薫る記憶
「わたくしにも、兄が一人おります。
偏屈で、とらえどころのない兄ですが、何ごとでもわたくしに先んじて、悠々とこなしてしまいます。
いつもそんなふうなので、腹が立つこともありましたが、ともすれば、不肖の妹でも歩きやすいよう、道を作ってくれているようにも感じられるのです」
ユリウスは海を見たまま、ルチアの話にうなずいた。
上のきょうだいが道なき道を歩いて、ひらいてきたからこそ、下のきょうだいはその道を通って、または外れて生きることができる。
二人に共通の理念を見つかって、ルチアは嬉しい気持ちになった。
ルチアが突然、上体を倒したので、ユリウスは驚いて振り返った。
ルチアは野原の上に身体を倒し、ユリウスを見上げていた。
「こうして空を見上げると、気持ちがいいですよ!」
「…………」
ユリウスはおそるおそる身体を倒し、野原に横たわった。
海は見えなくなったが、空がよく見えるようになった。
草の先にふちどられて、明るい、青い空がある。
ユリウスはこれ以上ないほどに、自分が「空の下にいる」ということを実感した。
空は、どこまでも遠いところにある、無限の天蓋のようである。
二人はうつらうつらした心地のまま、取り止めもないことも話し続けた。
兄のこと。
姉のこと。
父と母のこと。
「……父上が、よい香りだと言っていたのを、きいたのだ」
「……え?」
「初拝謁の儀のとき、父上がそなたの匂い手袋を褒めた。
めずらしいことだと思った。
そのあと、舞踏会で踊るそなたとすれ違った。
踊るそなたの裳裾がひるがえったとき、えもいれぬ香りがした。
頭がぼうっとして、それを感じること以外は、感じられなくなるような……。
香りを追いかけたかったが、そなたの邪魔をするなと、姉上たちに、たしなめられた」
「そうだったのですね」
ルチアは初拝謁のことを思い出した。
初拝謁はヘルミオンの宮殿で行われる。
さほど広くはない〈謁見の間〉に目いっぱい人が入り、皇帝夫妻の背後を守っているので、すさまじい威圧感があった。
もっとも皇帝夫妻に近い位置にいたのが、夫妻の子供たち──九人の皇子と皇女たちである。
ユリウスはその真中あたりにいて、ルチアは見ようと思えば彼の姿を垣間見える位置まで行ったのだが、いかんせん緊張しすぎて、〈謁見の間〉に入った瞬間から記憶がない。
しかし、皇帝陛下にたまわった、匂い手袋の香りをお褒めになるお言葉は、覚えている。
それを知っているということは、たしかにユリウスはその場にいたのだ。
舞踏会のときにも。
「わたくしはそのころ、緊張しすぎて、ただ拝謁の誉れに喜ぶばかりで……舞踏会でも、踊ることに集中したきり、なにもわからない状態でした」
「だろうな……遠くからでも分かるほど緊張していた」
「なんと……」
ルチアは恥ずかしさに顔があからむのを感じた。
年少の皇子から見ても緊張がわかるほどぎこちなかったとは。
「リュマート兄上やロウネル姉上はそなたのステップを褒めておったぞ」
「光栄の至りにございます……」
なぐさめるようなユリウスの言葉になおさら悲しくなる。
ルチアは視線を上げた。
空が広い。
ルチアが失敗しても成功しても、空はいつまでも変わらず、そこにある。
それが悲しいことでもあるし、心の支えになることでもある。
今日の空は、心をなぐさめる空だ。
「父上と母上に、贈ろうと思ったのだ」
「え?」
「香水を」
「…………」
ルチアは目を開き、隣のユリウスを見た。
ユリウスは目をつぶっていた。
「……両陛下に、お贈りいたそうとしていらっしゃる香水なのですか……?」
「そうだ……」
風がふき、ユリウスの前髪がめくれあがった。
そばかすのある頬が、閉じられた丸い瞼が、よく見える。
青い草の匂いに混じる、子供っぽい汗の匂い。
「夏季休暇が終われば、私は陸軍の幼年学校に行く……。
それを期に、両親に感謝の気持ちをしめしたいと思い、なにか贈り物をと考えたのだ……。
香水を思いついたのは舞踏会でだ……。
香水なら毎日使うし、私のことを忘れないはずだと思った……」
ユリウスは目を開いた。
ルチアは横たわってユリウスを見ていた。
ユリウスの目は、どこか遠いところを見ているようでもあった。
「……お父さまとお母さまのことが、大好きなのですね」
「……うん」
「……お父さまとお母さまも、ユリウスさまのことが大好きでいらっしゃいますよ……」
「……そうだといいな」
風が二人の額をなで、丘の草を倒していく。
柔らかい日の光に身体を温められて、二人は眠りの世界へと誘われていった。




