第45話 武松、己の心を見失う
都頭となった武松と楊志。元エリート武官である楊志は都頭としての仕事をそつなくこなしていたが、武松はそうはいかなかった。
父親は武官であったが、武松自身は役人として仕えたことなど一度もない。役所勤めのノウハウが武松にあるはずがない。
だが武松自身にノウハウもなくとも、ノウハウのある知り合いはいる。信頼できるその知り合いに相談すればいいのだ。
言うまでもなくその相談相手とは楊志である。
「楊志。安請け合いしちまったけど、都頭ってなにをやりゃいいんだ?」
「難しいことじゃないでござる。街の見廻りをして、性質の悪い連中を取り締まったりすりゃいいんでござるよ」
「街全体の用心棒みてえなもんか」
「概ねそんなもんでござる」
「それならなんとかなるかもしれねえ」
柴進の屋敷に世話になる前、武松はその日の糧を得るため用心棒まがいの仕事をしたこともあった。その時の経験が活きるならまったくの無経験者ではない。
そう考えると少し気が楽になった武松であったが、まだ心配なことがあった。
「だが警備隊長となりゃ見廻りだけしてりゃいいわけじゃねえだろ。実は……俺はあんまり字が書けねえんだ。そういう書類仕事はどうすりゃいい?」
「別にお主が文字を書けなくても、部下に一人くらい書ける者がいるでござろう。文字が書けるようになるまで、その者に代筆させれば良い。武松は地頭は悪くないのだし、その気になれば直ぐに覚えられるでござるよ」
これは楊志の本心だった。
武松は無学同然の男であるが、それは決して頭が悪いというわけではない。単に学ぶ機会も学ぶ必要性も意欲もなかっただけだ。都頭としての仕事に必要となれば、意欲は自然に湧くだろうし、これが良い切っ掛けとなるだろう。
「大体……知事だって拙者たちにそんな能力を求めちゃいないでござろう」
虎殺しの英雄二人が街を巡察すれば、それだけでチンピラは恐れ慄く。英雄を配下にしている知事の評判も高まるだろう。
極論すれば武松が都頭という看板をつけて、街を歩くだけで普通の都頭十人に勝る効果を期待できるのだ。
それを考えれば字が余り書けないなど、大した問題にはならない。
「そりゃ分かってはいるさ。だが虎殺しの英雄の名声だっていつまでも続くわけじゃねえだろ。人間ってのは飽きやすいもんだ。今日の英雄も一年後にゃただの人さ。そうなる前に人並みの仕事は覚えておきてえ」
「それもそうでござるな」
かくして武松と楊志の二人が陽穀県の都頭として一週間が経った。
地頭は悪くない。
楊志のその発言の裏付けはこの一週間でとれた。
最初こそ初めての役所勤めに戸惑うことの多かった武松だが、楊志のサポートもあり直ぐに仕事を覚えると、大過なくそれをこなしていったのである。
自分の名前などの最小限の文字しか書けなかった頭も、みるみる他の文字を吸収していった。
もしも駄目だったら潔く辞めよう。そう決めていた武松だったが、どうにか今後も仕事を続けていける自信ができた。今なら胸を張って故郷の兄のところへ会いに行けるだろう。
今度の休みの日に隣街の兄を訪ねようか。街の巡回をしながら、武松がそう思った時だった。
「……あれ? お前、もしかして松か?」
懐かしく忘れられない声が聞こえた。
両親が他界した今、自分を『松』と名前だけで呼ぶ者は一人しかいない。
「兄貴! 大の兄貴じゃねえか!」
瞬間、反射的に武松は顔を綻ばせ叫ぶ。
武松より三回りは低い小躯、使い古された茶器のように浅黒い肌、鼻の穴は不自然に横に広がっていて狒々のようだった。背が高い色白な美男の武松とは、対極の容貌といえるだろう。だが間違いなく二人は同じ血を分けた実の兄弟であった。
「やっぱり松だったか! いやぁ、お前は見ないうちにまた一回りデカくなったなぁ」
「でけぇのは図体だけだよ。中身は昔のまんまさ。そういう兄貴は変わらねえな。俺の大好きな兄貴のままだ!」
