贈る香り
昼寝から覚めたルチアとユリウスは、再び歩いて修道院へ戻った。
すこし眠って休んだのがよかったのか、帰りは行きより元気よく、足取りも軽かった。
眠る直前に話したことは覚えていたが、話した内容は、ほとんど忘れた。
バスケットを食堂に返し、研究室に戻って調香の続きに取りかかる。
ユリウスは机の前に座り、ルチアを見上げてたずねた。
「なぜ行きより帰りの方が元気に歩けたんだろう」
ルチアは薬瓶を並べ直し、考えながらしゃべった。
「……丘で新鮮な空気を吸えたのが効いたのではないかと思います」
「新鮮な空気?」
「あの丘は、私が調香などで煮詰まったときに出かける丘なのです。
あそこで新鮮な空気……草の匂いや海の匂いを胸いっぱいに吸い込むと、身体の中に滞っていた空気が流れを取り戻すような感覚を覚えます。
あらゆる匂いを嗅いで混乱した感覚が、自然の素晴らしい香りに一掃されて、リセットされるような感覚です」
ルチアは全ての薬瓶を棚に戻した。
これで一からやり直しができる。
「自然の香りは、どんな香水職人にも作れない。
自然そのものが、自然の最高傑作なのです。
……と、これは私の考えではなく、師匠の教えなのですが……」
「自然が、最高傑作……」
ユリウスは何かを探し、薬瓶のラベルを指でなぞった。
とある一本のラベルで指を止め、薬瓶を取る。
オークモス。
樫の木の根元に生える特殊な苔。
蓋は開けず、手元に置く。
「自然の香りを再現した香水はあるのか?」
「あるにはありますが、精巧とは言い難いですね。自然を模倣するのは難しいので」
「……あの丘の匂いを再現した香水があれば、いつでもそれを嗅いで元気になれるのに」
「なるほど」
ルチアは机から離れ、壁沿いの薬品棚から香水瓶を取り出した。
机に戻り、ユリウスに香水を渡す。
「これは?」
「元気を取り戻す香りです」
ユリウスは蓋を開け、ムエットに滴下して、匂いを嗅いだ。
さわやかなベルガモットの匂い。
それから、ラベンダーやバラ、ローズマリーといったハーブの匂いに、ピリッとしたジンジャーの匂い。
「よい香りだな」
「柑橘類とハーブを中心に、植物性の香料だけを使った香水です。
疲れたときにこの匂いを嗅いだり、布に垂らして身体を拭いたりすると、気分がスッキリして、元気が出ます」
「元気が出る香りか……」
ユリウスはルチアを見上げた。
「これと同じように、嗅いで気分が爽やかになる香りを作りたい」
ルチアは微笑んで頭を下げた。
「承知いたしました」
***
シャマイリーから、首都コルデバートへ向かう道。
四頭立てで走る馬車は、馬の数に対して地味な見た目であるが、そのしっかりした造りと紋章とで、公女ルチアの専用馬車だとわかる。
農民たちはこれを見るたびに、中にいるであろう風変わりなお姫様のことを思う。
そして馬車が走る方向を見て、ああ修道院へ行かれるのだな、とか、ああ帰省なさるのだな、とか、公女の動向を思いやるのである。
今日はめずらしく一日で往復しているので、ご友人でも連れて来られたのかしら、と考える人もいる。
その農民たちはあずかり知らぬことだが、今日この馬車には、本来であれば国賓の扱いを受けねばならない人物が乗っていた。
ベルミオンの皇子、ユリウス・アン・フリッツ伯である。
そのユリウスは、馬車の中で、香水の瓶を日の光に透かして見ていた。
牛乳瓶ほどの大きさの瓶の中、ほとんど無色透明の液体で満たされている。
ユリウスはルチアが手渡した香水を手本に、数種の柑橘類、ハーブ類をブレンドした香水を作り、それにオークモスと干し草の香料を入れた。
出来上がった香水は、さわやかな薬草の香りに、森や草原の気配がする、奥行きのある匂いになった。
向かいに座ったルチアが、香水をためつすがめつしているユリウスに話しかけた。
「よい香りを作られましたね」
ユリウスはほんの少し頬をゆがめて笑った。
「ほとんど修道院の香水を真似たものだがな」
「オークモスと干し草の香料を入れたのはユリウス様のアイディアです。
それに……大事なのは目新しさではなく心地よさです」
ユリウスはうなずいた。
父と母のために豪華で、新しく、忘れがたいものをと思っていたが、それよりも大事なのは身につけて嬉しいということだろう。
身につけられなければ香水は香らない。
毎日つけられるものでなければ、親しみは起こらない。
「そちらの香水は、同じものを数本用意しております。
レシピと一緒にお持ち帰りになって、皆さまでお試しください。
レシピはこちらにもあるので、お知らせいただければ、大量に製造して宮殿にお送りいたします」
ユリウスが選んだ香料は名前から分量まで全てメモしてある。
このレシピ通りに調合すれば同じ香りが作れるはずだ。
フロラントから香料を取り寄せ、ヘルミオンの宮殿で香水を作ることも可能だろう。
「ありがとう」
「本来であれば、出来上がった香水は修道院の蔵に寝かせておくのですが、こちらは熟成させていないのでアルコールがキツく感じるかもしれません。
一ヶ月ほど冷暗所で寝かせてから使いますと、匂いがやわらかく、使い心地がよくなるかと思います」
「わかった。試してみよう」
ユリウスは何度も香水を日に透かして眺めている。
「父と母が疲れたときに、これを使って一息つければよいのだが」
「喜んでいただけるとよいですね」
「うん」
「ユリウス様は、よいお鼻をお持ちです。これからもよい香水をお作りになられると思います」
「うん……」
ユリウスは香水をふところに納め、ひざの間に手を置いて、指を組んだ。
「ルチア」
「はい」
「香水の作り方を教えてくれて、ありがとう」
「こちらこそ、ありがとう存じました。まことに楽しい時間でございました、ユリウス様」
「名前……」
「はい、名前ですか?」
ユリウスの声が小さくなったので、ルチアは身を乗り出して、耳をそば立てた。
ユリウスは指を組み直し、あごを引いた。
「……親しい者は、私のことをユリアンと呼ぶから……」
「はい」
「……ルチアも、ユリアンと呼んでよい、と思う」
「は」
ルチアは姿勢を正して考えた。
ユリアン。
さすがに呼び捨てにはできない。
「……では、ユリアン様とお呼びいたしますね!」
「うん」
ユリウスは微笑んだ。
ルチアがユリウスのはっきりとした笑顔を見たのは初めてだった。
こころなしか、来たときより顔色が良くなっている気がする。
「ユリアン様、両陛下に喜んでもらえるとよいですねぇ」
「うん」
森の向こうに日が落ちて、世界が橙色に染められていく。
ユリウスが今日中にヘルミオンの宮殿に帰ることはできないし、ルチアが今日中にシャマイリーの修道院に帰ることはできない。
二人とも、今夜はマルセル城で眠ることになる。
しかし、ルチアはもはや緊張していなかった。
今日この一日で、ユリウスとはとても仲良くなれた。
これからもっと話していけば、ベルミオンの皇子とフロラントの公女というだけでなく、ふつうの友だちとして、仲良くなれる。
そんな気がした。
二人は車内でいそいそと、今夜、夕食のあとに遊ぶゲームについて、話を始めた。
第二章:皇子 終




