大温室
「これが緑柱宮の大温室だよ」
ルチアは空を見上げた。
あまりも大きいドームなので、逆にどれくらいの大きさなのか、見当もつかない。
「普段の強化保護魔術に加えて、今日は警備のために防壁を張らせている……ボクたちに危険はないよ」
ルチアはメノワにうなずいてみせ、メノワは引き下がった。
扉が開かれ、ルチアたちは大温室に入った。
涼しかった屋内から、突然屋外に、それも気候の違う場所に放り出されたかのような気温の変化。
どこからか、水が流れる音がする。
暖かな温室の中は、明らかに外とは違う湿気に満ちている。
木陰から大きな扇を持った召使が現れ、歩くルチアたちに風を送った。
ルチアは歩道を歩きながら、整然と植えられた植物たちに目を見張った。
図鑑でしか見たことがないような珍しい植物ばかりで、どれに足を止めたらいいのか分からない。
緑柱宮の庭は野放図な森を再現するような趣きがあったが、それと比べると、大温室は生きた植物図鑑のようである。
ここなら、フロラントでは手に入らない珍しい香料植物も植えられているに違いない。
ルチアは、サマルが自分を昼の緑柱宮に招待した理由に思い至った。
サマルはこの植物園をルチアに見せたかったのだ。
ルチアは「すごい」と呟きながら、あちらこちらに目を向けた。
どこを見ても、初めて見る植物がある。
ルチアの驚く顔が見られて、サマルはご満悦だ。
ルチアの驚きながらも楽しそうな様子を見て、メノワ、キャシディ、ブリッジも安堵を得た。
眠気も暑気も取り払われたらしく、ルチアの目は、らんらんと輝いている。
寄り道しながらも一本道を進んでいくと、突然広場に出た。
広場にはテーブルと椅子が置かれ、召使がお茶の用意をしているように見えたが、どうやらそれだけではない。
テーブルの周囲に、植物の植った植木鉢が集められている。
ルチアはその一つに近づいてみて、息を呑んだ。
丈の長い、イネのような尖った草。
ベチバー。
どれだけ頑張ってもラクリマダ南部までしか植生できない香料植物。
ルチアは標本と香料になったそれしか見たことがなかった。
「これ……本物のベチバー」
「その通り」
ルチアは身をかがめて草の匂いを嗅いだ。
香料のような強い匂いはしないが、かすかにあの土のような、冷んやりとした草の匂いがする。
ルチアは隣の鉢にも目を止めた。
こちらはシトロネラだ。
見た目はベチバーと似ているが、匂いが違う。
柑橘類に似た香りのするこの草は、ベチバー同様ラクリマダやルアンダニ諸島などの熱帯地域にしか生えていない。
その他の鉢は、パチュリ、コスタス、バニラ、カルダモンにシナモンの苗木、それにルアンダニ諸島より東にしか生えていないというクチナシの木までが置かれていた。
ルチアは一つ一つを見て回った。
シュカに来なければ、一生見ることはなかったであろう香料植物の生きた姿。
その匂いは香料とは異なるけれど、確かにその片鱗をうかがわせる香りと、特有の生気がある。
「すごいです、サマル様! こんなに素晴らしい植物が見られるなんて」
「確かにすごいな。庭師と研究員にあっぱれだ」
サマルは側に立った壮年の男と女に言葉をかけた。
「よくぞここまで集め、育てましたね。さすがは皇帝陛下の〈緑の手〉。」
「恐れ入ります」
「ルチア様」
サマルは夢中で植物を観察しているルチアに声をかけた。
「あっ、はい!」
「こちらの二人は大温室の庭師長と研究室の室長です。
何か質問があったら二人に訊いて」
「よ……よろしいのですか⁉︎」
「もちろん」
ルチアは早速二人に質問を浴びせた。
植物の産地、育つ環境、肥料、別の動植物との関係、匂いが植物に宿る理由と仕組みについて、魔術の園芸応用とその是非……。
庭師長と研究室長はそれぞれの専門的な視点から見た見解をルチアに伝えた。
大温室で熱帯の植物がよく育つのは魔術による援助の効果もあるので、簡単には真似できないという。
「魔術による援助を受けて育った香料植物は、香料にしたときに影響がでると思いますか?」
ルチアは室長にたずねた。
魔術による援助で香料植物が育てやすくなるなら、フロラントでも熱帯の香料植物を栽培できるのではないかと考えたのである。
室長は少し考えた後、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「……実験したことがないので分かりませんが、可能性はあると思います。
やはり現地で育てたものを現地で香料にし、それを輸入するのが、一番だと思います。
香料の質的に、もっとも状態が良いものを確実に、定期的に手に入れるには、今のところ、それしかありません」
「そうですか……」
ルチアは肩を落とした。
自作農地で香料植物を育てられたなら、危険な航海や莫大な資金を必要としなくなるのに、と考えていたが、やはりそう単純にはいかないらしい。
サマルはルチアに、紅茶の注がれたカップを渡した。
「あ、ありがとうございます」
温かな紅茶からは、カルダモンやクローブ、ジンジャーなどのスパイスの香りがする。
一口飲んでみると、甘い蜂蜜の味とスパイスの刺激で、身体が内側から暖かくなった。
同時に、りきみが抜け、張り詰めた神経が緩むのを感じる。
「ゆっくり訊けばいいよ。まだ時間はたくさんある」
「はい……ですが、サマル様は……」
「ボクも香料植物には興味がある。
特に栽培については。
話についていけなくなったらブリッジたちとバレーボールでもするさ」
「まあ! もう仲良くなられたのですか!」
「まあね」
「サマル様、温室内でボール遊びはおやめください」
「ハーイ」
実際、サマルの従者たちとルチアの護衛──特にブリッジは距離を縮めていた。
ブリッジは以外と社交的なのである。
メノワはそれに対し、基本、誰にでもつんけんしている。
雇い主のダリルやルチアに対してさえそうなので、他人の使用人に対しては言わずもがなである。
ルチアたちは香料について長く語らった。
ときおり皆でお茶を飲むこともあったが、すぐに話は香料植物に移った。
庭師長と研究室長はルチアの関心の深さに驚き、それに真摯に向き合った回答を続けた。
話は弾み、温室に橙色の光が差すころ、ルチアとサマル、庭師長と研究室長は同じテーブルについて、香料植物の輸出入と栽培の是非を話し合っていた。
と、突然あたりが騒がしくなった。
召使たちの様子が慌ただしくなり、赤い裾がパタパタとひるがえる。
緑の中を赤い服の人間たちが駆け抜けるのを、ルチアは呆然と眺めた。
従者の一人がサマルに耳打ちする。
サマルは目を見開き、小声で、しかし鋭く「本当か?」と聞き直す。
従者がうなずくのを見て、サマルは目を閉じ、またすぐ開いた。
「ルチア殿、少々まずいことになった」
隣に座るルチアに、声をかける。
その声音には、緊張と、ルチアを不安にさせまいとする努力の気配がある。
「いったい何が?」
ルチアの当然の疑問に、サマルは苦々しい口調で事実を述べた。
「皇帝陛下が、緑柱宮にお成りだと」




