魔猫香
ルチアは首肯した。
魔猫香は動物香料の一種で、クセが強いが官能的な、強力な香りである。
ムスク同様そのままでは悪臭だが、希釈して香水などに加えると、香りに深みが増し、持ちが格段に良くなるため、需要が高い。
その希少性ゆえ高値で取引されており、香水職人でも滅多に嗅ぐことができない、神秘の香りでもある。
「もちろんでございます。シュカ産のマビスは特に素晴らしい品質だと、香水職人の間では評判でございます」
「あれの採集方法も、知っておろうな」
「存じております」
キプサはうなずいた。
「森にマビスと呼ばれる野生の猫がいる。
決して人間に懐かない、凶暴な魔物だ。
これを捕まえ、狭い檻に入れて飼う。
十日に一回、肛門近くの香嚢という器官にヘラを入れ、分泌物をかき出す。
それが香料のマビスになる」
キプサが紅茶を飲む。
丹念に手入れされた指先が、茶碗の滑らかな肌を撫でた。
「……親戚にナグバという男がいる」
「は。存じております」
「おお、知っておったか。
これがたいそう優秀でな、大学で数多の専門学者たちを束ねておる。
朕はこれに、マビスの合成香料を作るように依頼している」
ルチアは息を呑んだ。
合成香料。
科学や錬金術、場合によっては魔術を使って人工的に生み出した香料だ。
その多くは天然の香料を模倣したもので、最近ではかなり本物に近い香りの合成にも成功しているという。
マビスのような希少性が高く高価な香料の合成香料ができるということには、どういう意味があるのか。
ルチアは口ごもった。
言葉を選んでたずねようとするも、なかなか出てこない。
「それは……」
キプサは柔らかく笑って、言葉を続けた。
「マビスの合成香料はもともとベルミオンの錬金術師が構想したことだ。
我々は後追いだが、外国の学者に先を行かれるよりかは、我々の手でマビスを合成したいと思っている。
合成香料は、レシピと材料さえあれば誰にでも精製できる。
レシピは門外不出としたいところだが、未来永劫守るというのも難しいだろう。
合成香料の質が天然香料に匹敵するなら、天然香料を駆逐することもあり得る。
……すると、我らの国のマビス採取人は職を失うことになるな」
「……? 左様でありますね」
「もちろん、それでよいとは思っていない。
マビスを取る方法が絶えてもいけない、とも思っている。
なんにせよ長きにわたって続けられてきたこと、完全になくなることはないだろう。
しかし、減らしていく。
これからも、永遠にマビスを採るために」
「…………」
「マビスを欲する者は世界中に、ごまんといる。
その需要に応えるままマビスを生産していたら、猫のマビスは疲労困憊して死んでいくだろう。
科学者の概算によれば、このままマビスの輸出を続けていれば、シュカのマビスは絶滅するやもしれぬという。
香料のマビスは猫のマビスあってのもの。
マビスを取りすぎて猫が死んでは元も子もない。
マビスは守られねばならぬ。
しかし香料は要る。
そこで合成香料だ。
安価な合成香料と高価な天然香料で需要と供給のバランスを取る。
これがシュカの香料産業の目下の目標だ」
キプサは再び紅茶を飲んだ。
ルチアは何を言ってよいのか分からず、しかし重大な話を聞いたことに感動して、ただ目を伏せた。
世界の需要に応えつつ、供給をコントロールするために、シュカの皇帝は合成香料を利用しようとしている。
このことが、ルチアたちフロラントの香水職人にどのような影響を及ぼすのかは、まだ分からない。
しかし、何かは変わるはずだ。
たとえば、いずれ天然香料──植物香料もふくめて、すべての香料が合成香料に取って代わられるということも、あり得るかもしれない。
そうなれば、フロラントの農家は破滅だ。
しかし、あくまで動物香料の希少性と供給を守るために合成香料を利用するだけであれば、農家に変化はないかもしれない……。
何はともあれ、重要な話を聞いた。
ルチアはキプサに頭を下げた。
「貴重なお話、まことにありがとう存じます」
「よい、科学界ではすでに広まった話だ……朕はむしろ、フロラントの香水職人に興味がある」
「は……なんでもお聞きくださいませ」
「フロラントの香水職人は、元は修道僧であったそうだな」
「左様でございます。
まず最初に、フロラントの修道僧の集団が、身体を清潔に保つ薬液を開発しました。
これはアルコールと植物の精油を混合したものでした。
それに新しい植物香料を加えたり、珍しい動物香料を加えたりしたものが、フロラントでの香水の起こりだと言われています」
「それが都や港を通して世界中に広まったわけだ」
「左様でございます」
「需要が高まるにつれて人手が足りなくなり、農民にも仕事を頼むようになった」
「左様でございます」
「当時の農民は新しい仕事をどう受け入れていったのだろうか?」
ルチアは黙って、琥珀の双眸を見上げた。
話がどこに向かおうとしているのか分からない。
キプサはミステリアスな微笑を口元に浮かべたまま、疑問を述べた。
「新奇な仕事を与えられて、素直に受け入れ、慣れることができたのはなぜだろう?」
「それは……やはり修道僧たちと農民との親交があってこそだと思います。
農民たちと野に入って畑を開墾し、病人があれば惜しみなく知識を使って治療にあたる。
そのような真摯な僧たちの姿勢と、農民の礼儀と親交を重んじる性格が、フロラントの香水を可能にしたものと考えております」
「なるほど……」
キプサは両手を組み合わせ、テーブルに肘をついた。
指につけられたただ一つの指環、皇帝を象徴する黄金が光る。
「やはり関係が重要か」
行き先の分からぬ会話に戸惑い、ルチアはひそかにサマルをうかがった。
サマルの目を横目に見、思わず驚く。
一挙一動を監視するような、平静なまなざし。
サマルは、平静な目で──平静なあまり、冷たいとさえ感じる目で、皇帝を見ていた。
そういったまなざしは、少なくとも、家族に向かって向けられるものではないということくらい、ルチアも知っている。
それなのにサマルは、同じ一族の皇帝を、〈油断ならない〉という目で眺めている。
檻の中の危険な動物を眺めるような目で、静かに、しかし一挙一動を見逃さぬようにと、注視している。
サマルは、皇帝に親しみを持っていない。
ルチアには直感的にそう思った。
サマルは皇子でありながら、皇帝を家族とも同胞とも思っていない。
「…………」
ルチアは反射的にサマルから目を逸らした。
折よくキプサが茶碗から目を上げたので、食い入るようにそちらを見つめる。
キプサが、ゆったりと口を開いた。
「シュカで同じことをやろうとしても、全く同じにはいくまいな」
「は……」
「しかし、やる価値はあるように思う」