武松と武大は互いの手を握り合って再会を喜ぶ。
にっと愛嬌のある笑みを浮かべる武大は、武松の記憶にある優しい兄そのものだった。
「でも隣街に住んでたはずの兄貴が、どうしてこの街にいるんだ?」
「色々あってこっちに引っ越したんだよ。そういう武松こそどうしたんだ? その恰好は役人のもんだろう。どうしてこんなところで役人をしてるんだ?」
武松は景陽岡で友人と人食い虎を殺し、知事に都頭にスカウトされたことを話した。武大は少しだけ驚いていたが、納得の色のほうが強かった。武大は弟の強さも性格もよく知っていたのである。
「ははははははははははは! そいつぁお前らしい話だな! そうだ、これから家に来ないか? うちの家内も紹介したいし」
「家内だって! 兄貴、結婚してたのか。そりゃめでてぇ!」
「へへっ」
「こりゃ義弟として義姉に挨拶しねえといけねぇな」
兄の幸せを、武松は自分のことのように喜ぶ。
「見て驚くなよ? 目の覚めるような凄い美人だぞ」
「そりゃ楽しみだ。じゃあ行こうぜ」
美々しい武松と醜男の武大の正反対の兄弟は、周囲の奇異の視線など気にもせず、昔話に興じながら歩いていった。
久々の再会である。話の種は尽きなかった。
(それにしてもやっと兄貴の良さを分かってくれる女が現れてくれたか)
武大は暴れん坊で喧嘩三昧の武松を、いつも庇ってくれた人間のできた人だった。
もしも武大という兄がいなければ、武松は体が成長しきる前に、ヤクザ者に無謀な喧嘩を挑み殺されていたことだろう。
しかし周囲の者は武大の優しい内面を見ようともせず、外見だけを見て馬鹿にしてばかりだった。そういう連中を片っ端から殴りつけてきた武松であったが、それでも武大への悪口が完全に消えることは遂になかった。
だからこそ自分以外に兄を好きになってくれる人が現れたことは、武松にとって本当に喜ぶべきことであった。
「着いたぞ。ここが俺の家だ」
武大の足が止まる。故郷の家よりは小さかったが、夫婦二人だけで住むには大きい家だった。
「おーい、金蓮。帰ったぞ、開けてくれー!」
はい、という返事が家の中から返ってくる。心がくらりとくる耽美な声だった。
家から一人の女性が姿を現す。
――――時間が止まった。
比喩ではない。その女性を見た瞬間、武松の心臓は驚きの余り数秒停止した。
濡羽色の髪に振れれば手折れてしまいそうな華奢な体と、亡国の姫君のように儚げな瞳。
かつて群衆の中で見出した女性が、今こうして目の前に立っていた。
「なっ……あ、アンタは……!?」
「あら、貴方は……?」
暫し見つめ合う二人に、武大は首を傾げた。
「なんだ金蓮。二人とも知り合いだったのか?」
「い、いや。知り合いってほどじゃ……ねぇよ。一度チラッと顔を見ただけで」
「前に虎殺しの英雄だって、ちょっとした騒ぎになったでしょう。その時に野次馬と一緒に見に行ったのよ」
しどろもどろになる武松と違って、金蓮と呼ばれた女は淀みなく答えた。
「ああ、あの時か! あれが武松のことだって知ってりゃ俺も見に行ったんだけどなぁ。
金蓮、紹介しよう。俺の弟で今はこの街の都頭をしている武松だ!」
「……武松だ」
短く名前を告げる。
「それでアンタの名を、教えてくれ」
「金蓮よ。潘金蓮、宜しくね……武松」
女に自分の名を呼ばれた時、武松は心の中がざわつくのを感じた。
これまで経験したことのない未知の感情だった。
「どうだ武松! 言った通り目の覚めるような美女だっただろ?」
武大は美人な嫁を紹介できたことが、よっぽど嬉しいのか満面の笑みを浮かべて言った。
「ああ、そうだな」
一方の武松は困惑していた。
これまで兄の笑顔が大好きだったのに、今はそれが腹立たしくてたまらないのである。
もし目の前にいるのが兄ではなく赤の他人だったなら、きっと武松は殴り倒していただろう。
武松は己の心が分からなくなっていた。




