身分をかんがみれば当然のことであり、したがって、すぐ慣れもした。
しかし、今ここでルチアを見ているこの二つの瞳は、光を吸い込んでいるのかと思うほど、黒く、暗い。
細かくねじれて肩のあたりまで伸びた髪が、少女の顔のまわりで、ふわふわと風になびいている。
その髪の隙間からこちらを見ている黒い眼差しに射抜かれて、ルチアの身体はその場に縫いつけられた。
モニク、と呼ばれた少女は、一歩、前に出た。
つま先を揃え、ずらし、微笑みもせずに、ルチアにひざまづく。
「モニクと申します」
頭を下げ、再び上げる。
「薫り高きフロラントの、公女殿下にお会いできて、まことに嬉しゅうございます」
ルチアが夢うつつに手を差し出すと、モニクは手の甲に軽くキスを落とした。
風に髪が揺れ、スパイスとピーチが混じったような、甘く、辛い匂いがした。
ルチアは口を開こうとした。
途端、再び、固まる。
気がつくと、ルチアの頬の横に、モニクの頬があった。
温かい。
めんくらうほど、モニクの香りが強まる。
そうして髪先が触れ合うほど頬を近づけたまま、モニクがつぶやいた。
「すてきな髪だわ」
す、とモニクが身を引いた。
ルチアの視界に、再びモニクの顔が映り込む。
「それに、よい香りだこと」
モニクはルチアの目を見たまま、誰に言うでもなく、言葉をこぼした。
ミルラの香のように冷んやりとして、それでいて耳によく馴染む声。
「あ……」
釣られるように、ルチアの喉から音が漏れた。
どことなくサマルと似ている、モニクの端正な顔。
まるで、人間を模した精巧な人形のようだ……という、倒錯した感想がルチアの脳裏をよぎった。
昼に見たサマルの冷たいまなざしと、今自分に注がれているモニクの、暗いまなざしが重なって、揺れる。
「馬鹿な真似はよせよ、モニク」
サマルの声に、ルチアは我に帰った。
即座に立ち上がり、腰を折って挨拶をする。
「る、ルチア・イル・フロラントと申します!
ご挨拶いただき……いえ、まったく失礼な体勢でご挨拶をいただいてしまい、申し訳ありません!」
モニクはすっくと姿勢を直した。
初印象より背丈が低く、靴のヒールのことを鑑みても、ルチアの背と同じくらいしかない。
「こちらこそ、驚かせてしまい、申し訳ありません……わたくしの、悪いクセが出てしまいました」
「分かってんなら直せよ、モニク」
「お前にはそんな口をきかれたくないね、サマル」
サマルとモニクは荒っぽい言葉の応酬でルチアを驚かせた。
親戚というより、姉弟くらいの距離の近さである。
モニクは腕を組んでサマルを睥睨した。
「気づかれずに、後ろに立つ自信があったんだけど」
「何年やってんだそれ。もうボクには効かないよ」
「ふむ……」
モニクはルチアの方を見た。
「殿下にもお分かりでしたか」
「いえ……わたくしには全然……」
「ではこちらの方は、殿下がお呼びになったわけではないのですね」
「え?」
ルチアは、モニクが腰に逆の手を当てていることに気づいた。
その手に掴まれているのが、サーベルの柄だと認識して。
その瞬間、背中が粟立つ感覚に襲われた。
「…………」
言葉が出ない。
息をするのさえはばかられる。
何?
「うわ! あーもー……」
ルチアの緊張と裏腹に、サマルは緊張感のない声でモニクを非難した。
「お前が変な登場の仕方するから!」
「ごめん」
「謝るならルチア殿とこの人に謝ってよ!」
この人?
ルチアはふとモニクの後ろに焦点を合わせた。
二つ目の影。
少女の姿。
(ちがう)
「──メノワ」
そこには、両腕を背中に回したメノワがいた。
たしかにそこにいるのに、そこにいないかのような、不気味な静けさをまとって、立っている。
「殿下がこんなに近くにいて、一騎討ちは無理だよ、あなた」
モニクは歌うように言った。
ニコリともしない顔との落差がすさまじい、楽しげな声である。
ルチアはメノワの目を見てゾッとした。
メノワは据わり切った目でモニクを見ている。
それと同時に、ルチアの鼻腔は、嗅いだことのない奇妙な匂いを感じ取った。
人間の体臭であることは間違いない。
しかし、そこには人間の温かみや安心感などはなく、異様な雰囲気と緊迫感だけがある。
(これは、殺気だ)
ルチアは指一本も動かせないまま、視線だけをさまよわせて、メノワとモニクを交互に見た。
サマルはルチアの側、モニクとの間に身体を捩じ込むようにして立った。
「モニク、刀から手を離せ、バカ」
「刀……」
ルチアはモニクの手元を見た。
ベルトなどで刀をさげず、鞘を手に掴んで腰の位置に備えている。
モニクは柄から手を離した。
鞘に巻いた綾紐だけを掴んでぶら下げた刀を、見せつけるように、ゆっくりと噴水の縁に立てかける。
モニクが指を離すと、刀身を納めた鞘が、石造りの縁に当たって、ゴト、と音を立てた。
ルチアがメノワを見ると、メノワは背中から両手を出し、掲げた。
その両手には、何もない。
空である。
ルチアとサマルは、ようやっと息をついた。
「……ふざけすぎだぞ、モニク!」
「ごめんなさい」
