熊野灘
尾鷲海上保安部に所属する巡視船すずかは、三重県紀北町、佐婆留島南東の沖合にいた。
「尾鷲保安部、こちらすずか。感度いかがか。どうぞ。」
『すずか、こちら尾鷲保安部。感度良好。どうぞ。』
「本船はこれより津波及び沿岸部の状況を実施する。どうぞ。」
『了解。保安部はこれより屋上へ退避する。終わり。』
つい先ほど、漁船の監視を実施していたすずかは、洋上で地震に見舞われた。当然ながら揺れもなく、海鳥の大群の飛翔と、水面に噴き出してきた気泡だけが急を伝えていた。
「方位0・9・5、速力2・0ノット。」
津波をただの大きな波であると思っている人は多いだろう。津波は海底の地盤が動くことで持ち上げられた水の塊であり、通常の高潮などとは比べ物にならない巨大なエネルギーを持っている。洋上でも例外ではなく、波高次第だが、腹から横向きに突っ込むと転覆の恐れもある。船は針路を震源へ向け、正面から津波を乗り越える姿勢を取る。
「見えたぞ!あれじゃないか!」
右舷から声がする。艦橋から前方を見やると、遠くの水平線が白く波立ち、動いている。
「総員船内へ退避!」「最大船速!」
水平線は段々と近づき、大きくなる。波頭で崩れる波がはっきりと見える。
「衝撃に備えろ!」「来るぞ、来るぞ。」
すずかは最大船速である30ノットで津波に相対した。船体が垂直方向に持ち上げられ、そしてゆっくりと水平に戻る。
「5mくらいか?」「でかいぞ、大丈夫か。」
海上保安官らは顔を見合わせ、陸地の非常を憂う。
御浜桃香は、三重県熊野市役所商工・観光スポーツ課に勤めている。熊野市役所の開所時間は17時15分までだが、窓口が閉まっても役所の業務は終わらない。夏の大花火大会の宣伝のための企画書を作っていると、突然激しい揺れに襲われた。
「きゃっ」
短く悲鳴を上げた束の間、携帯が震え、叫びだした。
『地震です、地震です。』
「でかいぞ!伏せろ!!」
男性職員が叫ぶ。女性職員が悲鳴を上げる。棚が倒れ、コンソールがデスクから落ちる。掛け時計が吹き飛び、床を転がり跳ねる。無数の書類が舞い、散乱する。
「長かったな。」
誰かが呟く。1分以上は揺れていたのではないか、と御浜は思った。
「川口、外にいる市民の方を誘導するぞ。」
男性職員2人が部屋を飛び出し階段へ向かう。
『こちらは、広報くまのです。ただ今発生した地震により、大津波警報が発令されました。』
外のスピーカーから放送が流れる。上へあがらないと、荷物はどうしよう、車の鍵はどこに行ったんだろう、実家は大丈夫かな、外が気になる。御浜の脳は混乱する。
「おい!上がるぞ!全員来い!」
叫んでいるのは確か防災対策推進課の人だ。混乱しながら、とりあえず近くにあったノートPCを小脇に抱え、御浜は階段へ向かう。庁舎は5階建で、御浜のいた商工・観光スポーツ課は4階である。階段では、残っていた市役所職員みんなが駆け上がっていた。
「あ!」「危ない!」
階段を踏み外した御浜は、先程の防災対策推進課の男に支えられる。
「すみません。」
軽く頭を下げ、また階段を上る。屋上にはすでに50人以上が避難していた。みんなが海の方を見つめている。大津波警報。テレビで見た、東北の津波を思い出す。
「こっち!急いで!」
市職員に支えられ、4人家族が屋上に飛び込んできた。屋根の縁に立って下にいる人たちを呼んでいる人もいる。
「津波だ!見えた!津波が来た!」
叫び声を聞き、海に目をやった御浜は、水平線が白み、そして高く持ち上がっていく様子を目にする。稲倉稲荷神社の鎮守の森の向こう、美しい七里御浜のさらに奥から、巨大な水の壁が押し寄せてきていた。あっという間に七里御浜を呑み込んだ海水は、鬼が城の岩場に打ち付け、獅子岩に覆い被さり、そしてついに堤防を越えた。
「溢れる!溢れる!あっ!」
堤防を乗り越えた津波は国道42号線を水面へと変え、井戸川から浸入した津波は遡上しJR紀勢本線の橋梁を破断させた。黒々とした波が家々を押し流している。車の防犯ブザーが何重にも鳴り響いている。
「さっきの人は?自転車の!どこいった!」
「高いぞ!なだれ込んでくる!ここも危ない!」
周りを怒号のような勢いで言葉が飛び交う中、御浜は1人、波の下へ消えた地元を呆然と見つめていた。
次々回あたりで発災編は終わりにしようかと思っています。もしかしたらもう少し長いかもしれません。




