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俗物水滸伝  作者: 孔明
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第46話  武松、逃げ出す

 武大の家の居間に入った武松は、どかっと腰を下ろす。武大はそんな武松の対面にゆっくりと腰を下ろした。

 金蓮は台所仕事が残っているだとかで今はいない。その間にというわけではないが、武松は気になっていたことを聞いてみることにした。


「なあ兄貴。義姉……あの人と、どうやって知り合ったんだ?」


 武松は義姉を義姉上と呼べなかった。心が拒否したのである。


「金蓮は元々は金持ちの小間使いだったんだ。けど金蓮はこんな美人だから、その主人ってのがよからぬ感情を抱いたらしいんだよ」


 唾棄すべき下衆。これまでの武松ならばそう吐き捨てていたであろう人間に、何故か共感を覚えた。


「それでそいつが手をつけようとしたのを断って、正夫人に言いつけたら、逆恨みされっちまったそうでな。街で一番の醜男に無理やり嫁に出されることになったんだ」


「まさかその醜男ってのが兄貴か!? いいのかよ兄貴。そんなんで美女を嫁に貰ったら、馬鹿にされたのを認めるようなもんじゃねぇか」


「いいんだよ。お前はいつも怒ってくれるが、自分の顔が醜いことくらいとっくに分かってる。こんな顔じゃ誰も嫁になんざきてくれるはずがねえ。だから正直、結婚して家庭をもつことなんて半ば諦めてたよ。長男だってのにな」


「け、けどよぉ!」


「でもこの不細工な顔のお蔭で金蓮のような美人を嫁にできたんだ。この醜い顔での負債を返済して余りあるってもんさ」


 そう言われると武松には何も言えない。

 武大が容貌のせいでどれだけ周囲に馬鹿にされてきたか、武松が一番知っていたからだ。

 そうしていると台所仕事を終えた金蓮が、居間に入ってきた。


「なんの話をしているの? 私も混ぜてもらえるかしら」


「お前との馴れ初めを武松に話していたところだ。俺はちょっと物置に商売道具の天秤棒をしまってくるから、ちょっと武松の相手をしてやっててくれ」


 武大の職業は饅頭屋であった。武松はまだ食べたことはないが、街では中々美味いと評判であるらしい。

 武大が居間を出ていき二人きりになると、微妙な沈黙が漂い始めた。家の外の人々の喧騒がやけに五月蠅い。

 居心地の悪そうに黙り込む武松。しかし潘金蓮はこの沈黙すら楽しんでいるかのようで、薄く微笑んでいた。


「……なぁ」


 沈黙ではなく金蓮の微笑に耐え切れなくなった武松が、気を紛らわすように口を開いた。


「結婚の経緯は兄から聞いたんだが、アンタのほうは兄貴をどう思ってるんだ?」


「おかしなことを聞くのね」


 クスッと金蓮が声を漏らした。

 奇妙な期待感から、武松の心臓が裏返った。


「私の場合はちょっと特殊だったけど、この時代の女に男を選ぶ権利があると思って?」


 女性でも男根が生えてくる不思議な木の実が発見され、昔より立場も向上したし、実際に徽宗という女帝が誕生したりもした。女だてらに武官や文官として働いている者だっている。

 だが未だに女の立場というのは弱い。結婚相手は父親が勝手に決めるものが殆どで、自由恋愛で好きに相手を選ぶなど少数例だ。


「じゃあもしも選ぶ権利があったら、どんな男を選んでいたんだ?」


「そうね。顔の美醜は実はあまり気にはしていないの。美しいものと醜いものなら、美しいものを選ぶけれど一番ではないわ。私が惹かれるのは英雄よ」


「英雄?」


「ええ。人から拍手喝采を浴びるような、英雄の妻になれたら、女としてこれほどの幸福はないわ」


「はっ! そりゃ残念だったな。この上から下まで腐敗しきってる時代に、英雄なんて呼ばれる大層な人間はいねえよ」


「そうでもないわ。まずは宋家村の宋江」


 若い時から保正の子として才能を発揮し、宋家村を大いに発展させた男の名をあげる。困った人々に惜しみなく援助の手を伸ばすところから及時雨という渾名で呼ばれ、その名声は中華全土に轟くほど。英雄たるに相応しい人物だ。


「そして托塔天王・晁蓋」


 次に十万貫の生辰綱を奪取し、今や不義不正と戦う梁山泊首領になった男をあげる。生辰綱を奪われた梁世傑が復讐に軍を出したが、巧みな指揮で散々に撃退してみせた手腕は英雄たるに相応しいだろう。

 二人の名をあげた金蓮の顔はどこか淡々とした。本当に名前をあげただけという風であった。だが、


「それにほら、つい少し前にここでも虎殺しの英雄が生まれたばかりじゃない」


 金蓮は一拍置いて、頬をほんのり赤くして、武松を流し見た。


「ねぇ……武松?」


「――――っ!?」


 武松の中で無意識に抑え込まれていた情欲が、女の瞳で掴みだされた。

 湧き上がる欲望が理性を融解させる。武松が誘われるように女の体に手を伸ばしかけ、


「二人とも、待たせちまったな」


 寸前で兄の声により、手を引っ込めた。


(おいおい。待てよテメエ、俺はなにをしようとしてた? この女は……美人だが、兄貴の嫁なんだぞ! 兄貴がやっと掴んだ幸せを――――俺は今、どうしようとしていた?)


 武松は自分がやろうとしていたことに絶句する。

 努めて表には出さず、内心で狼狽しきりの武松を挑発するように、金蓮は更なる爆弾を投下してきた。


「そうだ、あなた。こうして再会したのもなにかの縁。武松にもここで一緒に住んでもらうというのはどう?」


「なっ!」


 何を言っているんだ、そう怒鳴りたいのに言葉が出てこない。


「武松も慣れない仕事で疲れがとれないでしょうし、私もあの虎殺しの英雄が一緒に住んでるなら、夜も安心して眠れるわ」


「それはいいな! 俺も武松が一緒だとなにかと心強い!」


 金蓮の提案に武大は無邪気に賛成した。武大からすれば誰よりも信頼する弟と、何年かぶりに一緒に暮らせるのである。反対する理由などありはしないのだ。


「俺は……」


 情欲と理性がぐちゃぐちゃになりながら、ぎりぎりのところで武松は前者を奥に押し込む。


「話はありがてえんだが、今は仕事を覚えている最中だし、刎頸の誓いをした親友と一緒に暮らしてるんだよ。だからすまねえな」


 作り物の笑顔を張り付けながら、渇いた声で言った。

 どうせ同じ職場に勤めるのだし、暫く一緒に住んだほうが都合がいいだろう、と楊志と一緒の家に住むことにした判断に救われた。


「そりゃ残念だ。だが同じ街に住んでるんだし、会おうと思えばいつでも会えるよな」


「そうね。いつでも会いに行けるし、会いに来てもくれるわよね?」


 これ以上は限界だった。これ以上、金蓮と一緒にいると自分はおかしくなってしまう。

 武松は金蓮から延びる見えない手を振り払うように立ち上がった。


「兄貴。じゃあ俺はこのあたりで帰らせてもらうぜ」


「なんだ? 久しぶりに再会したんだ。飯くらい食ってきゃいいだろう」


「そうしてえのは山々なんだが、今日中に片付けねえとならねえ仕事があったのを思い出してな。飯はまたの機会にしようぜ」


 用意した言い訳をすると、武松は逃げるように立ち去った。


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[一言] 武松、不倫はあかんぞ バレると、スポンサー契約解除されたり大変やで
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