モニクは申し訳ない顔をするでもなく、ルチアに頭を下げた。
「お、お顔をお上げください、モニク様……」
「怒ってない?」
「怒ってなどおりませぬ」
「ありがと」
モニクは頭を上げた。
仏頂面だが、声が明るいので、見ていると不思議な気持ちになる。
「メノワは……」
「は……お二人だけでお庭に出るのはいささか危険かと思いましたのですが、お話を邪魔するのもしのびなく、隠れておりました」
「それで不審者を見て出てきたわけだ……モニク、再三言うけど、お前が悪いよ」
「二人きりで庭に出るのもどうかと思う」
サマルとモニクは睨み合った。
しかし、モニクはすぐに目を逸らし、会場に目を向けた。
「みんな来てる?」
「来てるよ。おまえが最後」
「ダンスしてるの?」
「そうだよ」
モニクはくるりと振り返ってルチアを見た。
「ルチア殿、私と踊っていただけませんか」
「はあ⁉︎」
抗議の声を上げたのはサマルである。
「なんで来たばっかのお前がルチア殿と踊るんだ、大人しく挨拶してこいよ!」
「嫉妬は醜いゾ、少年」
「お前のふざけ方全部ムカつくんだよ」
サマルとモニクは掴みかからんばかりの近さでヒソヒソと罵り合った。
息がかかる距離で投げつけ、投げ返される罵詈雑言……というにはいささかおとなしい文句の応酬。
ルチアは小声で囁かれる「おまえ……」「バカ……」「愚か者……」などの罵声に恐れをなしたが、表情豊かなサマルを見られて、嬉しくもあった。
「じゃあ、挨拶してくるから……後で踊りましょ、ルチア殿」
「はい! お待ちしております!」
モニクは音もなく歩いて会場に入っていく。
薄紫のドレスの裾が、靄のようにひらめき、人々の色の中に混じっていった。
ルチアとサマルはモニクを見送った後、座るでもなく、手持ち無沙汰に立っていた。
中庭に風が吹き込み、二人の首をくすぐる。
メノワが再び気配を消したため、再び中庭に二人だけのような感覚になる。
「…………」
「…………」
「……なんか、ゴメン」
「ええっ」
サマルはルチアに頭を下げた。
ルチアは驚いてサマルを制した。
「なぜ謝るのですか⁉︎」
「本当に今日は……困らせっぱなしで……」
「困ってなど……!
いえ、少しは困りましたけど……!
……でも、でも、……いえ、やっぱり、困っておりません!」
「困ってるじゃん! その否定の仕方はかなり困ってるじゃん!」
「困ってません‼︎」
「……困ってるじゃん、」
サマルは唐突にしゃがみ込んだ。
ルチアの足元にうずくまり、うなだれる。
「…………」
「サっ、サマル様……?」
ルチアはサマルの気分が悪くなったのかと、隣に膝をついて様子をうかがった。
「……キミの前では、カッコつけたかったたんだけど」
ルチアからは、月明かりに照らされ、あらわになった襟首しか見えない。
「全然、カッコつかなかった……ボク、今日は空回りしっぱなしで、……こんな日にルチア殿下をお呼びしたのが、本当に申し訳ない……」
「サマル様……」
ルチアは身をかがめて、サマルの顔をのぞいた。
サマルは顔をかすかに歪めて、ルチアを見上げた。
「……のぞかないでもらえる?」
「サマル様、私、今日は本当に楽しいです」
「そういう慰めは……」
「慰めなんかじゃありません。
私、慰めるの下手なんです」
いつになく強く言い切るルチアに、サマルは顔を上げた。
ルチアはまっすぐサマルの目を見て、言った。
「ホテルまで美しい馬車で迎えていただいて、緑柱宮まで連れてきていただいて、素晴らしい植物園で、植物の話をしていただいて、皇帝陛下に謁見まで……もう胸がいっぱいになったと思ったら、まだ夜宴まであるなんて!
今日一日で、私はこれ以上ないほど喜びましたし、楽しみました。
連れてきていただいてとても嬉しかったし、踊っていただけてとても楽しかった。
フロラントに戻ってから、同じ喜びがあるとは思えません。
今日の日は特別な一日です。
忘れられない、素晴らしい一日です。
サマル様、なにもかも、あなたのおかげです」
「…………」
サマルは呆然とした面持ちでルチアを見た。
ルチアは確信を持った表情でサマルを見据えている。
「サマル様、この素晴らしい一日はまだ終わっておりません。
夜はまだ明けておりません」
ルチアはサマルの手を掴んだ。
「ワ⁉︎」
「サマル様が失敗したと思っていても、失敗していないと思い知らせてさしあげます!」
「ええ⁉︎」
「踊りましょう!」
ルチアはサマルの手を掴んだまま、引っ張り上げた。
サマルはよたつきながら立ち上がった。
ルチアに手を引かれるまま、歩く。
ルチアはズンズンと会場へと進んでいく。
「……ハハッ」
サマルは笑った。
洒脱でもない、大人っぽくもない、力の抜けた笑顔。
しかし、それでも、楽しくて、笑う。
中庭を力強く歩きながら、ルチアはサマルの方を振り返った。
サマルが笑っているのを見て、目を見開き、負けずに笑い返す。
洒脱でもない、大人っぽくもない、力強い、子供の笑顔。
サマルは、宴の明かりがルチアの赤い髪を縁取り、金色に輝いたのを見た。
第四章:緑柱宮 終




