船旅
ルチアは客室を出て、甲板の上を歩いた。
潮風が顔を叩く。
パタパタとめくれあがる前髪を帽子の中に押し込め、海を眺める。
この方向なら去っていく海のはずだが、前も後ろも同じ風景なので、本当に進んでいるのか、怪しむ気持ちになる。
「ルチア様」
ルチアは女の声に呼ばれて振り返った。
「メノワ」
メノワは鋭い眼光をあたりに走らせた。
黒い髪に、黒い瞳。
白い肌がそれらの色をより強く、際立たせている。
メノワは元々ベルミオンの軍出身で、その武功を取り立てられ、庶民から異例の抜擢を受けて、武装女官として帝室に仕えていたという。
しかし、どういう巡り合わせなのか、今はフロラントでダリルの侍女をしている。
「甲板にお出ましになるのはお勧めできません。海はおそろしゅうございますよ」
「ごめんなさい。でも、こんなに広い海、初めて見たから」
メノワは風で乱れた前髪を耳に掛け直した。
後ろで一つの髷にまとめた髪は、乱れ一つない。
「海はどこで見ても同じ海でございます」
手厳しい。
ルチアは思わず苦笑した。
ギルバートが彼女を小さな猛禽類に例えて「百舌鳥」と呼ばわったときも、容赦なく叱りつけた女性である。
ルチアたちは彼女を恐れたが、頼みにもした。
彼女はこちらが誠心誠意頼みさえすれば、大体なんでもやってくれるのである。
たとえば、ルチアが高い木の梢に引っ掛けてしまった紙飛行機。
ルチアが恐る恐る頼んだところ、メノワは拍子抜けするほど軽く承り、その小さな体をスルスルと木に登らせて、枝の先から紙飛行機を取り返してくれた。
その記憶は、ルチアにとってもギルバートにとっても、懐かしい思い出の一幕となっている。
しかしちょっと不気味なのは彼女の容姿と体力である。
ルチアが覚えている限り、メノワはルチアが生まれたときから容姿も体力も変化がない。
おそらく、衰えていないのだ。
ギルバートが恐れ知らずにもそれを本人に指摘したところ、メノワは真顔で「フロラントの水と石鹸のおかげにございましょう」と言ってのけたのだが、それならフロラント国民がなべてメノワのように若々しいままのはずだが、もちろんそんなことはない。
ギルバートとルチアは謎が深まるのを感じ、それ以降メノワの変わり映えのなさに異議を唱えるのをやめた。
閑話休題。
ルチアは欄干から遠ざかり、メノワのそばに寄った。
いつの間にか、メノワの身長を超していたと気づいたとき、嬉しいような、寂しいような、複雑な気持ちになったことを覚えている。
「メノワは海、好きじゃないの?」
メノワは不思議なものを見る目でルチアを見た。
「海は海です。好きも嫌いもありませぬ」
「そ、そっか……」
「わたくしはベルミオン生まれでございますが、父母はここよりもはるかに遠い異国の生まれでございます。
両祖父母は漁師の子供で、家族は湖で漁をして暮らしていたとのことです。
その父母が言うことには、『湖も海も変わらない。だだっ広くて、怖いだけ』だと。
父母はなにぶん正直者でございますから、嘘ではないはずです。
湖も海も変わらないのであれば、海はどこで見ても同じ海に違いありません。
『だだっ広くて、怖いだけ』です。
……水に落ちて死ぬのは恐ろしゅうございますよ、ルチア様」
ルチアは笑った。
「昔も、そう言って私たちをおどかしたよね」
「おどかしではありませぬ。事実でございます」
「『バルコニーから落ちて死ぬのは恐ろしゅうございますよ、ルチア様』、だ」
「それも事実でございます」
ルチアはメノワと並んだ。
歩幅を合わせて甲板を歩く。
人気はない。
ただ、わずかに霧が出てきた。
耳をつんざくような汽笛の音が鳴らされる。
初めての汽笛に、ルチアは心臓が止まるかと思うほど驚いたが、平然としているメノワを見て、なんとか落ち着いた。
そうこうしているうちに、ルチアはふと、甲板が暗くなったのを感じた。
何かの影が、甲板の上に落ち、ゆるゆると目の前に迫ってくる。
「何……?」
「あれでございましょうね」
メノワが欄干の外を指差した。
ルチアがメノワの指の先を見やる。
ルチアは最初、〈それ〉が何なのか分からなかった。
何かがあるのは分かる。
見える。
しかし、〈それ〉が何なのか、何を意味するのかが、分からない。
〈それ〉はあまりに巨大に過ぎて、理解の範疇を超えていたのである。
「…………」
〈それ〉は霧をかき分け……というより、文字通りに霧散させながら、現れた。
ルチアたちが乗っている帆船の横すれすれを、壁のようなものが通り過ぎていく。
「〈魔力輸送船〉ですね。初めて見ました」
なんでもないことのように、メノワがつぶやく。
壁の終わりは見えない。
頂上も見えない。
いや、正確には終わりも頂上もあるのだが、ルチアは〈それ〉があまりに大きすぎるため、終わりはないと錯覚したのである。
壁はゆっくりと進行している。
こちらの船体とあちらの船体とで起こされる波が、衝突しては砕ける音がする。
やがて影が帆船全体を覆い、夜かと思われるほどの暗さになった。
ルチアは我知らず息を止めていたのを、メノワに促されて、呼吸を取り戻した。
よく目を凝らすと、壁の頂上あたりに、丸みを帯びた、天蓋のようなもの、それから、煙突らしき突起がある。
しかし、もはや右を見ても左を見ても、壁の終わりが見えない。
はたして、この怪物のような白い壁の全体が見えることはあるのだろうか?
霧が晴れてもそんなことは起こらない。
ルチアにはそう思われさえした。
とはいえ、いつかは時間が過ぎる。
ルチアは壁の終わりを見た。
壁のお尻の方は窓やら機械らしき部分やらがあり、頂上の方には、甲板らしきスペースが見受けられた。
甲板らしき、と思われたのは、そこに二つの人影があったからである。
白っぽい長衣をはためかせた人影たちは、欄干に腕をかけ、何やら二人で話しているようだった。
二人は、こちらを凝視するルチアたちに気がつくと、一人は欄干を離れて奥に消え、もう一人は、大きく片手を振って、ルチアたちに挨拶した。
ルチアは負けずに大きく手を振返しながら、あの二人は魔術師だと考えた。
この巨大な壁は、メノワの言う通り、魔力輸送船──魔力を動力とする、巨大輸送船舶なのである。




