第48話 武松、冷たさを感じる
それからというもの金蓮はたびたび武松を尋ねて来ては、差し入れをするなど甲斐甲斐しく世話を焼いた。その甲斐甲斐しさは、子が老いた父母にするほどのもので、とてもただの夫の弟に対するものではなかった。
ある日など雨が降っているのに、武松は留守で家に入る許可も得ていないからと、ずっと武松の帰りを家の前で待っていたほどである。
何気なしに武松が数えてみれば金蓮が尋ねてくるペースは一週間に八度。つまり毎日必ず一度はきて、週に一度は二度くる計算であった。
兄の武大が来ることもあったが、それは週に二度ほどで金蓮よりはずっと少なかった。
例の虎殺しの一件もあり武松はこの街では有名人。それなりに目立つ存在である。
今はまだそうでもないが、金蓮ほどの美人が毎日足しげく通ってきていれば、いずれ噂になるだろう。そうなれば兄・武大の面子は丸潰れどころではない。
もし武松が兄のことを純粋に思うならば、毅然とした態度で、金蓮にここにはもう来るなと怒鳴りつけるべきなのだろう。
しかし武松では頭では理解できることを実行することができなかった。
『人の親切を無下にするのは悪い』
『へんに追い返したりしたら、金蓮のことを意識していると兄に言うようなものではないか』
今日こそはと思った瞬間、そういった言い訳の言葉が武松の脳内を満たすのだ。
そして武松が兄と再会して二ヶ月。その日も非番で武松が文字の勉強をしているところに、金蓮がいつものように尋ねてきた。
会った時は普通の庶民が着ている質素な服装だったが、最近の金蓮はめっきりと綺麗に着飾るようになっていた。
うっすらと口に紅を差す薄い化粧だけで、高貴な姫君だったのが神仙の天女になったかのようである。
「武松、今日は良いお酒を持ってきたの。確か貴方も貴方のお友達もお酒が好きなのよね。二人で飲んで」
金蓮は恥らうように口元を裾で隠しながら、酒を差し出した。
飲まなければ味は分からないが、良い酒というだけあって器からして高そうである。
「ああ……すまねぇな」
「じゃあ私はこれで失礼するわ」
「待てよ。酒をもらってただ返すわけにはいかねえ。茶でも飲んでいきな」
自然と武松はそんなことを言っていた。金蓮は驚くこともなく、
「ありがとう。なら今日はあの人も仕事で家にいなくてやることもないし、頂こうかしら」
兄は家にいない、つまり金蓮が遅くなってもそれに気づくこともない。武松の心に邪念が沸いてきたが、振り払う。
余計なことを考えるから、こんなおかしなことを考えてしまうのである。ともかくお茶の一杯でも用意して、一応の返礼の体裁を取り繕ってから、急な仕事を思い出したとか言って、帰ってもらおう。
そう思った武松は茶葉の入った器へ手を伸ばし、
「……っ!」
そこへ白魚のような手が重なった。
「私も手伝うわ」
互いの呼吸や、心音すら聞こえるほど金蓮は体を近づける。触れ合った手から、金蓮の温度が伝わってきた。
(――冷たい)
確かに生きていることを感じるのに、金蓮の手からは暖かさがなかった。
伝え聞いた彼女の過去。ただ自分より強いなにかに、無理強いばかりされてきた人生。冷たいばかりだった世界に生きていたことが、彼女から暖かさを奪ってしまったのだろう。
もしもこの場で彼女を抱きしめたら、ほんの少しでも温めてやることができるのだろうか。
再び湧き上がる邪念。だがそれが邪念と呼べるのかすら武松には分からなかった。もしかしたら慈愛というやつが混ざっていたのかもしれない。
武大に彼女を幸せにすることは、できない。
彼女を幸せにできるのは、自分だけ。
欲と愛とが混ざり合って、より強く武松をゆり動かす。
この気持ちを完全に消し去ることはできない。
