皇帝
一行の顔色が変わった。
緑柱宮に、皇帝陛下がお成りになる。
シュカ帝国の最高権力者、皇帝ナグエレ・キプサが。
「いったいなぜ……」
「分からない。今日は地方を行啓訪問しているはずだ……こちらにお成りになる理由がない」
「サマル様!」
従者の一人が裾をからげて走ってきた。
「陛下が大温室にお成りに!」
「何⁉︎」
シュカにおいて、〈陛下〉の称号をもってその名を呼ばれる人物はただ一人。
サマルはルチアを振り返った。
サマルの目に浮かんだ焦りは、本物だ。
ルチアは直感的に、皇帝が現れることを確信した。
「時間がない、このまま皇帝陛下をお迎えする……ごめん!」
「は、はい!」
「皇帝陛下のお成りです!」
出入り口の方向へサマルは向き直った。
ルチアもサマルにならい、姿勢を正して皇帝を待った。
全ての召使、従者、職員が立ち並び、そのときを待つ。
永遠とも思える数秒の後、騒がしい足音が聴こえてきた。
温室の出入り口に通じる歩道。
その向こうから、十数人分の足音が迫ってくる。
慌ただしい使用人のサンダルの音、職員の革靴の音、それから、落ち着いた軍靴の音。
人の顔が見分けられるかどうかというくらいでサマルが頭を下げたので、ルチアもそれにならって、こうべを垂れた。
足音は、ルチアたちの間近で収まった。
「苦しゅうない」
穏やかな、低い声。
サマルが面を上げた気配を感じ、ルチアも面を上げた。
人々に囲まれ、伏して迎えられた、一人の人物。
軍服を着、皇帝の証である青いベルベットのマントを肩にかけた壮年の女性は、ルチアの顔を見て、にっこりと笑った。
***
ナグエレ・キプサ・バダ・イスフェイ・コムンダエア・ヌアバは、シュカ帝国ヌアバ朝八十八代目の皇帝である。
黄褐色の肌に、琥珀色の瞳。
今年で四十五になる、美しい女性である。
黒々とした髪をいつも小さな髷にまとめているのは、彼女が軍人であることの一つの印かもしれない。
軍帽を被るためには、長髪は小さくまとめておかなくてはならないからだ。
そのキプサ帝が、今、ルチアの目の前にいる。
予定にない、予想もしていない、あまりにも急な謁見。
ルチアは首筋に汗がにじむのを感じた。
皇帝が皇宮に座すことは知っていた。
自分はといえば、私用の旅行であるため、謁見の機会はないと思っていた。
しかし、皇帝は確かに今、ここにいる。
ルチアは人知れず呼吸を整えながら、覚悟を決めた。
こなさなくてはならない。
フロラントの公女として。
ルチアは腰を深々と下げてお辞儀をした。
皇帝が静かに差し出した手を取り、指先に口づける。
指先からは、果実を捥いだばかりのように、みずみずしい香りがした。
顔を上げ、皇帝の、虎のごときあでやかな瞳を見上げる。
「……ルチア・イル・フロラントと申します。
偉大なるシュカ帝国の、ナグエレ・キプサ皇帝陛下にお目通りが叶いましたこと、まこと光栄の至りに存じます」
キプサは婉然と微笑んだ。
「キプサである。
薫り高き国フロラントの公女殿下……我が後輩ギルバートの妹君にお会いできて、まことに嬉しく思う」
ルチアは再び頭を下げた。
兄の名前が出てきたことに不思議な安堵を覚えて、そのことにもまた驚いていた。
自分はこんなにも兄を頼りにしていたのか、という、いまさらといえばいまさらな驚き。
キプサはマントを外して従者に預け、差し出された椅子に座った。
キプサの合図でルチアたちも椅子に座り、茶が淹れ直される。
キプサは温かい紅茶を一口飲み、息をついた。
「あー、ホッとした!」
市井の人が仕事終わりにそうするように、そう言って、笑う。
この一言で、大温室の緊張がほぐれた。
従者や職員たちの顔に笑顔が戻り、急遽、茶会を整えるために動き出す。
サマルとルチアはひとまず胸を撫で下ろし、キプサにならってお茶を飲んだ。
キプサはカップをソーサーに戻すと、砂糖壺の蓋を開け、角砂糖をいくつも掴み取った。
あらかじめ蜂蜜で甘味がついている紅茶に、ためらいなく砂糖を落とし、スプーンでかき混ぜ、水面が落ち着いてから、また一口飲む。
「……昼は地方の基地を見て回っていた……訪問するのは楽しいが、馬車の移動はこたえるな……移動しながら昼寝をしてしまって、首を痛めた。
……そなたらは、香料植物について話していたらしいな」
キプサが視線を上げると、サマルがこれを受けて答えた。
「はい。ルチア殿の専門知識には驚かされました」
「へえ」
キプサの瞳が興味深げにきらめく。
ルチアの方に視線を向ける、そのまなざしの仕草さえ、優雅である。
ルチアは顔を赤らめながら応えた。
「サマル様に素晴らしい大温室を見せていただいたこと……どれほど感謝をしてもしきれません。
どこを見ても丁寧に育てられた植物ばかりで……皇帝陛下の〈緑の手〉の皆さまには感嘆しきりでございました」
「それはよかった」
キプサの顔に笑みが浮かぶ。
笑うと頬にしわがより、ともすれば冷たい美しさを持つ皇帝の顔立ちに、温かな親しみやすさが加わる。
ルチアは皇帝の魅力的な笑顔に見惚れたが、それとは裏腹に、このキプサという人物の、人を魅了する力に恐れをなすような気持ちにもなった。
キプサには、ルチアが今まで接したことのないような、若さと老獪さを兼ね備えた魅力がある。
「香水を作るそうだな」
「作っております」
「フロラントに香水を買いに行きたいものだ」
「光栄に存じます」
キプサが空のカップを置いた。
すかさず、紅茶が注がれる。
ルチアは揺れる紅色の水面に視線を落とした。
シュカで飲む紅茶は、フロラントやヘルミオンのそれよりも香り高い。
生産地との距離の短さが、茶葉の新鮮さを保つのに一役買っているのだろうか。
ルチアの思考を読んだかのように、キプサは話題を香りに移した。
「昔ベルミオンで買った香水を持っているのだが、シュカでつけてみると、なんだか匂いが違う。
気温とか湿気とかの具合による変化だと思うが……」
「おっしゃる通りでございます。
香水は気温や湿度で香り方が変わってくるのです。
香水の本来の香りは、それが作られた土地でこそ分かるものだと思います」
「なるほど」
キプサは紅茶を一口飲んだ。
「それでも舶来の品にしかない美しさがある」
「……左様でございますね」
自国のものだけでは作られない香りがある。
人間はそれを求める気持ち──欲望のために、富を散じ、危険を冒してまで香料を求める。
何のためにそこまで、と訊かれて、答えられる人などいるのだろうか?
人間は何の必要もないもののために、どこまでも貪欲になれる。
求めるのが美しさであれば、なおさらのこと。
キプサは、つと視線を上げ、ルチアを見た。
何か秘密を持っているような、貴婦人の美しい微笑み。
「ルチア殿は、魔猫香をご存知か?」




