夜宴
皇帝陛下のご降臨という、不測の事態に緊張が極まった緑柱宮だったが、キプサが離宮を離れたことが確認されると、一気に場の空気はゆるまった。
研究室の職員は額の汗を拭き、従者は主人の心労をおもんばかって新しい飲み物を差し出す。
不測の事態にもっとも動じていなかったのは緑柱宮つきの召使たちで、皇帝が訪れたときも去った後も、顔色を変えず黙々と仕事をこなしていた。
帝都イングマレ一帯に青い闇がしのびよる頃、緑柱宮にも明かりがともる。
照明の光に満たされた離宮は、港からも明るく光って見えるという。
舞踏会が催せるほどの広い会場には、絹の絨毯が敷き詰められ、いたるところにクッションが置かれて、座ってくつろげるようになっている。
中庭からの涼しい風が吹く中、楽団がきらびやかな音楽を奏でると、噴水の音や小鳥の声と相まって、会場は幻想的な音の流れに満たされる。
毛足の長い絨毯の上を素足で歩いたことのないルチアは、足の裏に触れる絨毯の感触におっかなびっくりしながら、一歩一歩を確かめるようにして、歩いた。
「歩くの難しい? 絨毯からげようか?」
「だ、大丈夫です……!」
サマルは絨毯慣れしていないルチアの様子に驚き、なかば面白がって、歩きはじめた赤ん坊を見守る人のように、ルチアを見守りながらゆっくり隣を歩く。
ふとルチアが後ろを振り向くと、キャシディ以外の護衛は平然と絨毯の上を歩いている。
ルチアは己の経験の浅いことを痛感した。
絨毯はマルセル城にもあるのに、裸足で歩いたことがないとは、なんたる宝の持ち腐れ……。
そうしてルチアがよちよち歩きをしている間にも、次々と招待客が来場する。
シュカの若い貴族や商家の顔役などが次々と訪れ、サマルとルチアに挨拶する。
ルチアは領地で香料栽培を営んでいる貴族や、香辛料を卸している商人らと話をすることができた。
フロラントでは手に入らない珍しい香料や、考えもつかなかった保存方法について、ルチアは短時間に次々と新しい知見を得た。
会場はどんどん、にぎやかになる。
そうこうしてるうちに、ギルバートが兵学校の連れ合いとともに会場に現れたので、ルチアたちはそちらに向かった。
「やあ、ギルバート」
「サマル様」
「元気でやってるかい」
「お陰様で、健勝そのものです」
「ギルバートお兄さま」
「よう、ルチア……調子は?」
「上々です」
「よし」
ギルバートは満足げにうなずいた。
ルチアはギルバートに昼間のことを話して聴かせるつもりだったが、ギルバートは挨拶するや否やご令嬢がたの集まりと合流してしまったので、話すタイミングを失ってしまった。
ルチアは呆れ返って、文句も言う気にもならない。
わたりをつける、という話はなんだったのか。
「お兄さまったら……!」
「ルチア殿を信頼してるんだよ」
慰めるようにサマルが言った。
「自分一人の力で十分やっていける子だって」
「そうでしょうか……」
温められた料理から複雑な香辛料の香りがただよってくる中、ふと、会場の空気が変わったのをルチアは感じた。
それは皇帝の降臨にも似た空気の変化だが、それよりももっと、はしゃぐような感がある。
出入り口を見ると、シュカの衣装を着た、背の高い女性がこちらを見ていた。
サマルとルチアらと目が合った瞬間、パッと花が咲くように微笑む。
大柄で、均整の取れた身体つき。
優雅な動作。
サマルとよく似たチョコレート色の肌に、対照的なまでに白い歯がキラキラと光っている。
ルチアは、この国を美人の多い国だと思っていた。
が、その中でも飛び抜けて、美しい女性である。
瞬く黒い瞳に射すくめられて、ルチアは一瞬、挨拶のことを忘れた。
サマルはルチアと美女の間を取り持つように立って、ルチアに言った。
「ルチア殿、紹介するよ。
こちら、ボクの姉のムアキ。
ムアキ、こちらはフロラントのルチア公女殿下」
「初めてお目にかかります、殿下。
わたくしはムアキ・マクンブ・ナダ・ヌアバと申します。
お会いできて、光栄でございます」
鈴を転がすような声。
心なしか、差し出された手の爪の先まで美しく見える。
ルチアはハッとして、思わず姿勢を整えた。
「初めてお目にかかります……!
ルチア・イル・フロラントと申します……!
こちらこそ、お会いできて光栄に存じます……!」
ルチアはシュカの伝統にのっとってムアキの手に額をつけた。
顔を上げて、こちらからも手を差し出す。
ムアキはルチアの手に額をつけた。
ムアキの髪は頭の後ろで大きく束ねられており、歩くたびに垂らされた髪の先が揺れて、香りを放つようになっている。
ルチアはムアキから立ち昇る、ラブダナムの甘い蜜のような匂いに引き込まれた。
最上級のラブダナムの香料は強く香っても胸が悪くなることがない。
ムアキはそれに併せて、乳香や沈香などの薫香の香りを上手く組み合わせ、夜宴にふさわしい、豊かな香りを身にまとっている。
ルチアはムアキの、髪に香りを含ませる技巧にも、香りの組み合わせにも、感銘を受けた。
知性に裏打ちされた美しさは、皇女の称号それ以上に、彼女を神々しく見せている。
「ルチア様、大温室は楽しまれましたか?」
「は、はい……サマル様に案内をしてもらい、とても勉強になりました」
ムアキはニコニコしながらルチアに話しかけた。
客の対応に慣れた感じはとても大人っぽい。
ルチアはサマルに似たものをムアキに感じた。
ルチアがサマルにチラと目をやると、サマルは無感動な目でムアキを眺めている。
実姉だからこの反応は当然なのだが、ルチアは「ここまで関心のない目でこの美しさを直視できるのか……」という驚きでサマルを尊敬した。
サマルはサマルで、美しい姉に注目が集まる瞬間という、あまりにも無為な時間に飽き飽きしていた。
生まれてこの方、この時間に何をしていいのか分からない。
姉に注目が集まっている間なら逆立ちしても気づかれないんじゃないかと思っているが、さすがに実行したことはない。
姉を見るよりかはルチアを見ていたいが、そのルチアがチラチラこちらを見るので、なかなか視線を向けられない。
サマルがやきもきしている間に、再び出入り口が騒がしくなった。
出入り口の幕の向こうから、二人の背の高い男が入ってくる。
その男たちに向かって客人たちが一斉に頭を下げるのを見て、ルチアは男たちが事前に聞いていた「一番偉い客」だと理解した。
男たちはサマルとルチアの方にまっすぐ向かってきた。




