香水工場
ルチアは話がどこへ向かおうとしているのか、ようやく察することができた。
皇帝がルチアから聞き出したいこと。
香水の作り方ではなく、香水を作る環境の作り方。
「マビス生産が科学者の手に委ねられれば、その分職を失う者も出てくる。
マビスを作りたければ科学者になれとは無理な話だが、マビスを諦め農民になれという話であれば、受け入れられるかもしれない。
マビス採取はもともと半農半猟の民の伝統であるからな。
……まあ、無理のある話だが、無理を通さねばならぬときもある」
キプサは再び紅茶に大量の砂糖を入れた。
ルチアが一日に口にする砂糖の量をゆうに超える量の砂糖が、ジャリジャリと音を立て紅茶に溶けていく。
「朕は香水工場を作りたい」
ルチアはゆっくりと瞬き、確かめるようにキプサの顔を見た。
相も変わらず、優美な、愉しげな竜顔がそこにある。
ルチアは気づかなかったが、このとき、サマルもキプサの顔を見ていた。
その目に、先ほどの冷たい平静さはない。
サマルは、初めて好奇心を持って皇帝を見ていた。
「香水工場に優れた香水職人を誘致し、地元で生産した原材料を使って、香水を製造する。
先にも言ったように、香水の本来の香りは生産地でしか味わえない。
この地で作った香水はこの地の人間の肌に馴染むだろう。
また、その新奇な香りは、外国の人間の鼻を驚かし、楽しませるだろう。
天然香料──本物のマビス香料を使った香水を、この地で生産するものに限るということも、可能ではないかと思う」
キプサはそこまで言ってから、ルチアとサマルを見た。
相変わらずの微笑。
しかし、今の言葉は決して戯れではないと感じさせる、強い眼差し。
「朕は香水職人が欲しい」
キラキラと光る琥珀色の瞳。
二人の子供は、虎に睨まれたかのように、動けない。
「欲しいのは、マビスを使うに足りる職人だ。
本物のマビスを、本物の、最高の工芸品たる香水に仕上げる。
それができる香水職人が欲しい」
キプサは背もたれに背を預け、紅茶を飲んだ。
「ルチア殿」
「は……」
「朕は、シュカに行ってもよい、という香水職人がおれば、是非とも招待したい、と思っている。
無論、そなたも含めてな」
「……皇帝陛下のお申し出、まことに光栄でございます。
しかしながら、わたくしはいまだ修行中の身……シュカでそのような重大なお役目を果たすことは、できかねぬものと存じます」
ルチアの言葉に、キプサは優雅に笑って応えた。
「かまわぬ、かまわぬ……そなたが修行中であることは知っているし、なにより、そなたはまだ若い。
別の職業や学問に興味が出ることもあるだろう。
無理には誘わんよ。
だが、香水職人が欲しいというのは本当だ。
もしやる気であれば、いつでシュカに呼び寄せる所存だと、皇帝が申しておった……と、そなたの国の香水職人らに知らせてもらえれば、それでよい」
「は……周知させます」
「ありがとう」
ルチアの口は、カラカラに乾いていた。
しかし、茶を飲むという考えは浮かばなかった。
ただ、何かの峠は越えた、という感覚だけがあった。
シュカの皇帝の御心は、メッセージは、確かに受け止めた。
キプサは一口紅茶を飲んでから、思い出したように、今度はサマルに向き直った。
「サマルはどうだ? 学業の方は」
「順調です」
「ムアキはどうだ」
「お陰さまで、息災でございます」
「結婚の祝いの品を贈らなくてはな」
「痛み入ります」
ルチアはサマルの淡々とした対応に驚いた。
感情を抑えた受け答えは、サマルを本物の人形のように見せる。
サマルたちシュカ皇族の、皇帝への臣従の態度には尋常ならざるものがある。
それは、ともすれば硬直した恐怖の感情に似ている、従順一辺倒の態度である。
ルチアは今さらながらに、この気さくな皇帝の畏れ多さというものに思い至った。
この恐ろしさこそが畏敬の念を起こさせる力であり、皇帝の威信そのものなのだ。
「……皇帝陛下」
ルチアは思い切ってキプサに声をかけた。
「なにか」
「実は、わたくしども、陛下に贈り物を用意しております。
フロラントにてあつらえました香水と石鹸です。
今ここにはありませんが、のちに皇宮へ献上いたしますつもりでございます」
「おお、それは嬉しい!」
キプサはパン! と鋭い音を立てて手を叩き、隣に立つ男を間近に呼び寄せた。
男が背をかがめ、皇帝に顔を寄せる。
キプサは低い声で、ささやくように命令した。
「受け取ったら、すぐにこちらに回すように」
「は」
ルチアは皇帝の隣に立つ男が、シュカにもベルミオンにも滅多にない顔立ちであることに気づいた。
男のかんばせは、あえて言うなら、ルチアがはるか昔に見たアキツハラの傭兵たちと似ていた。
黒くツヤのある髪の毛を一分の隙もなく撫でつけた、文官のような出立ちの男は、鋭い目つきでチラリとルチアを見た。
頬骨の目立つ痩せた顔に、薄い眉。
過分に鋭い目つきのせいで、子供が見たら震え上がるような強面である。
「フロラント謹製の香水と石鹸、謹んで拝受します」
そう言って頭を下げようとするキプサをルチアは慌てて制した。
「よ、喜んでいただけるのなら、わたくしどもは幸いでございます!