武松にできたことは、必死になって兄の嬉しそうな顔を思い出して、それを封じ込めることであった。
「貴方の手、大きくて暖かいのね」
愛おしそうに金蓮が武松の手を撫でる。金蓮の指が徐々に手の甲から腕へ、そして腕から首筋へと達したところで、武松は飛びのく。
危ういところだった。封じ込められなくなるところであった。
「手伝いはいらねえ。茶くらい俺一人で淹れられる。アンタは座って待ってな」
目を逸らしながら武松は口早に言った。
金蓮は食い下がることはなく「分かったわ」と楚々と答えると、大人しく戻った。
どうにかしてお茶の用意を終えた武松は、碗を金蓮の前へ置く。
「はいよ」
「いただくわ」
金蓮が先に茶を飲むと、武松もぐいっと茶を流し込む。
特に高価なものではなかったが、茶の渋さが武松の頭の中を少しだけ落ち着かせてくれた。
「……金蓮。どうしてこんなに、俺の世話を焼く?」
武松も鈍い男ではない。金蓮の真意がなんなのか分かっていた。しかしどうしてそういう感情をもったのかは、見当がつかない。なにせまだ出会ったばかりなのだ。
「気にしないで。私は私の好きな事をしているだけだから。こういう風に自分の好きなことをするのは始めてだから、ちょっとおかしなことをしているかもしれないわね。そこはごめんなさい」
「俺の世話を焼くのが好きな事なのか」
「そう、好きなの」
「どうして……好きになった? 好かれる理由が分からねえ」
「言葉にするのは嫌よ。野暮だもの」
「それでも理由を知りてえ」
「だったら貴方がお兄さんを大事にしている理由を、言葉にして一から説明してくれる?」
「む」
返事に詰まる。言葉にすることはできるだろう。たった一人の肉親で、子供の頃から兄にはずっと助けられていただとか、そういうことを説明することはできる。
しかし金蓮の言うとおりそれは野暮だ。感情の証明は、計算の式のようにして出すものではないだろう。
「俺が間違っていた。説明はできるが、野暮だからできねえ」
「…………そうね。だけど武松、言葉じゃなくて行動でなら説明できるわよ」
金蓮の熱のこもった視線が雲の糸となって武松の心に這いよってきた。
誘われるがまま武松の手が金蓮へ伸びかける。だがその直前、
「武松~! 帰ったでござるよ~!」
親友の帰りを告げる声に、武松は手を引っ込める。
帰ってきた楊志は武松のように非番ではなかったにも拘らず、勤務中に酒を飲んでいたようで、酒気を帯びていた。
常人の十倍の能力をもつ人間が、人の十倍の成果を出すとは限らない。十分の一だけ働いて、サボる人間もいる。楊志はそれだった。
楊志は武松に向かい合って座る金蓮を見ると、陽気に笑う。
「これや驚いたでござる! 随分な別嬪さんがおるでござるなぁ! もしかして武松のこれでござるかぁ?」
金蓮が武松の家を訪ねてくるのは、見計らったように楊志が留守の時だった。
なので楊志が金蓮と顔を付き合わせるのはこれが初めてである。
「女っ気がない生活しているようでいて、やることやってるんでござったな! このこのー、拙者にも良い女を紹介してくれでござるよー!」
「そんなんじゃねえ!」
「ほえ?」
急に叫んだ武松に、楊志は目を丸くした。
「そんなんじゃねえ……あれは兄貴の……兄貴の嫁さん、なんだ……」
搾り出すように言う武松に、楊志はなにかを察したようだった。武松と金蓮の顔を交互に見比べて、あちゃーと頭を抑える。
「武松、それじゃ私は今日は帰るわね。楊志さん、で良かったかしら。義弟をよろしくお願いします」
楊志が帰ってきて貞淑な妻に戻った金蓮は、そう言うと帰っていった。
その後姿を武松は黙って見送ることしかできなかった。