どうかお顔をお上げください!」
キプサは頭を上げて破顔した。
ルチアも釣られて微笑んだ。
ナグエレ・キプサ帝は、よく笑う皇帝である。
「今日は邪魔して悪かったな」
「いえ、そんな……」
「フロラントの公女殿下がどのようなお方か知りたかったのだ。
噂に違わぬ聡明可憐な姫君であった」
「恐れ入ります」
ルチアは一瞬悩んだが、思い切って気になったことを訊くことにした。
「……あの、噂……とは?」
「うーん……田舎で香水作りに熱中しているとか、ギルバートより剣の腕が立つとかだ」
「前半はおっしゃる通りですが、後半はまったくのデマでございます……」
ルチアはさりげなくサマルの顔をうかがった。
先ほどよりは顔色もよく、リラックスしているように見える。
ひとまず胸を撫で下ろす。
そうこうしているうちにキプサが立ち上がろうとする気配を見せたので、再び周囲は騒がしくなった。
キプサが立ち上がると、侍従が群青色のマントを広げ、肩に掛ける。
ルチアとサマルも立ち上がり、皇帝を見送る態勢を取った。
「夜宴をするそうだな」
「はい」
「安心しろ、もう邪魔はしない。朕は黒曜宮で明日の準備だ」
「滅相もないことです」
「楽しめよ」
「楽しみます」
焚き込められた乳香の匂いとともに、硝煙のような匂いがするマントの裾をひるがえして、シュカの皇帝ナグエレ・キプサは、一度も振り返らず、来た道を戻っていった。
後には、サマルとルチア、召使や従者、職員たちが、テーブルを囲んで、たたずむばかりである。
なかば呆然と立ち尽くす人々の中から、最初に動いたのはメノワだった。
「ルチア様」
音もなくルチアのそばに寄り、顔色をうかがう。
「メノワ」
「お変わりありませんか」
「ないよ! 大丈夫!」
「左様でいらっしゃいますか。
気になることがあれば、どんなに些細なことでもこのメノワにお知らせください」
「うん、わかった。……ありがとう」
サマルは自分で椅子を引き、座った。
細く、重い息を吐き、眼鏡を外して、鼻の根を揉む。
「……キミを喜ばせようと思って、緑柱宮に招待したのに、疲れさせることになっちゃって、ごめんね」
本当に申し訳なさそうなサマルの言葉に、ルチアは慌ててかぶりを振った。
「そんな! シュカの皇帝陛下に拝謁できるとは、思ってもみなかった光栄です!」
「そう? それなら、よかった……」
ルチアよりよっぽどサマルの方が疲れていそうな声色である。
サマルにはサマルの家の事情がある。
それはサマルにしか分からない苦労と苦痛であり、もしかしたら、それはある種、栄光と表裏一体の苦悩であるかもしれない。
独立国家の公女であるルチアには、同じ一族の人間に、首輪をつけられ、日々手綱を引き締められる者の気持ちなどは、想像するほかない。
慰めようにもかける言葉がないのが、ルチアの現状だ。
「怖い思いをさせたね……」
サマルは申し訳なさそうな、憐れみさえこもった目でルチアを見る。
ルチアは再度かぶりを振った。
「……サマル様、私は本当に、怖い思いはしておりません。
一人で皇帝陛下の御前に立つことになっとのであれば悩みもしましたでしょうけれど、今日は隣にサマル様がいてくださったので、ちっとも恐ろしいとは思いませんでした」
「ルチア殿……」
サマルはルチアを不思議ものを見る目で見た。
皇帝を恐れない人間というものを初めて見たかのような目。
ルチアがサマルの目からさらに感情を読み取ろうとしたとき、サマルは唐突に笑い出し、笑いながら首をめぐらせた。
「……キミと話してると、元気が出るよ」
「そうですか? ありがとうございます!」
再度顔を見合わせて笑ったとき、サマルの笑顔は、ルチアが最初にサマルを見たときの印象に近い、洒脱で、大人っぽい微笑に戻っていた。
サマルは軽快に立ち上がった。
スーツの襟を正して、ルチアたちに向き直る。
「さあ、そろそろ夜宴に移ろう!」
「はい!」
ルチアはサマルの差し出した手を取って、大温室の道を歩きはじめた。




